見出し画像

夢なんて持たない方が幸せだ | 創作大賞ビジネス部門

#創作大賞2026
#ビジネス部門


夢を持て、と言われるのが嫌いだった。

子どもの頃から、ずっと嫌だった。

「将来の夢は何ですか?」

明るい質問みたいな顔をしている。
でも、あれはなかなか重い。

夢がある人は、すぐに答えられる。

野球選手。
ケーキ屋さん。
先生。
漫画家。
歌手。

でも、夢がない人は困る。

何か言わなきゃいけない。
空欄ではいけない。
ちゃんとした未来を、差し出さなきゃいけない。

子どもなのに、もう人生の企画書を書かされているみたいだった。

大人になっても、それはあまり変わらない。

「これからどうなりたいですか?」
「目標はありますか?」
「5年後、10年後のビジョンは?」
「あなたは、何を成し遂げたいですか?」

また聞かれる。

どうやら、人は何かを目指していないといけないらしい。

何者かになろうとしていないと、いけないらしい。

今ここにいるだけでは、足りないらしい。

僕は、この感じがずっと苦手だった。

夢を持つことが悪いとは思っていない。

夢に救われる人もいる。
夢があるから、つらい時期を越えられる人もいる。
遠くに光があるから、今日を歩ける日もある。

それはわかる。

でも、夢という言葉は、少し大きくなりすぎる。

夢と言われた瞬間に、なぜか立派なものを答えなければいけない気がする。

有名になる。
成功する。
起業する。
出版する。
メジャーデビューする。
社会を変える。
何者かになる。

そういう、人生サイズのものを求められている気がする。

でも、本当に人を幸せにするものは、そんなに大きなものばかりだろうか。

今日、ちゃんと眠れた。
温かいご飯を食べた。
猫がかわいかった。
天気がよかった。
少しだけ体が楽だった。
誰かが笑ってくれた。
一日が、なんとか終わった。

そういう小さなことのほうが、よほど人生を支えていることがある。

なのに、夢を持つと、今が全部「途中」になる。

今、少し幸せなはずなのに、

「いや、まだまだだ」
「こんなところで満足してはいけない」
「もっと上に行かなきゃ」
「まだ叶っていない」
「まだ何者にもなれていない」

と、自分で自分に言ってしまう。

せっかく目の前にある幸せを、受け取れなくなる。

こんなにもったいないことはない。

なんてったって、メジャーデビューしても、一切幸せを感じなかった僕が言うのだから。

可児波起作品集

音楽をやっていた人間にとって、メジャーデビューは、外から見ればわかりやすい夢の達成だと思う。

でも、僕はその瞬間に、心から幸せだとは思えなかった。

夢が叶ったら、幸せになる。

そう思っていた。

でも、違った。

叶った瞬間に、次の「まだ」が始まった。

まだ売れていない。
まだ知られていない。
まだ結果が足りない。
まだ次を出さなきゃいけない。
まだ、まだ、まだ。

夢は、ゴールの顔をしていた。
でも、着いてみたら、そこには次のスタートラインが置いてあった。

それからずっと考えている。

夢が叶うことと、幸せを感じられることは、別のことなのではないか。

夢を持つことよりも、今この一瞬を幸せだと感じられることのほうが、本当はずっと難しくて、ずっと大事なのではないか。

夢なんて持たない方が幸せだ。

少なくとも、今ある幸せを「まだ途中」に変えてしまうくらいなら。


夢は、いつから提出物になったのか


夢って、本来はもっと自由なものだったはずだ。

誰かに見せるためのものではなくて、
誰かに評価されるためのものでもなくて、
自分の中に、勝手に浮かんでくるもの。

海の向こうを見て、あそこへ行ってみたいと思う。
好きな歌を聴いて、自分もこんなふうに歌ってみたいと思う。
絵を描いているうちに、もっと描きたいと思う。
誰かに優しくされて、自分もああいう人になりたいと思う。

