7/22 上手に書く その2

困った。
Tyler, The Creatorの曲がDAMに4曲しか入っていない。

先月行ったカラオケでの選曲が、あまり自分らしくなかった。自分らしくなかった上に、ムードや相手に合わせて曲を選ぶ所作も不手際であった。まず、人数が多かった。次に、その日のメンバーの組み合わせ、これが難敵であった。自分よりも10個上の人と10個下の人が同じ部屋に居て、その日の主役はアニメ好きのスペイン人男性であったから、層が縦にも横にも広く、ハウリングも酷かったせいで、反省が残るものになった。滋賀県民とアニソン好きスペイン人がいたから、間をとってT.M.Revolutionが歌っていたガンダムの曲を選んだけれども、イントロが流れ始めた段階で選曲を外したことに気づいた。或いは、メンバーによっては盛り上がった曲ではあったのだが、年下の女性も多い空間で、2002年のガンダムの曲を選ぶこと自体ナンセンスだったのだ。T.M.Revolutionの曲を選ぶにしても、Hotlimitを選んだ方が選んだ方がベターであった。どちらにしても、あの場でT.M.Revolutionを選ぶのは悪手であった。

あの日、何を歌えば良かったのか。

よく聴いている曲がDAMにもJOYSOUNDにも収録されていないことが多い。歌手の名前が検索で見つかっても、自分が好きな曲が収録されていない場合も少なくない。そのため、カラオケで歌いたい曲と聴きたい曲には距離がある。2024年から2025年は歌唱力を伸ばすための曲を練習していたけれど、2026年の私は自分らしい曲を練習する段階に来たと感じ始めた。去年は宇多田ヒカルやKing Gnuを歌うことが多かった、しかし、今年の自分とは距離が広がった様に感じられる。

好きな曲といっても、今の自分が好きな曲、5年前の自分が好きな曲と、10年前の自分が好きな曲は大きく異なる。時代も変わったし、自分のあり方も変わった。子供の頃に口ずさんだアニメソング、初めてのコンサートで痺れたロックソング、先月友達に教えてもらった韓国のポップソング、いずれも好きな曲というタグが付いている、しかし、それらを同じテーブルに並べた瞬間に違和感が生まれる。その違和感の正体は、非常にわかりやすく、現在地との距離である。最近知った曲ほど現在地の自分に近いのはもちろん、現在地からは離れて見える、あるいは、矛盾している様だが今はそれほど好きと言えないような曲も「好きな曲」に含まれる。そもそも「好き」と言う感情はどのような形状なのか。これは自分を「点」として観るか「線」として見るかの違いで、自らを点として見た場合は「好きだった曲」を「好きな曲」と分けて考えることが容易である。しかし、jumpとjumped、eatとatenといった動詞には明確な時制の違いがあるのに対して、loveとlovedを区別するのは難しい。例えば、「10年前にあった「好き」という感情は今ここにないけれども、振り返った時、確かにあった「好き」という感情に触れることができる」のならば、それは「好き」に含まれると私は解釈する。なぜなら、感情というのは不安定なもので、「好き」と「好きじゃない」が交互に揺れるのも、また感情の正しい姿であるから、好きという感情に明確な時制を与えること自体が難しいのである。数秒前までは「好き」に近かった感情も、一つ、二つの情報が加わることで、容易く別の感情に変化する。そもそも、「好き」と言う感情は直線ではなく波として現れるものである。音楽それ自体が心をゆさぶる様に設計された波である様に、もちろん高く評価される曲が必ずしも感情を激しく揺らすものではないが、それに付き従って動く心から生み出される感情も、やはり波である。すなわち、「好き」と言う言葉が指し示す感情には「好き」「好きだった」「好きじゃない」「好きかも」の全ての状態が内包されるのである。そして、今この瞬間の「好き」が波である様に、縦軸(emotion)をそのままに、横軸(time)をグッと広く、対象に出会ってから死ぬまでの数十年間にグッと広げると、やはり、そこにも直線ではなく波形が現れるのは明白である。心は揺さぶられるほどに記憶に残るものであるから、波が荒れるほどに「好き」も強くなる。もちろん、赤子が揺籠に選り好みを持つ様に、穏やかな揺れ、凪に近い波を与える為の音楽があることを忘れてはならない。「好き」と言う言葉で容易く感情は表現されうるが、曲であっても本であっても、心を動かされた対象ごとに異なる好きのグラフが存在する。それらの無数のグラフの集合物として、その人間の「好き」という言葉は逆説的に定義される。子供の言う「好き」が無知と本能に根ざすのに対して、大人は過去の感情を引用し、模倣しながら、今日の「好き」を構築してしまう傾向にある。「好き」が波であることを無視して、「昨日もその前も好きだったのだから、今日も好きである」と考えることが自然になれば、感情が本来持つ揺らぎの価値は個人の中で小さくなり、知らないことへの興味が薄れる。故に、大人が新鮮味を持って「好き」を感じ続けることは難しい。プレイリストに新しい曲が入らなくなってきたら、危険信号である。流れない水は腐るのだ。

