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【愛知】家康の嫡男の首塚 | 若宮八幡宮 | 愛知県岡崎市 | 2010年アーカイブ


徳川家康の嫡男であり、岡崎城主を務めた松平信康の首塚が鎮座する神社。
祭神は仁徳天皇と信康という、一見すると特異な組み合わせとなっている。

信康は武勇に優れ、家康の後継者として嘱望されていた。しかし、母・築山殿とともに武田氏への内通を疑われ、天正7年(1579年)、織田信長の命により自刃に追い込まれたとされる。この事件の背景には、信長による警戒説、徳川家中の派閥対立、あるいは家康・信康父子の不和説など、現在も複数の説が並立しており、真相を断定する一次史料は存在しない。

信康の自刃後、最終的な判断を下した信長への政治的配慮からか、大々的な弔いは慎まれてきた。
しかし、天下人の嫡男を祀る場としては極めて質素な供養のあり方が、信長亡き後、さらには家康の天下掌握後も維持され、特段の聖域化がなされなかった点には、単なる外聞を超えた家中の根深い事情が推察される。

岡崎城に近接しながらも寂寥感が漂うのは、その由緒が徳川家ゆかりの寺社の中でも際立って悲劇的であり、歴史の表舞台から疎外されてきた経緯ゆえのことであろうか。


​一方通行の多い住宅街の真ん中に、ポツンと祀られている若宮八幡宮。周辺の道路は狭隘で、車を停める場所は皆無。

​境内は南側(写真左側)が空き地になっているせいか、どこかガランとした雰囲気。
境内に腰を下ろしてコンビニで買った肉まんでも食べようかと思っていたが、あまりに雰囲気が暗くて落ち着かないので、結局立ったまま急いで食べた。


他の観光地と同様、岡崎市も観光スポットの国際化を図っており、説明板も日本語、英語、中国語、ポルトガル語に対応している。


日本語部分の説明板。
事件の原因については前述の通り諸説あるのだか、説明板によれば、家康は信康の助命のために努力を払ったと記されている。このあたりは家康の「お膝元」らしい記述といえる。

​しかし、その一方で家康は、信康の自刃前に家臣団から忠誠を誓う誓詞を取り付けており、これは『家忠日記』などの信頼性の高い史料にもみることがてきる。

​助命に奔走する親心を見せつつも、家臣団が信康派と家康派に分裂し、家中が瓦解することを防ぐため、家康は冷徹に組織の掌握を優先した。
この時、主要な重臣たちが血判を押した誓詞が現存している事実は、当時の徳川家の危機感を物語っている。


もともと日本語オンリーな説明板に国際化バージョンのシールを張ったものなので元の説明板の文字が浮き出している。

まぁ観光スポットの統一規格なので仕方ないのだが、外人がこの八幡宮に観光でやってくる確率を考えるとすこぶる無駄な気がしないでもない。


信康の首塚は、本殿脇のさらに奥まった場所に、参拝者の目から隠れるかのようにひっそりと置かれている。華やかな装飾はなく、その佇まいは極めて慎ましい。


首塚そのものも柵で囲われ、出入りする扉も厳重に施錠されている。参拝者は、柵の隙間か、プラスチックの板越しにか、その姿を覗き見ることができない。

​この物理的な隔たりは、単なる遺構の保護だけでなく、今なおこの八幡宮が「触れてはならない歴史」を封じ込めているかのような、独特の圧迫感を生んでいる。


柵の隙間から撮影した首塚。


由緒書には、陰謀や呪いといったおぞましい伝承が記されている。
祭神は仁徳天皇と信康という、一見すると「梅干しとスイカ」のような、食い合わせの悪さを感じさせる。

​しかし、このアンマッチな構成は、本来、国家の安寧を象徴する仁徳天皇を祀る社に、非業の死を遂げた信康を合祀することにより、祟りを鎮めるといった、「封印」の意図があったのではないだろうか。


葵の紋が刻まれた柱は徳川家由縁の神社だと分かる数少ない物証となっている。


​本殿から境内を振り返り写真撮影。そこには、誰かの金婚式を祝して奉納されたという狛犬が鎮座していた。

​陰謀や呪いの気配が漂う空間に、個人の慎ましい幸せを願う寄進物が、事もなげに共存している。張り詰めた空気に圧を感じていた心にとって、その光景は一服の清涼剤であった。


<おわり>


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