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お金の心配がない人生を手に入れるためにお金が必要であるという矛盾

私はお金のために生きているわけではない。

ただ、安心して生きていきたいだけ。

贅沢をしたいわけでもない。

ただ穏やかに、健やかに、のんびりと生きていきたいだけだ。

でも、この世の中を家族揃って安心と共に生きていくためには、どうしたってお金が必要だ。

贅沢したいわけじゃないし、社会的地位も名声もいらない。そんなものとは真逆の生活を求めているのに、お金が必要になってしまうのが今の社会だ。

お金はこの世の価値を内包し過ぎている。

夜の街で派手に夜遊びするために使うのも、飢えた子供を救うために使うのも、親にディナーをご馳走するために使うのも、全く同じ形をしたお金だ。

私は今、このお金という魔物について日々考えているのだ。

お金の心配がない人生を手に入れるためにお金が必要であるという矛盾。

今日はこれについて考えてみる。


お金にこびりつくイメージ

「お金持ちは下品だ」

そんなふうに感じている人も少なくないと思う。かく言う私もその中の一人で、お金持ちというのは欲に溺れて酒、夜、高級品に溺れていくイメージを今でも拭いきれずにいる。

しかし、これは冷静にみて極めて偏ったお金持ちの解釈である、ということもよくわかっている。

同じ1万円札でも、それを使う人の想いによってこの世に全く異なるエネルギーを生み出せるのがお金だ。使い方で色を変える魔法の物質。

その使い方が「お下品」に見える人が目立つのだ。上品な人は目立たない。これはこの世の常のように思う。だから何の抵抗もなく世間からの情報を浴びている人には「お金持ち=下品」→「お金を稼ぐこと=下品」という方程式がゆっくりと刷り込まれてしまうような気がしている。


会社員という立場がもたらすもの

日本で育てば、アルバイトや会社員という立場で初めて「お金を稼ぐ」という経験を得る人が多いと思う。これは組織の歯車として労働力を渡す対価として「会社からお金をもらう」という構図だ。契約の段階で給料が明示されていることがほとんどで、「働いたぶんだけお金をもらう」という認識によって成り立つ稼ぎ方だと思う。

私が注目しているのは、これは「すでに存在するビジネスの部品としての価値の対価として組織からお金をもらう」という構図であり「自分が生み出した価値の対価として価値の受け取り手から直接お金をいただく」という構図ではないということだ。

要は、組織の一員として給料を貰う立場だと、お金をもらうということに対する「責任感」のようなものが薄まっているように私は感じるのだ。実際、自分がお客様に提供した価値に対する責任も、最終的には会社がとることになる。だからそれは当然のことだ。

だから、私も含め、組織に雇われている立場で数年を過ごした後に、いざ独立して「自分の価値に値段をつけて販売しよう」と思った時に、びっくりするくらいに強い抵抗感が生まれるのは当然のことだと思う。

要は「怖い」のだと思う。責任が全て自分に帰すという体験がないから。

この恐怖は「責任感」からくるものだと思っていて、責任感のある真面目な人ほどここで立ち止まってしまう傾向があると私は分析している。


勇気を出して踏み出してみるんだよね

とは言え立ち止まってもいられないので、自分のコンテンツに値段をつけて頑張って売ってみる。うまくいけば売れる。嬉しい。本当に嬉しい。

しかしここで次の壁が立ちはだかる。

嬉しいんだけど、これでは生活はできないな…

自分のコンテンツでお金をいただくということの喜び、厳しさ、楽しさを感じながらも、甘くない現実がのしかかってくるのだ。

こうなった時に多くの人は「もっと稼げるようになろう」と考える。そこでインターネットを使って調べていくと、必ずここに辿り着くはずだ。

稼ぐ系情報発信者のノウハウだ。

強い言葉が並ぶ。人の心理を利用して買わせるテクニック。購買意欲を掻き立てるワザ。自分で決めたと思い込ませる煽り方。

真面目で正義感の強い人はここで疲弊する。

私にはとてもじゃないけど、こんなことはできないよ…


焦燥感

短期的に収入を上げる方法を探しても自分の正義感や倫理観が邪魔をして、立ち止まってしまう。でも、このまま今のペースでやっていても楽しさはあるけど生活は苦しいまま。時々魔がさして「試しにちょっとだけノウハウっぽいことを使ってやってみようか」なんて思うけど、制作の途中で正義感が顔を出して「やっぱりこんなことできない」と振り出しに戻る。

差し迫る焦燥感。ちくたくちくたく。

気付けば「楽しさ」すら薄れていることに気づく。

ここで原点に立ち戻る。

「安心」のためにお金を稼ごうとしているのに、お金を稼ぐために「不安」の渦の中に入っているじゃないか。

これでは、お腹を満たすために狩りに出かけたのに、走り回り過ぎて逆に空腹が増しているようなものだ。

私たちは、このジレンマから抜け出さなければならない。


浮葉のひらめき

さきほど、そんなことを考えながら公園で117円のごま団子(大好き)をかじってぼーっと空を眺めていたら、ふとあることに気付いた。

Be Do Have の法則だ。

私が欲しいのは安心。
だからBe Do Haveの法則に則るならば、

私は安心の中にいる(Be)。
安心がどんどん深まるような行動(Do)をしてしまう。
それに相応しいお金(Have)がくる。

であるはずなのに、
私がやっていたのは、

安心できるお金を手に入れる(Have)。
だから安心な行動ができる(Do)。
安心の中にいる人になれる(Be)。

これだった。

これは・・・。
普段草など生やさない人間だが、これには流石に、

wwwwwwwwwwwwwww

と書かざるを得ない。

あれだけ偉そうに

1 + 1 = 2 くらいの基本なので覚えておくといいですよ。

あの日の浮葉

とか言っておいて・・・

自分が思いっきり「Have」から求めて苦しんでいるじゃないか・・・。

ということで、私はまた戻りました。

安心できるお金を手に入れる(Have)。
だから安心な行動ができる(Do)。
安心の中にいる人になれる(Be)。

これは逆だから、

私は安心の中にいる(Be)。
安心がどんどん深まるような行動(Do)をしてしまう。
それに相応しいお金(Have)がくる。

これに戻る。

私は、安心の中にいる。


ブレてもいいんだよ

自分を正当化するために言うわけじゃないが、人間なんてそんなもんだ。大事なのはそれに気付いた時の反応。「おっとっと」とすぐに戻る。今回の私のように笑い話にしてすぐに戻る。これこそがいつも私が言っている「軽やかな人」の特徴だ。こういう人は引き寄せが上手い。

私がこれまで出会ってきた「しあわせな人」は、潔く負けることができるし、間違えることを初めから受け入れている。「昔から今までずーっと正しい自分」ではなく「今この瞬間に胸を張れる自分」であることを大切にしている。私もそうでありたいと思って生きているので、すぐに戻れる。

この考え方は実は私がいつも話している「ライフチューニング」の根幹にあるものだ。絶対に狂わない生き方を手放して、狂ったら戻ればいい、という考え方を手に入れること。これが本当の安心につながっていく。

もう一度唱えよう。

私は、安心の中にいる。

忘れちゃったら、何度でも、
戻ってきて、唱えればいい。

私は、安心の中にいる。

相応しいモノは、勝手に引き寄せられてくるんだ。

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