そういう、まだ言葉になる前の憧れ。

それが夢だったはずだ。

でも、いつからだろう。

夢は、提出物になった。

学校で聞かれる。

「将来の夢は何ですか?」

就職活動で聞かれる。

「あなたのキャリアビジョンは何ですか?」
「5年後、10年後、どうなっていたいですか?」

会社に入ってからも聞かれる。

「今年の目標は?」
「何を達成しますか?」
「どんな成長をしたいですか?」

そして今は、SNSでも聞かれている気がする。

あなたは何者ですか。
何を発信していますか。
どんな価値を提供できますか。
何を成し遂げようとしていますか。

うるさい。

本当に、うるさい。

ただ生きているだけでは、足りないらしい。

朝起きて、働いて、ご飯を食べて、洗濯して、請求書を払って、なんとか一日を終えているだけでは、足りないらしい。

そこに、未来の計画まで求められる。

人生にまで企画書を求められる時代になった。

夢がある人は、そこで強い。

自分はこれを目指しています。
こうなりたいです。
このために努力しています。

そう言える人は、まっすぐに見える。

眩しい。

でも、夢がない人はどうすればいいのだろう。

何も目指していないわけではない。
何も考えていないわけでもない。
毎日を適当に投げ出しているわけでもない。

ただ、言葉にできるほど大きな夢がない。

人に差し出せるほど立派な未来がない。

それだけで、少し責められているような気持ちになる。

空欄を見られている感じがする。

「夢がありません」

そう言うと、どこか寂しい人のように見える。
やる気がない人のように見える。
人生を諦めている人のように見える。

でも、本当にそうだろうか。

夢がないから苦しいのではない。

夢がないことを、足りないことのように扱われるから苦しいのだと思う。

夢は大きくなりすぎる

夢という言葉は、大きくなりすぎた。

夢は何ですか、と聞かれると、なぜか人生を変えるような答えを出さなければいけない気がする。

有名になりたい。
社長になりたい。
本を出したい。
世界を旅したい。
社会を変えたい。
好きなことで生きていきたい。

そういう言葉なら、夢らしい。

反対に、

今日は早く寝たい。
おいしい味噌汁を飲みたい。
猫と昼寝したい。
誰にも怒鳴られずに過ごしたい。
気の合う人とだけ仕事がしたい。
月に一度、温泉に行きたい。

こういうものは、夢とは呼ばれにくい。

小さいからだ。

でも、その小ささは、本当に価値が低いという意味なのだろうか。

そうは思わない。

むしろ、人を日々支えているのは、こういう小さな願いのほうだったりする。

遠くにある大きな夢より、今夜ちゃんと眠れること。

いつかの成功より、今日のご飯がおいしいこと。

何者かになることより、安心していられる場所があること。

そういう小さなものが、人を壊れないように支えている。

なのに僕たちは、夢という言葉を大きくしすぎた。

大きな夢を持っている人は、すごい。
夢に向かって努力している人は、輝いている。
夢を語れる人は、前向きだ。

そういう空気の中で、小さな願いはどんどん端に追いやられる。

「そんなことでいいの?」

と言われそうになる。

いいのだ。

そんなことでいい。

眠りたい。
食べたい。
休みたい。
安心したい。
好きな人といたい。
穏やかに暮らしたい。

それは、人生の敗北ではない。

むしろ、かなり本質的な願いだと思う。

夢は大きくなりすぎる。

だから人は、自分の小さな幸せを夢と呼べなくなる。

大きな夢がないことは、人生が空っぽだという意味ではない。

大きな夢がないぶん、目の前にある小さな幸せを、ちゃんと感じられることもある。

僕は、そちらのほうが、ずっと幸せに近い気がしている。

夢は、今の幸せに「未達」のラベルを貼る


夢を持つことの怖さは、未来を見ることではない。

今を、全部「途中」にしてしまうことだと思う。

たとえば、すごくおいしいものを食べている。

本当なら、

「ああ、おいしい」

でいい。

それだけでいい。

温かいものが、ちゃんと温かい。
好きな味がする。
体が少しゆるむ。
今日一日の中で、そこだけ明かりがついたみたいになる。

それで十分なはずなのに、夢があると、心の奥で別の声がする。

