紫陽花
「一番好きな花は?」と問われたなら、私は間違いなく紫陽花と答える。
理由はいくつかある。まず、ビジュアルが極めて秀逸な点だ。紫陽花は一輪一輪こそ驚くほど小さいが、それらが寄り集まることでようやく紫陽花として成立している。群生している姿を眺めるたび、単体ではどこか頼りなく、群れなくては生きていけない気弱な性格のようなもの自身と重ねてしまい、見かける都度なぜか目で追ってしまう。そういう見方をする人には、これまであまり出会ったことがないが、もしも生まれ変われるなら集合体の中でキチンと役目を全うするような生き方がしてみたい。
それから、枯れ方があまりにも醜い。鮮やかな青や紫はみるみる褪せ、やがて濁った茶色になる。
私は写真を撮ることはあっても、それを大切に保存しておこうという気持ちが殆どない。ライブの半券も旅行先で買ったパンフレットも、しばらくするとどこかへ消えている。思い出を保存したいわけではなく、その場で十分なのかもしれない。スマートフォンのカメラロールを稀に見返すことはあっても、機種変更のたびに写真はすべて消してしまう。
もっとも、ドライフラワー自体は嫌いではない。花火が夜空に残り続けていたら、きっと今ほど人を惹きつけてはいないだろう。花も同じで、いずれ枯れると分かっているからこそ美しいのだと思っているし、ものが朽ちていく過程を眺めること自体は嫌いではない。むしろ、そうしたものに惹かれる節すらある。
それでも、紫陽花だけはドライフラワーにしたいと思わない。十代の頃、誰かに紫陽花のドライフラワーをピアスに加工してもらったことがあったが、数か月後には目も当てられない姿になっていた。
もちろん、花について語りたいわけではない。
ただ、昔から私は完成されたものより、少し歪で、不完全なものに惹かれる傾向がある。綺麗な部分だけを切り取るより、そのものが抱えている弱さや欠陥まで含めて眺めていたい。人間関係でも趣味でも、そういう癖が顔を出す。古くからやっている純喫茶や古本屋、夜の人のいない駅に惹かれるのも、おそらくその延長線上にある。
もっとも、それは必ずしも憧れとは一致しない。仲良くなるのは頭のいい人たちが多いし、誰かを好きになる時も、弱さより先に知性や美しさに目が向く。不完全なデザインや経年劣化とともに完成するような服を好み、音楽や本、映画も一般的な名作より、一部の人に深く刺さるような作品を選ぶ一方で、旅行の予定は綿密に立てたい。どうやら私は、不完全なものに安心を求めているわけではなく、単に興味を惹かれているだけらしい。
学生時代もクラスの中心人物ではなく、仲のいい友人たちと教室の隅で話しているような人間だった。大人数の会話では自分から話題を振ることも多いが、それは話せていない人間を放っておけないだけで、本当にその人の話を聞きたいわけではないことが多い。結局のところ、興味のある相手とは一対一で話す方が好きなのだと思う。
人混みは苦手だが、一人きりでいることを好んでいるわけでもない。賑やかな場所では少し離れた席を選ぶくせに、結局は誰かと話していたい。
以前、旅行先でゴンドラリフトに乗ったことがある。周囲には誰もおらず、聞こえるのは機械音だけだった。閉鎖された箱の中には二人しかいないはずなのに、不思議と孤独は感じなかった。むしろ、孤独という言葉はあまり当てはまらない気がした。
紫陽花に惹かれる理由のいくらかは、そのあたりにあるのかもしれない。
思えば、自己紹介というものがあまり得意ではない。好きな食べ物や休日の過ごし方を並べたところで、自分という人間の輪郭はほとんど見えてこないからだ。
だから、もし誰かに私のことを知りたいと言われたら、好きな花は紫陽花だと答えることにしている。案外、それだけで十分なのかもしれない。
