腹を空かせたことが、ある人の話
四十円足りなくて、レジの前でもやしを一袋戻したことがある。
あの頃の指の動きを、今でも体は覚えている。
冷蔵庫の卵を数えてから一日を始める男がいた。
給料日前の三日間をどう渡るか、頭の中で何度も計算する。
空腹が癖になって、満腹がこわくなった時期があった。
やがて暮らしは持ち直し、別に困らなくなった。
それなのに、スーパーで値札を見る目つきだけが、昔のまま残っている。
安いものを買えるのに、安いものを探してしまう。
豊かになったはずの手が、まだ貧しさの形をしている。
男はある日、自分の買い物かごを見て立ち止まる。
これは節約だろうか、それとも消えない傷だろうか。
手放したいのか、手放したくないのか。
腹を空かせた記憶が、今の自分に何を残したのか。
その答えを、男はまだ言葉にできずにいる。
財布の中身を数えてからスーパーに入る癖が、まだ抜けない人がいる。
給料日前の冷蔵庫は、よく覚えている。
卵が三つ。半分残った豆腐。賞味期限の切れかけたマーガリン。それで二日もたせる計算を、布団の中でしていた。眠れないからではなく、計算が終わらないと眠れなかった。

あの頃のアパートは、夏になると西日で部屋が四十度近くまで上がった。冷房を入れる金がなくて、濡らしたタオルを首に巻いて寝た。タオルが乾く頃に目が覚める。喉が渇いて、水道の水を飲む。水は腹をふくらませてくれた。それを覚えたとき、少しだけ生き延び方がわかった気がした。
腹が減ると、まず音から消える。テレビをつけても頭に入らない。次に匂いに敏感になる。隣の部屋から流れてくる、何かを炒める油の匂い。あれが一番こたえた。自分の部屋には、その匂いがなかった。
働き始めても、しばらくは変わらなかった。
初任給が入った日、俺はスーパーで一番安い食パンの前に立って、三十秒くらい動けなかった。もう一段上の、ほんの十円高いパンに手が伸びない。十円が、こわかった。
体に染みついた価格帯がある。この棚から上は見ない、というラインが、目の高さで勝手に引かれている。視線がそこで止まる。上の棚に何が並んでいるのか、長いあいだ知らなかった。知る必要がないと思っていた。
惣菜は、閉店前の半額シールが貼られる時間にしか行かなかった。十九時半。店員が値引きのシールを持って回り始める音がする。あのシールを剥がす、ぺりっという音を、今でも聞き分けられる気がする。耳がそれを探していた。

同僚に飯に誘われると、財布の中を思い出してから返事をした。行きたいかどうかより先に、行けるかどうかを計算する。その順番が、もう体に入っていた。
暮らしが上向いたのは、ゆっくりだった。
ある月から、給料日前に冷蔵庫を数えなくてよくなった。それに気づいたのは、数えなくなってからしばらく経った後だった。気づいたとき、少し怖かった。数えるのをやめた自分を、どこかで責めていた。
油断したら、また落ちる。腹の底でそう思っている。だから、豊かになっても財布を数える癖は消えなかった。むしろ強くなった気さえする。失うものができたぶん、守りが固くなった。
冷蔵庫の中身は、いつのまにか増えていた。卵が一パック。肉も、野菜も、調味料も。それでも俺は、買い物に行くと一番安いもやしを手に取る。十八円のもやし。べつに、それしか買えないわけじゃない。買えるのに、選んでしまう。手が勝手に伸びる。

去年の冬、子どもを連れてスーパーに行った。
子どもが、棚の上のほうにある菓子を指さした。俺がずっと見ないことにしていた、あの高さの棚だった。値段を見て、一瞬、体がこわばった。指が、かごの縁を握っていた。
買えない金額じゃない。むしろ、何でもない金額だった。なのに、握った指がほどけるまでに数秒かかった。子どもは俺の顔を見ていた。俺が何を迷っているのか、わからない顔で。
その菓子を、かごに入れた。入れたあとも、手のひらに汗をかいていた。レジで会計を済ませて、外に出て、駐車場の冷たい風に当たって、ようやく息が戻った。たかが菓子ひとつで、と自分でも思う。でも、体はそんなふうにできていなかった。

財布を数える癖を、直そうとしたことがある。
数えずにスーパーに入ってみた。落ち着かなかった。レジに並んでいるあいだ、足りなかったらどうしようと、もう足りているのに思っていた。会計が無事に終わると、ほっとして、そのほっとした自分が情けなかった。
たぶん、これは一生抜けない。腹を空かせた時間が、俺の手に、目に、計算の順番に、形を残していった。それは消したい染みでもあり、消したくない地図でもある。あの時間がなかったら、俺は今のように金を恐れなかった。恐れなかった俺が、今より良い人間だったかどうかは、わからない。
もやしを手に取る。十八円。かごに入れる。その動きに、たぶん意味なんてない。ただ、昔の俺がまだそこにいて、一緒に買い物をしているだけだ。
レジ袋の重さを手に感じながら、駐車場まで歩く。袋の中で、もやしと、子どもの菓子が、同じ場所で揺れている。

「旗のない船で」は、まだ途中にいる人のための物語です。 次の航海記も、ここで。 🔔 フォローで新しい物語の通知が届きます。
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