「いや、こんなことで満足している場合じゃない」
「もっと頑張らないと」
「まだ叶っていない」
「まだ上に行ける」
「まだ何者にもなれていない」

その声が、今ある幸せを薄くしてしまう。

おいしいご飯が、ただの休憩になる。
猫が隣で眠っている時間が、作業の中断になる。
友だちが笑ってくれたことが、人生の成果とは関係ない小さな出来事になる。

違う。

本当は、そういうものが人生なのに。

夢は、未来を明るくすることもある。

でも、今を薄暗くすることもある。

僕は、そこが怖い。

夢に向かっている人は、今を肯定しにくくなることがある。

今の自分は、まだ途中。
今の生活は、まだ仮の姿。
今の仕事は、まだ本番ではない。
今の収入は、まだ目標に届いていない。
今の自分は、まだ完成していない。

そうやって、今に「未達」のラベルを貼ってしまう。

でも、人の人生に「未達」なんてラベルを貼っていいのだろうか。

朝起きた。
働いた。
誰かに嫌なことを言わないようにした。
面倒な連絡を返した。
ご飯を食べた。
猫の目を拭いた。
洗濯物を畳んだ。
一日を終えた。

それは、本当に「途中」で片づけていいものなのだろうか。

僕は、だんだんそう思うようになった。

上を目指すことが悪いわけではない。

もっと良くなりたい。
もっと作りたい。
もっと届けたい。
もっと遠くへ行きたい。

そう思う気持ちは、人を動かす。

でも、その気持ちが強くなりすぎると、目の前にあるものを受け取れなくなる。

「まだだ」と思うたびに、今あるものが遠ざかる。

こんなにもったいないことはない。

幸せは、未来のどこかにだけあるわけではない。

今、お風呂が気持ちいい。
今、布団があたたかい。
今、誰かの言葉に少し救われた。
今、雨の音が落ち着く。
今、猫がこちらを見ている。

そういう一瞬を、ちゃんと受け取れるかどうか。

たぶん人生の幸せは、そこにかなり左右される。

夢は、今の幸せに“未達”というラベルを貼ることがある。

そのラベルを貼られた瞬間、今は今でなくなる。

全部、未来のための材料になる。

今日の努力。
今日の我慢。
今日の積み重ね。
今日の準備。

それは大切だ。

でも、今日そのものは、どこへ行ってしまうのだろう。

未来のためだけに今日があるなら、いつ幸せになればいいのだろう。

メジャーデビューしても、幸せではなかった

僕は、二十歳くらいからラップをしていた。

音楽を作って、人前で歌って、ライブをして、曲を書いて、録音して、またライブをして。

そういう日々があった。

その頃の僕にとって、メジャーデビューは、わかりやすい夢だったと思う。

音楽で世に出る。
CDを出す。
名前が載る。
テレビやメディアに出る。
知らない人に曲を聴いてもらう。

外から見れば、とてもわかりやすい。

「ああ、夢が叶ったんですね」

と言われやすい出来事だと思う。

実際、僕はメジャーデビューした。

それは、たしかに大きな出来事だった。

だけど、その瞬間に、僕は幸せを感じなかった。

びっくりするくらい、感じなかった。

もっと高揚すると思っていた。
もっと泣くほど嬉しいと思っていた。
もっと人生が変わったような感覚になると思っていた。

でも、そうはならなかった。

心の中にあったのは、喜びよりも、次の不安だった。

もっと売れなきゃ。
もっと知られなきゃ。
次の曲を出さなきゃ。
結果を出さなきゃ。
期待に応えなきゃ。
ここで終わったら意味がない。

夢は、叶った瞬間に終わらなかった。

むしろ、叶った瞬間に、次の「まだ」が始まった。

まだ売れていない。
まだ足りない。
まだ有名ではない。
まだ安心できない。
まだ上がある。
まだ、まだ、まだ。

メジャーデビューは、ゴールの顔をしていた。

でも、着いてみたら、そこには次のスタートラインが置いてあった。

それで、僕はわかった。

夢が叶うことと、幸せを感じられることは、まったく別の能力なのだ。

これは、かなり残酷な発見だった。

だって、夢を追っているときは、夢が叶えば幸せになると思っている。

そこへ行けば、何かが満たされると思っている。
そこへ行けば、自分を認められると思っている。
そこへ行けば、ようやく安心できると思っている。

