【ピリカ文庫】二行の男
市民講座の教室は、駅前のショッピングモールの中にある。今日の受講生は10人程度だろうか。中高年世代ばかりで、私のような20代らしき人は見当たらない。
エアコンが効き過ぎていて少し肌寒い。念のためにと持ってきたカーディガンを、私はリュックから取り出した。
「えー皆さん、こんにちは。市民講座「小説の書き方」第1回目ということで……今日のテーマは……「フィクションとノンフィクションの違い」です」
講師はそう言って、ざっと教室を見回してから演台の上にノートを広げた。間延びした話し方かと思えば、時折とても早口になる。
グレーのスーツはデザインが古くて、肩の位置が合っていない。身長は思ったよりも低く、白髪が目立つ。肥満体型ではないけれど、引き締まってもいない。
どう見ても、冴えないオジサンだった。
講師の岡野慎治は、この町出身の数少ない著名人の一人だ。
岡野慎治(1970年4月3日 ~ )は、日本の小説家である。
2000年、小説『青が青い』で第199回文學界新人賞を受賞、同作品で第222回芥川龍之介賞受賞。
ただし最後に、書き下ろし短編集を刊行したのは2007年で、そこからもう18年が過ぎていた。熱烈なファンでなければ、その名前を聞いてもピンとこないだろう。
俯き加減で翳をまとった単行本の「著者近影」と目の前のオジサンは、まるで別人だ。最近は、こうした講師業で生計を立てているんだろうか。
「なんだ、もうとっくに「終わった人」じゃん」
と私は、心の中で毒づいた。
一人、二人と受講生が去り、誰もいなくなるのを待って、私は演台に近づいた。ちょうどその時、ウィンと大きな音を立てて教室のエアコンが停止した。途端に、空気が淀みはじめる。
私はまるで、それが戦闘開始の合図でもあるかのように、カーディガンの第一ボタンをしっかりと留めた。
僕の墓碑銘は、二行だけでいい。
1970年、大都会の谷底に生まれる。
20XX年、大自然の廃屋に死去する。
大事な事は、何一つ起こらない。
大事な人は、誰一人出会わない。
二行の間には、ただ、虚無があるのみだ。
今から四半世紀前に書かれた小説だけど、こんなので、よく大きな賞を獲れたもんだと思う。
演台を挟んで、私は真正面に立った。
「……あの、私、『青が青い』読みました」
そう告げると岡野慎治は、ふと頬を緩ませて受講生名簿を指でたどる。
「えーと、池澤さんでしたね。年齢が……あぁ28歳。僕があれを書いたのは、今のあなたと同じくらいの頃で……」
「はい、知っています」
と私は、食い気味に返す。
「それで、ぜひ伺いたいことがあります。主人公の「二行の男」は、その後の人生で、何か変化はありましたか? 例えば、大事な事が起こったとか、大事な人に出会ったとか。いや、もっと言えば本当は、大事な事が起こったり、大事な人に出会ったりしていたのに、それをなかったことにして生きてきたんだ! と気付いたとか。何なら、激しく後悔したとか!」
私は早口で、一気にまくし立てた。まるで早口言葉大会みたいに淀みなく。
私の勢いに気圧されたのか、岡野慎治は束の間、沈黙していた。そうして、指先で軽くトントンと演台を叩きながら何度か、まばたきをした後で
「……どうでしょうか」
と小さく呟く。一瞬、瞳の奥がキラリと険しく光った。
真っ直ぐに向けられた眼差しに、私は咄嗟に怯みそうになる。と同時に、負けるもんか! と強く思う。
「じゃあ今も、奇跡が起こるって信じてますか?」
たたみかけるように、私はオラついて挑発する。もう、剝き出しの敵意を隠そうともしない。
「……奇跡、ですか。池澤さんは、どう思われますか?」
不意に質問で返されて、
「まさか! 信じません!」
と私はやっぱり食い気味に、早口で答える。まるで何を聞かれても反論しかしない、思春期の子どもみたいに。
「ははは。それはいい! 奇跡なんて信じちゃ駄目だ!」
岡野慎治は、さも可笑しそうに肩を揺らして快活に笑った。