ここで、曲という言葉が指す対象を、数分間のリピートされる波から、タグ付けされた創造物へと変えてみよう。音楽の評価は、作り手に対する認識や、曲を聞いた時のあなたの感情によって左右される。アーティストの社会的評判に作品の価値が紐づけられること、流行という意図された偶発性に加えて、あなたが持つその曲への理解度や音楽全般への教養の変化によっても曲に対する印象と評価は変動する。例えば、2018年の5月にリリースされたDA PUMPの”U.S.A”は冗談みたいな曲として世に出た。当時、博報堂に勤めていたシンガポール人のルームメイトは、初めてMステで披露されたこの曲を観て「どっちかの昼は夜?バカみたいな曲。」と評していたのを覚えている。しかし、私は初めてこの曲を聴いた時から、彼女とは違う違和感を感じ取った。この楽曲が92年イタリアのユーロビートを元に日本向けのポップソングとして再構築していること、ボーカルであるISSAの実家が沖縄米軍基地の隣にあったこと、彼らが2024年に出演した音楽番組でパレスチナカラーの衣装を選んでパフォーマンスをしたことを知ってから、この曲に感じていた違和感、与えるべき評価は確かなものになった。私自身、この曲の背景を知ったことでDA PUMPへの評価が「昔流行っていた」から、「日本音楽史に残る功績を築いた」へと変わった。紛れもなく、この楽曲は日本の音楽産業の仕組みに従って流行るために作られた曲であり、表面的にはそうであることを疑わせないと同時に、極めてポリティカルでクリティカルなメッセージを持った稀有な構造を持つ作品なのである。数十年に渡って日本国内の音楽産業では社会性や政治性と、音楽的表現が大きく分断されていたことを鑑みると、この楽曲の存在の異質さが際立つ。サッカー部が真似したくなることと、作品として文化的な価値があることが両立されていたのである。曲が売れる程、バズる程に、日本とアメリカと沖縄の関係、コロニアリズムが看板を付け替えたに過ぎないグローバリズムの構造は浮き彫りになり、資本主義の中における芸術と娯楽の境界線が揺さぶられた。大衆と資本主義自体を作品に組み込んだポップアートを世に放ったアンディウォーホルに対して、DA PUMBのU.S.Aは大衆向けのポップソングのまま現代アートとして評価できうる構造を成立させてしまったのである。時を同じく、2018年の5月に世に出たのがChilldish Gambinoの”This is America”である。文化的に蹂躙された歴史をポップソングにカモフラージュしたISSAに対して、Chilldish Gambinoは国家の堕落と腐敗の実像を内側から外側に向けて一斉送信したのだ。この、あまりによくできた偶然性すら”U.S.A”の評価から外すことができない。