でも、幸せを感じる力が育っていないと、どこへ行っても「まだ足りない」が続く。

夢が叶っても、次の夢が来る。

目標を達成しても、次の目標が来る。

褒められても、もっと褒められたい。
売れても、もっと売れたい。
知られても、もっと知られたい。
認められても、もっと認められたい。

底がない。

努力が悪いという話ではない。

向上心が悪いという話でもない。

ただ、幸せを未来の達成に預けすぎると、今の自分がずっと空っぽになる。

僕はそれを、自分の体で知った。

だから、夢なんて持たない方が幸せだ、という言葉は、投げやりで言っているわけではない。

夢を叶えたことがない人間の、ひがみで言っているわけでもない。

夢の近くまで行っても、幸せを感じられなかった人間の実感として言っている。

夢が叶った日より、何でもない日に食べたご飯をおいしいと思えた日のほうが、人生をちゃんと幸せにしてくれることがある。

そのことを、僕はもっと早く知りたかった。

夢がKPIになると、人は自分の人生を査定し始める

仕事では、目標を数字で見ることがある。

売上。
利益。
問い合わせ数。
成約率。

こうした数字を、KPIと呼ぶ。

KPIとは、目標へ向かう途中で見る指標のことだ。

仕事では便利だ。

今どこにいるのかがわかる。
次に何を直せばいいのかも見えやすくなる。

でも、これを人生に持ち込むと、話が変わる。

年収。
肩書き。
フォロワー数。
出版。
起業。
受賞歴。
メディア出演。
結婚。
家。
車。
移住。
市場価値。

いつの間にか、人生にも指標が増えている。

自分がどれくらい進んでいるのか。
同世代と比べてどうなのか。
人からどう見られているのか。
ちゃんと成長しているのか。
何者かに近づいているのか。

そんなふうに、自分の人生を測り始める。

夢がKPIになった瞬間、人は自分の人生を査定し始める。

これが、けっこう苦しい。

本来、夢は自分のためにあるはずだった。

誰かに見せるためではなく、
誰かに勝つためでもなく、
自分の中を少し温めるためにあったはずだった。

でも、数字や肩書きと結びついた瞬間に、夢は評価表になる。

叶ったか。
叶っていないか。
どこまで進んだか。
どれくらい遅れているか。
人より上か。
人より下か。

夢は、未来への光だったはずなのに、いつの間にか現在の自分を採点する赤ペンになる。

赤ペンで直され続ける人生は、しんどい。

ここが足りない。
ここも足りない。
まだ弱い。
まだ遅い。
まだ結果が出ていない。
まだ見られていない。
まだ評価されていない。

そうやって、自分で自分にダメ出しをし続ける。

仕事なら、改善点が見えることは良いことだ。

でも人生は、改善点だけでできているわけではない。

何も達成していない日にも、意味はある。
数字が伸びていない日にも、生活はある。
誰にも褒められない日にも、自分なりに踏ん張った時間はある。

それなのに、人生をKPIで見始めると、数字にならないものが見えなくなる。

今日、少し優しくできたこと。
誰かの話をちゃんと聞けたこと。
面倒なことから逃げずに済んだこと。
何も壊さずに一日を終えたこと。

こういうものは、表に出にくい。

フォロワー数にもならない。
年収にもならない。
肩書きにもならない。
履歴書にも書けない。

でも、人生を支えているのは、たぶんそういうものだ。

夢がKPIになると、それが見えなくなる。

だから僕は、夢という言葉を少し疑っている。

夢は美しい顔をしている。

でも、ときどき人を数字の前に立たせる。

「お前は、どれくらい達成したのか」

そう聞いてくる。

そんな夢なら、持たない方が幸せだと思う。

夢には、人を温める夢と、人を責める夢がある

すべての夢が悪いわけではない。

夢にも、いろいろある。

僕は、夢には少なくとも二種類あると思っている。

ひとつは、人を温める夢。

もうひとつは、人を責める夢。

人を温める夢は、静かだ。

誰かに見せなくてもいい。
うまく説明できなくてもいい。
叶うかどうかも、まだわからなくていい。

考えると、少しだけ気持ちが明るくなる。

いつか海の近くに住みたい。
猫と静かに暮らしたい。
小さな店をやってみたい。
好きな文章を書きたい。
月に一度、温泉に行きたい。
朝、焦らずにコーヒーを飲みたい。