「二行の間には、何もない。それが僕の、一貫した信念です。今でもね」
そう言いながら、目だけは笑っていなかった。
嘘つき。と私は、心の中で呟く。
空調の切られた教室に、ゆっくりと6月の湿気が満ちていく。
隣を歩く葉子は遂に、透きとおりはじめた。
輪郭が見る見るぼやけていき、このままでは周りの木々の緑と同化してしまうことは明白だった。
僕は慌てて、その手を掴んだ。
強く握ると折れてしまいそうな細い指を、僕は確かに掴んだのだ。
しかし次の瞬間、僕の手は、虚しく空を切った。
どれほど願おうとも奇跡は、一番肝心な時にはいつだって、決して起こらない。
去年、急逝した母の箪笥の中に、色褪せた古い手紙を見つけた。
「それでも僕は、奇跡が起こると信じたい」
そう書かれていた。
母と娘、二人きりの暮らしは、私にとって大きな枷だった。
母が私を育てるために昼夜働いて疲れ切っているのを、私は幼い頃から理解していた。だから、とても聞き分けの良い、わがままを言わない子どもでいるしかなかったのだ。そうしていつしか私は、誰にも本心を明かさない大人になっていった。
「あなたのお父さんは小説家なの」
と母が一度だけ、言ったことがあった。
その日は珍しく母と一日中、一緒に過ごせて、私はとてもはしゃいでいた。見上げた母の顔は少し上気していて、とても美しく、大切な宝物をそっと見せてくれる少女のようだった。
私たちは、木漏れ日がキラキラ光る小径を、手を繋いで歩いていた。母の手は、日々の暮らしの中で荒れてはいたけれど、細くて長い指は少しも変わらず、私の小さな手を優しく包んだ。
「しかし……」
と岡野慎治は、目を逸らさずに続けた。
「若い人たちには、たくさんの、数えきれないほどの行間を生きて欲しい……と言ったら、身勝手だと思いますか?」
最後の質問には答えずに、小さく一礼してから、私は教室を飛び出した。
エスカレーターを下りてショッピングモールの外へ出ると、雨上がりの空に晴れ間がのぞいていた。
テナントの花屋の店先に、色とりどりのバラの花が溢れている。赤、白、ピンク、黄色、オレンジ。店頭のディスプレイされたバケツに、手書き文字のPOPが添えられている。
黄色のバラは贈り物として人気がありますが、「不誠実」や「別れましょう」という好ましくない花言葉を併せ持っています。黄色のバラを贈る場合は他の色と合せて贈る事をおススメします。
私はふと思い立って、店内に入ると迷わずに
「黄色いバラを、あるだけ花束にしてください」
とオーダーした。
嘘つきの子どもは、嘘つきだ。それでは、嘘つきの子どもの子どもは?
まだ目立たないお腹を庇うように、私はカーディガンのボタンを順に留めていく。
この子はいつか、奇跡を信じるんだろうか。それともやっぱり「まさか! 信じない!」と早口で言うんだろうか。
私は何だか可笑しくなってきて、一人、笑いを嚙み殺す。
両手に抱えるほどの、黄色いバラの花束とともに、私は今、下りてきたエスカレーターをもう一度、上っていく。と、教室を出て講師控室へと向かう、岡野慎治の背中が見えた。分厚いノートと受講生名簿を小脇に抱えて、少し猫背気味にゆらゆらと歩いていく。
6月の風は重たい。
花屋の店先で、湿気を含んだ風に煽られて、「父の日」の幟がパタパタと揺れている。
むせ返るほどのバラの香りが、私の頬をかすめて、髪へと流れていった。
了
(3100字)
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・設定とは一切、関係がありません。
ピリカさんよりお誘いいただき、なんと、【ピリカ文庫】への仲間入りをさせてもらうことになりました!
お声がけいただいたこと、心より感謝いたします。
また一つ、新しい階段を上ることができました。
ありがとうございました🙇♀️
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