さて、現代アートの力学を説明する必要がある。気を抜くと、誰もが現代アートに興味があると誤った認識で話を進めてしまう。現代アートから市場価値や希少性、技術力といった評価を取り除いた時に、残るものについて考えたい。少なくとも私は、それが現代アートの魅力の最たるものであると考える。不思議なことに、現代アートには、提示された作品が一見してアートに見えない時、現代アートとしての魔力が強くなる性質を帯びている。この性質は位置エネルギーに近く、その作品が引用している事象や構成要素が、現代アートの潮流や大衆認識からかけ離れるほどに、現代アートとして定義された、評価されてしまった瞬間の破壊力を増す。「知っている」を模倣し続ける文化に対して「知らない」を提供してくれることに、現代アートの社会的な価値がある。その「知らない」は、遠い国で生きている一人の人間の人生かもしれないし、作品を通して言語化されるあなた自身の感情かもしれない。私自身がそういった測量で作品を評価しているという偏りはあるものの、Clement GreenbergやMarcel Duchampから生まれた現代アート自体が、既存の芸術を疑う、権威に対するアンチテーゼを重ね続けるという構造を持っている。例えば、ファッションデザイナー・Alexander McQueenの”Highland Rape”(1995)はイギリスのスコットランド侵略と蹂躙の歴史、歴史の影に葬られた女性への暴力をランウェイの上で表現した。乱暴に破られたタータンチェックを纏ったモデル達は、よろめき歩き、観衆の目を追い越した。誠実とも露悪的とも非倫理的とも受け取られうるこのコレクションは、当然の様に議論をよんだ。しかし、この議論を巻き起こすこと自体がMcQueenの狙いであった。スポットライトでパールやダイヤモンドを輝かせ美を競う競争を降りて、語られることのなかった舞台の裏側に照明を向けたのだ。それまで存在した美の定義、ファッションの定義を彼は激しく揺さぶったのだ。美しいだけの作品に、芸術としての価値はない。一つの音楽に対する感情が揺れ動く様に、現代アートやファッションの業界に限らず、純粋な美しさも絶対的な評価も存在しない。あるとすれば、広告屋が流布する虚像として存在するのみである。もちろんその虚像を信仰する自由は存在するが、虚像を作った人間や集団の意図があることを忘れてはいけない。奈良の大仏であっても、Diorのモデルであっても、ステーキ屋の看板で肉を食べている牛のキャラクターであっても、虚像という意味では大差ない。共食いする牛を見て、誰が食欲をそそられるのだろうか。誰かが得をする時、反対側には損をする人間がいる。どっちかの昼は夜なのである。

話を戻そう。

どこに?

そうだ、カラオケに居たんだ。

僕は相手が本当に好きな曲を歌っているのが聴きたいし、自分もそうでありたい。この文章を書き始めて書き終わるまでに時間が空いたから、その間にも何度かカラオケに行っている。あの小さな個室の中でも、或いはスナックでも、僕は揺さぶられたいし、揺らしたい。カラオケとは社会であると同時に、自由な個人の舞台である。模倣という制約の中でこそ、人間の個性が自然と滲み出る。そういう時、10年前も好きで、現在地で聴いても好きと言える曲こそが、自分らしい曲と言えるのではないだろうか。しばらく考えて、Tyler, The Creatorが頭に浮かんだ。彼は10年前にも好きだったし、今聞いても素敵なアーティストだと感じる。純粋に曲が好き、というよりも、作品へのアプローチ、キャリアの中での変化、彼の美学を含めて好きなアーティストだと感じる。そうだ、Tyler, The Creatorを次からカラオケで歌ってみたい。これは決まりだね。よし、どの曲から練習しようか。ん?

Tyler, The Creatorの曲がDAMに4曲しか入っていない。

4?

4 Tyler, The Creator?

4[T, TC]?

今、1番好きなアーティストは収録すらされていないし、それよりも自分らしさでは僅かに劣るが知名度では勝るアーティストを選んでも、その収録曲は僅かである。ほな誰がええやろうかと悩んで、ファッションピープルにもインターネットナードにもストリートヘッズにもそれなりの知名度があるTyler, The Creatorを持ち曲にする、これは正解だと思った。しかし、4曲しか入っていない。近いところでA$AP Rockyを探したけれども、同様に4曲しか入っていなかった。Tyler, The Creatorがどんなアーティストかと言うと、センスのあるPharrell Williamsであり、気さくに話せるKendrick Lamarである。キャリアの早い段階でラッパーとして成功し、コンセプチュアルなアルバムでも評価され、2011年に創業したウェアブランドのGOLF WANGもクールだ。有名人が手がけたブランドってがっかりすることが多いけれど、彼はその野心に美学が伴っていることを証明し続けている。そういえば最近、知り合いのギャラリーのオーナーがTyler, The CreatorにDMを送って無視されていた。ともかく、日本でヒップホップが市民権を得て黎明期は既に超えているのに、Tyler, The Creatorがカラオケに4曲しか収録されていない。これは個人的な問題を超えて、社会問題である。少なくとも第一興商(DAM)や株式会社エクシング(JOYSOUND)には「Tyler, The Creatorすくなない?」と言える人材が欠如している。単に、Tyler, The Creatorを好きな人の多さと、カラオケで歌いたい人の多さは比例しない、それだけの話かもしれない。もしかしたらGOBLINの頃のTyler, The Creatorがキモすぎて、出禁になったのかもしれない。しかし、その不安はかき消された。大垣書店、京都で知らぬ者は居ない書店に併設したカフェでこの日記を書いていると、偶然にもTyler, The CreatorのEARFQAKEがUSENから流れてきた。横のお客さんもノってる。ほら。せやんな?「誰それ?」の人じゃないよな?Tyler, The Creator側も、うっかりカラオケに来たらビックリすると思う。「僕、10年以上キャリアあるし、ヒット曲もあるし、日本公演も満席にしてんねんけどな。え、EARFQAKEカラオケに入ってへんの?次のサマソニ、出んのやめよかな…」