そういう夢は、人を責めない。

叶っていない自分を殴らない。
今の生活を否定しない。
誰かと比べて、足りないと言わない。

ただ、心のどこかに小さな明かりを置いてくれる。

ああ、いつかそうなったらいいな。

そのくらいでいい。

反対に、人を責める夢がある。

これは、うるさい。

もっと頑張れ。
まだ足りない。
そんなところで満足するな。
同世代はもっと進んでいる。
お前はまだ何者でもない。
結果を出せ。
証明しろ。

そうやって迫ってくる。

それはもう、夢というより請求書に近い。

夢が、自分への請求書になることがある。

毎月のように心へ届く。

未払いです。
未達です。
努力が不足しています。
結果が不足しています。
評価が不足しています。
あなたは、まだ足りません。

そんなものが、心の中にずっと置かれている。

それは苦しい。

人を温める夢なら、持っていていい。

でも、自分を責める夢なら、一度手放してもいいと思う。

たとえ昔は大切だった夢でも。
たとえ誰かに応援された夢でも。
たとえ自分で選んだはずの夢でも。

それが今の自分を毎日責めているなら、距離を置いていい。

夢は、持ち主を幸せにするためにある。

持ち主を追い詰めるためにあるわけではない。

夢を捨てる、というと大げさに聞こえる。

でも、実際には、少し離れるだけでいい。

今は見ない。
今は追わない。
今は比べない。
今は、今日をちゃんと終えることを優先する。

そのくらいでいい。

人は、いつでも大きな未来を背負えるわけではない。

体力がない日もある。
心が弱っている日もある。
生活で精一杯の日もある。
誰かの世話で、自分のことまで考えられない日もある。

そういう日に、夢まで背負わなくていい。

夢は、人を温めるものなら持てばいい。

でも、人を責めるものなら、置いていけばいい。

それは逃げではない。

自分を守るための、かなりまともな判断だと思う。

大きな夢より、小さな願いでいい

夢という言葉が重すぎるなら、夢なんて呼ばなくていい。

願い、くらいでいい。

それも、大きくなくていい。

ちゃんと眠りたい。
温かいご飯を食べたい。
嫌な電話を、今日は取らずに済ませたい。
怒鳴られない場所で働きたい。
気の合う人とだけ、少しだけ仕事がしたい。
月に一度、温泉に行きたい。
猫と昼寝したい。
朝、焦らずにコーヒーを飲みたい。
好きな文章を、一本だけ書きたい。

