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夜と恋のメモ【恋愛】#19:今なら、ごめんと言える夜

その人のことを、毎日思い出すわけではない。

もう何年も経っている。

今どこにいるのかもわからない。
どんなふうに暮らしているのかも、どんな顔で笑うようになったのかも知らない。

連絡先も残っていない。

探そうと思えば探せる、という距離でもない。
もう二度と会えないのだと思う。

それなのに、夜の途中でふっと戻ってくることがある。

コンビニの帰り道、少し湿った風が吹いた時。
知らない人の笑い声が、昔の誰かに少しだけ似ていた時。
冷蔵庫から水を出して飲んだあと、部屋が急に静かになった時。

どうして今、と思うくらい何でもないところで、その人のことを思い出す。

胸が裂けるような痛みではない。

もう泣かない。
眠れなくなることもない。
次の日の朝には、ちゃんといつもの生活に戻っている。

それでも、その夜だけ少し息がしにくくなる。

初めてちゃんと人を好きになった頃、私はまだ、自分の気持ちの扱い方を知らなかった。

嬉しい時に、素直に嬉しいと言えなかった。
寂しい時に、寂しいと言えなかった。

大丈夫じゃないのに、大丈夫と言った。
本当は来てほしいのに、来なくていいと言った。
聞いてほしいことがあるのに、どうせわからないと思って黙った。

黙ったくせに、気づいてもらえないことに傷ついた。

今思うと、ずいぶん面倒な人だった。

でも、その時の私は本気だった。

好きになることが、こんなに怖いことだなんて知らなかった。
誰かを大切に思うほど、自分の弱い場所まで一緒に見えてしまうことも知らなかった。

怖いから、先に試した。
傷つく前に、少しだけ冷たくした。
わかってほしいのに、わかりにくい形で差し出した。

相手もきっと若かった。

優しくない言い方をされたこともある。
置いていかれたように感じた夜もある。
私だけが悪かったわけではないと思う。

それでも、私が傷つけたことは、私の中に残っている。

楽しかったことも、ちゃんとあった。

くだらないことで笑った夜。
帰り道に少しだけ遠回りしたこと。
自販機の前で、どちらが奢るかで言い合ったこと。
何でもない言葉が、その日一日を明るくしてくれたこと。

たしかに、楽しかった。

そのことまで、後悔で塗りつぶしたくはない。

でも、最後の頃のことを思い出すと、胸の奥が今でも少し苦くなる。

私たちはよく黙った。

ちゃんと話せばよかったのに、黙った。
言わなくていいことだけ言って、本当に言いたかったことは飲み込んだ。

どちらかが黙る。
もう片方が苛立つ。
少し強い言葉を投げる。
そのあとで、もっと遠くなる。

そんな夜ばかりだった。

別れた日のことは、細かく覚えていない。

何を言われたのか。
自分が何を返したのか。
どちらが先に帰ったのか。

大事そうなことほど、ぼんやりしている。

それなのに、つまらないことだけ覚えている。

私の靴の紐が少しほどけていたこと。
自販機の横に、誰かの飲み残した缶が置いてあったこと。
風が強くて、前髪が何度も目に入ったこと。

私は泣かなかった。

泣いたら負けるような気がしていた。

本当は、勝ち負けなんてどこにもなかったのに。

あの頃の私は、傷ついた顔を見せるくらいなら、平気なふりを選んだ。

その平気なふりで、たぶん相手をもっと傷つけた。

今なら、少しわかる。

あの時の私は、そうするしかできなかった。

そう思えるようになるまでに、ずいぶん時間がかかった。

自分を許した、というほどきれいな話ではない。
ただ、いつまでも昔の自分を責め続けるほど、今の私はもう若くない。

あの頃の私も、必死だった。

うまくできなかっただけで、ちゃんと好きだった。

それだけは、今なら少し信じられる。

夜中、台所で水を飲む。

グラスに注ぐ音が、静かな部屋に細く響く。

ふと、その人の名前が心の中に浮かんだ。

声には出さなかった。

呼んでも届かない。
届かせる場所も、もうない。

そのことが、今夜は少しだけ苦しかった。

今なら、ごめんと言える気がする。

あの時はごめん。
うまく好きでいられなくて、ごめん。
傷つけたことに気づけなくて、ごめん。
私ばかりが傷ついたみたいな顔をして、ごめん。

たぶん、今なら言える。

でも、その言葉を渡す相手はもういない。

謝れないまま残っているものは、消えない。

それは時々、夜の底から浮かんできて、胸の奥を静かに押す。

後悔だと思う。

でも、それだけではない気もする。

消えてほしくない、とも思っている。

楽しかったことまで薄くなってしまうくらいなら、少し苦しいまま残っていてもいい。
あの頃の自分の幼さも、間違いも、好きだった気持ちも、全部なかったことになるくらいなら。

思い出すたびに少し苦しくなる恋が、ひとつくらい心の中にあってもいいのかもしれない。

誰にも話さない。
誰にも届かない。
もう何も変えられない。

それでも、私だけが覚えている。

水を飲み終えて、グラスを流しに置いた。

底に残った小さな水の輪が、台所の明かりを薄く返していた。

それはすぐに乾くくらいの跡だった。

でも、今夜の私には、まだ消えてほしくなかった。



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