そもそも、カラオケの収録曲とは、いったいどの様な基準で選ばれているのだろうか。気になって調べると、どうやらリクエストというシステムがあることを知って、試しに一曲だけリクエストしてみた。けれども、このリクエストに応える業務は、エクシングや第一興商などの社内でどの程度の優先度なのだろうか。国内の通信カラオケ産業はエクシングと第一興商の事実上の寡占に近い。ひとつひとつのリクエスト曲を実装する業務が企業の成長に直接繋がるとは考えられず、ラジオのリクエストとは違って収録曲をひとつ増やすにも予算はかかるため、ファン層の限られた楽曲を収録する余裕が果たしてあるだろうか。複数のユーザーからリクエストが集まることで、ようやく収録を検討し始める、そういう動きが想像できる。このリクエストの仕組み自体の知名度が低く、熱心なカラオケファンでなければ曲のリクエストをしようとは考えないだろう。

気になってエクシングの社員紹介を読んでいた。そもそもどんな人がどんなモチベーションで働いている業界なのだろう。以下に、株式会社Xing(エクシング)のマーケティング部社員の声を引用する。「興味や熱量だけではうまくいかないこともあります。以前、自分の周りで人気があり、自分もすごく好きな楽曲について、「どうしてもJOYSOUNDに入れたい」と思って、上司にも協力してもらいながら別部署へ掛け合ったことがありました。実際に配信も実現して、先方にも告知協力をしていただき、SNSでもかなり力を入れて発信したんです。SNS上では反応もあったのですが、ランキング上位に入る曲にはなりませんでした。その時に、自分や周りが好きという感覚だけでは駄目なんだと実感しましたね。今の上司は、本質を気付かせてくれる人で、企画を持っていくと「なぜそれをやるのか」という理由を常に求められます。最初は感覚で「これは絶対いい」と思っていたことも、掘り下げてみると、「こういう理由があるから良いんだ」と気づくことが多くて。そういった経験を通して、「好きだから」だけで進めず、理由付けや言語化を意識できるようになってきたと感じています。」

私はこの文章に少くない共感と感銘を受けた。労働と感情の距離を説明するにあたって、彼女の発言は正鵠を射る。世の中、何を話すかよりも誰が話すか、それが重視されがちであり、私もそういった派閥に属する人間だと無意識に受け止めていたけれども、どうやら違ったらしい。顔も名前もわからないが、仕事ぶり、そこから透けて見える彼女の人物像は読み取れる。「好き」という感情がなければ彼女の様な熱意は生まれず、しかしその「好き」の感情だけでは仕事にならない。前の職場に居た時の自分に教えてあげたい。好きなものに関わる仕事であったのに、その感情だけでは上手くいかず、途中から冷めた態度を取るようになった。残念ながら、彼女の上司の様に的確な助言を与えてくれる存在を得られなかったことも、同様に反省したい。運の側面も大きいが、周りに期待をするということではなく、助言を得られる様な振る舞いを工夫することはできたが、それを怠った。前職では自分の「好き」が否定された様に感じて、また職場意外の繋がりも増えたから、それほど知識のない業界に転職した。好きの感情が無ければ熱意を持って働くことは、少なくとも自分には出来ない。自らの感情に対して誠実であることに順守する時、自分の言葉には説得力が生まれ、それが相手を動かすこともある。自分の感情に誠実でなければ、相手の感情を如何にして動かせよう。同時に、感情に嘘をつかない姿勢は、防御を捨てた姿勢であるから、怪我をすることがある。自分にも相手にも嘘をつく姿勢は、身を守る為には正しい姿勢であるが、それが出来る人間なら初めから苦労はしないのだ。しかし、感情に正直に働くか、嘘をついて働くか、それは2択ではなかったのかもしれない。何事にも常に3つ目の答えを想定する必要がある。大事な基本を忘れていた。そもそも、現代アート自体が3つ目の答えを出す為にあるのだ。青と赤の間には、無数の紫があるように。

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