そのくらいでいい。

むしろ、そのくらいのほうがいい。

大きな夢は、ときどき人生を遠くへ連れて行きすぎる。

未来ばかり見るようになる。
まだ来ていない日ばかり気にするようになる。
今ここにあるものを、通過点として扱うようになる。

でも、小さな願いは、今の近くにある。

今日の身体。
今日の気分。
今日のご飯。
今日の天気。
今日の人間関係。
今日の眠り。

小さな願いは、人生を遠くへ飛ばさない。

むしろ、今いる場所に戻してくれる。

僕は、それがかなり大事だと思う。

大きな夢はいらない。

今日を少しだけましにする、小さな願いがあればいい。

それは、逃げではない。

人間が生きていくための、かなり現実的な知恵だと思う。

夢を持て、と言われると、どうしても遠くを見る。

でも、遠くを見る力より、近くを見る力が必要な日もある。

自分の足元を見る。
部屋を見る。
台所を見る。
机の上を見る。
猫の寝顔を見る。
自分の疲れを見る。

そこに、次の一日を少しましにする手がかりがある。

何者かになるより先に、今日はちゃんと眠る。

人生を変えるより先に、部屋の窓を開ける。

夢を叶えるより先に、温かいものを食べる。

それでいい日がある。

いや、たぶん人生のほとんどは、そういう日の積み重ねでできている。

夢より先に、生活がある

普通の自己啓発は、よく夢から話を始める。

夢を持とう。
目標を決めよう。
未来を描こう。
そこから逆算しよう。

それは、元気なときには役に立つのかもしれない。

でも、生活がぐらついているときには、かなりきつい。

朝起きるだけで大変な日がある。

仕事へ行くだけで、もう精一杯の日がある。

誰かに返信するだけで、心が重い日がある。

洗濯物が溜まっている。
冷蔵庫に何もない。
請求書を見たくない。
体が重い。
眠れていない。
ずっと頭の奥が疲れている。

そういうときに、

「夢は何ですか?」

と聞かれても困る。

船に穴が空いているときに、目的地の話をされているようなものだ。

まず水をかき出したい。
穴をふさぎたい。
少し座りたい。
眠りたい。
温かいものを食べたい。

夢より先に、生活がある。

これは、かなり当たり前のことなのに、意外と忘れられやすい。

人は、未来を語れる状態のときばかりではない。

今日を終えることで精一杯のときがある。

自分を保つだけで、かなり大きな仕事になっている日がある。

それなのに、夢や目標や成長を乗せられると、心が折れる。

土台が崩れている人に、夢を乗せるのは危ない。

夢は、土台の上に置くものだと思う。

眠る。
食べる。
休む。
働く。
払うものを払う。
洗うものを洗う。
連絡する。
断る。
逃げる。
戻る。
また明日を迎える。

こういう生活の土台があって、その上に、やっと未来を置ける。

だから、夢がないことを責める前に、その人の生活を見たほうがいい。

眠れているのか。
食べられているのか。
安心できる場所があるのか。
怒鳴られずに過ごせているのか。
休む時間があるのか。
誰かに助けてと言えるのか。

そこが壊れているなら、夢どころではない。

それは弱さではない。

順番の問題だ。

未来より先に、今日がある。
目標より先に、身体がある。
成功より先に、生活がある。

僕は、最近そんなふうに思う。

何かを成し遂げた日だけが、人生ではない。

何も成し遂げていないように見える日にも、生活は動いている。

朝起きた。
ご飯を食べた。
猫の世話をした。
嫌な用事をひとつ済ませた。
誰かにひどいことを言わずに済んだ。
夜、布団に入った。

それだけの日がある。

でも、それだけの日を軽く見ないほうがいい。

今日を壊さずに終えることは、夢より小さく見えて、実はずっと難しい。

夢なんて持たない方が幸せだ。

少なくとも、生活を壊してまで持つものではない。

何者かにならなくても、あなたはもう誰かである

「何者かになりたい」

この言葉を、よく聞く。

昔より、ずっと聞くようになった気がする。

何者か。

有名な人。
肩書きがある人。
フォロワーが多い人。
何かを成し遂げて、誰かに見つけられた人。

そういう人たちを、僕たちは「何者か」と呼びがちだ。

でも、いつから人は、そんなふうに自分を証明しなければいけなくなったのだろう。

名前が知られていないと、何者でもないのか。
肩書きがないと、価値がないのか。
誰かに見つけられないと、生きていることにならないのか。

そんなことはないはずだ。

誰かの友人である。
誰かの家族である。
どこかの職場の人である。
近所の人である。
猫にご飯をあげる人である。
誰かの話を聞いた人である。
誰かに「おはよう」と言った人である。
今日一日を、なんとか終えた人である。

