道は続いている
あれはたぶん、大きなお寺か神社の縁日だったのだろう。
乾物や名産品のほか、骨とう品や古本の屋台が両側に並んでいて、参道は多くの人でごった返していた。
むせ返るような人ごみの中を、母は足早に、ずんずんと進んでいく。
ワンピースの裾がひらひらしていたから、初夏の頃だったかもしれない。
幼かった私は、その背中を見失わないように、小走りになって必死で追っていた。
とても、喉が渇いていた。
長い距離を歩いて来て疲れていたし、口の中がカラカラで、喉の奥がひっつきそうだった。
母は、目当ての露店の前で足を止めると、茶色くてカサカサした葉っぱの束を手に取って財布を開いた。
それは、民間療法で効果があるとされていた薬草で、煎じて飲んだり、すり潰して湿疹のある皮膚に貼ったりするものだった。
「喉が渇いた」
と、ようやく追いついて、私が言うと
「ちょっと、待っとりんさい」
と母は、たしなめるように言い捨てる。
お国言葉が出る時は、良くない兆候だった。
案の定、母の息遣いは少し荒くなっていて、喉の奥が微かにヒューヒュー鳴っている。
埃っぽい参道をさらに進むと、パンやお菓子やジュースを売っている商店があった。
「ほれ」
と、紙蓋を開けたコーヒー牛乳の瓶を渡されて、私は一気に飲み干した。
普段なら、美味しくて大好きなコーヒー牛乳だけど、その日は味がよくわからなくて、咽の渇きは全くおさまらなかった。
何なら飲む前よりも、もっと酷くなったようにさえ思う。
母はもう、歩きはじめている。
さっきよりも少し、呼吸が苦しそうだ。
右側には、おままごとの道具が並んだ店があり、小さな鍋や、フライパン、テーブルセットに、ミニチュアの野菜や果物なんかがズラリと見えた。
左側には、リカちゃん人形のドレスが何十種類も売られていて、さながらミニサイズのブティックのよう。
当時は今ほど正規品の種類が多くはなくて、お母さんの手作りか、こういう露店で買うのが一般的だった。
私は目移りして、キョロキョロしてしまう。
だけど足を止める訳にはいかない。
万が一、母を見失ってしまえば、一巻の終わりだ、ということだけは、はっきりとわかっていたからだ。
帰らなければならない時刻が迫っていた。
それを過ぎれば、父から酷く叱責される。
母の息遣いは益々荒く、喘鳴音が大きくなっていく。
私はただ一生懸命に、母の後を追った。
「あんたは、何の苦労もしていないから――」
と二人の姉から非難され続けて、これまで私は生きてきた。
その後に続く言葉は、
「何もわかってない」「自分勝手だ」「どうしょうもない」
言葉はやがて内在化し、私は自分のことを、何の苦労もしていないから、何もわかってなくて、自分勝手で、どうしようもない人間、だと思い込んだ。
姉たちが幼かった頃は家が貧しく、コーヒー牛乳など到底、買ってはもらえなかったらしい。
それを当たり前のように買い与えられた私は、それだけでも「何の苦労もしていない」証に見えたのだろう。
実家を片付けた折、4客セットの食器がたくさん、大切に仕舞われているのを見て
「お母さんは、4人家族だった頃が一番、幸せだったんだねえ」
と二人の姉が、何の悪気も無く頷き合う。
それは、子どもたちが巣立った後や、父が亡くなってからの一人暮らしに比べて、という意味だったんだろう。
言いたいことはわかる。
わかるけれども、群れから外された私は、苦笑いするしかない。
私の咽の渇きは生涯、癒されることはない。
親に対して、長姉には長姉の、次姉には次姉の、そして私には私の、それぞれ本人にしかわからない苦労もあれば、掛け替えのない思い出もある。
生まれた順番が違うということは、幼児期の、親の年齢も家の経済状態も違うし、必然的に経験した内容も異なるからだ。
それは、とても不公平だし、あまりにも不平等だ。
だからと言って、損か、得か、では決して計れない。
ましてや、個人の力で変えることも叶わない。
真の意味で「何の苦労もしていない人」など存在しないのだ。
テレビのニュース映像が、ゴールデンウイークの各地の賑わいを伝える。
インタビューされている誰もが笑顔で、とても幸せそうに見える。
そんな様子を横目で見て、微笑ましく思いながら、人混みが苦手な私は、今年もまた、どこへも出かけないで、ひたすら家に籠って過ごしている。
風が唄う この町で
私は確かな強さを学んで
誰しもが持つ 胸のキズも
風はただ知っている
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