それでは足りないのだろうか。

僕は、足りていると思う。

何者かにならなくても、あなたはもう誰かである。

世界中に知られていなくても、誰かの日常にはいる。

有名ではなくても、誰かの記憶にいる。
成功者ではなくても、誰かにとっては必要な人かもしれない。
大きな夢を語れなくても、今日、誰かを少し楽にしたかもしれない。

それは数字にならない。

プロフィールにも書きにくい。
履歴書にも載らない。
SNSの実績欄にも入らない。

でも、人生はそういう見えにくいものでできている。

何者かにならなきゃ、と思いすぎると、今すでに自分が誰かであることを忘れてしまう。

そのほうが、よほど怖い。

夢を持たないための練習

夢を持たない、というのは、投げやりになることではない。

未来を全部捨てることでもない。

むしろ、今を取り戻すことに近い。

「何になりたいか」

ではなく、

「どう過ごしたいか」

を考える。

これだけで、少し息がしやすくなる。

何者になりたいか。
どこまで行きたいか。
どれくらい成功したいか。

そういう問いは、ときどき人を遠くへ連れて行きすぎる。

だから、もっと近い問いにする。

どんな朝を迎えたいか。
誰といると楽か。
何を減らしたいか。
何を増やしたいか。
どんな疲れ方なら許せるか。
どんな仕事なら、壊れずに続けられるか。

そのくらいでいい。

今日の小さな願いを、ひとつだけ考える。

早く寝たい。
温かいものを食べたい。
少し歩きたい。
猫とゆっくり過ごしたい。
誰にも責められずにいたい。
静かな時間がほしい。

それでいい。

小さすぎる願いを、馬鹿にしないほうがいい。

大きな夢は人生を変えるかもしれない。
でも、小さな願いは今日の自分を助けてくれる。

そして、人は今日の自分を助けられないまま、遠い未来へは行けない。

夢が自分を責め始めたら、一度置いていい。

昔の自分が本気で願った夢でも。
誰かに応援された夢でも。
時間やお金をかけた夢でも。

今の自分を毎日責めてくるなら、少し距離を取っていい。

夢は、自分を殴るための棒ではない。

「まだまだだ」と思ったら、いまあるものを見る。

できていないことではなく、続いていることを見る。

生活が続いている。
仕事が続いている。
誰かとの関係が続いている。
猫の世話が続いている。
身体がなんとか動いている。
今日もここまで来た。

それは地味だ。

でも、地味なものを維持するのは、本当に難しい。

成功より、維持を評価していい。

壊れずに続いていることは、立派な成果だ。

夢を持たない練習とは、未来を諦めることではない。

今を、未来の下書きにしないことだ。

今日という日を、今日のまま受け取ることだ。

おわりに

夢なんて持たない方が幸せだ

夢を持つことが、悪いわけではない。

夢に救われる人もいる。
夢があるから、今日をなんとか歩ける人もいる。
遠くに光があるから、目の前の暗さに耐えられる日もある。

それは、たしかにある。

ただ、夢が自分を責め始めたら。
夢が今の幸せを奪い始めたら。
夢が、毎日のように「まだ足りない」と言ってくるなら。

その夢は、一度置いていいと思う。

夢は、本来、自分を遠くへ連れて行くためのものだったはずだ。
でも、ときどき夢は、自分を今ここから追い出してしまう。

今、ご飯がおいしい。
今、猫がかわいい。
今、体が少し楽だ。
今、誰かの言葉に救われた。
今、一日が無事に終わった。

そういう小さな幸せに対して、

「でも、まだ夢は叶っていない」

と言ってしまう。

それは、あまりにももったいない。

幸せは、未来の達成だけにあるわけではない。

夢が叶った瞬間にだけ、花火みたいに打ち上がるものでもない。

たぶん幸せは、もっと地味だ。

湯気の立つ味噌汁。
洗いたてのタオル。
雨の日の部屋。
眠る前の猫の重さ。
誰かから届いた短い返信。
少しだけ痛みが引いた腰。
何も大きなことは起きなかったけれど、壊れずに終わった一日。

そういうものの中に、静かにある。

それを感じられないまま、大きな夢だけを追いかけるのは、やっぱり少し寂しい。

僕は、メジャーデビューした日よりも、何でもない日に食べたご飯をおいしいと思えた日のほうが、人生をちゃんと幸せにしてくれることがあると知っている。

遠くへ行くことだけが、人生ではない。

何者かになることだけが、人生でもない。

今ここにいて、今日を終えて、明日もなんとか生きていく。

その中で、小さな幸せを取りこぼさないこと。

それは、大きな夢を叶えることより、ずっと難しいのかもしれない。

夢なんて持たない方が幸せだ。

少なくとも、今の幸せを感じられなくなるくらいなら。

夢を持たなくてもいい。
何者かにならなくてもいい。
未来に大きな旗を立てなくてもいい。

今日、少しだけ安心できたなら。
今日、少しだけ笑えたなら。
今日、少しだけ自分を責めずに済んだなら。

それはもう、ちゃんと人生だと思う。


著者名:

【可児波起:海辺の部屋CEO】

ラップミュージシャンとしてメジャーデビュー=STAND WAVE。障がい者の介護職をするラッパー「介護ラッパー」としてフジテレビで2度特集。ビジネス領域では、「デジタルマーケティング」「Webマーケティング」のスペシャリストとして「ナショナルクライアント(東証プライム)企業」で、戦略コンサルタントなどを行う。高速のキャッチアップ、PDCAで、「確実に成果を出し」続けている。
「マーケティングは『愛』である」という、「人の優しさ」を大切にしている

海辺の部屋ホームページ
https://www.umibe.art/

STAND WAVE web site
https://standwave.jp/

<可児波起:創作大賞2026 応募作品集>

創作大賞2026の多数の部門に応募しました。
ぜひ他の作品もご覧くださいませ。

いいなと思ったら応援しよう!