見出し画像

AIは自己理解の伴走者になる。100問インタビューで見えた、自分という人間の輪郭

100問インタビューをやってみた

僕は、僕自身のことをどれほど理解できているのだろうか。
先日、本に載っていた「デジタルヒューマン構築用100問インタビュー」というものに触れてみた。

幼少期の記憶
学校生活の転機
仕事の原点
マネジメント観
挫折
未来のすがた

人生を全方位から棚卸しするための「100の問い」が並んでいる。


正直、一目見た瞬間に「これは重すぎる」と身構えてしまった。

一人で机に向かい、真っ白なノートを前にして「さあ、自分の人生観を語ろう」と
黙々と書き始めたとしても、おそらく10問目あたりで思考が止まり、挫折していただろう。
自己分析というのは、それくらい孤独で、
かつ自分の内面の泥臭い部分と向き合うエネルギーを必要とする作業だ。

だから、僕は取り組み方を変えてみた。
一人で向き合うのをやめ、ChatGPTの前に座り、
「雑談ベースで数問ずつ進めよう」と横に座る相棒に問いを委ねてみたのだ。

結果から言えば、驚くほどするすると言葉が出てきた。


記憶を引き出す伴走者としてのAI

AIを「何かを自動で生成してくれる装置」として捉えていると、こうした自己分析には使えない。
AIは僕の代わりに僕の人生を捏造することはできないからだ。

しかし、AIを「問いを投げ、答えを受け止め、綺麗に整理して返してくれる伴走者」として定義すると、
その役割は一変する。

「あなたの仕事の原点はどこですか?」とAIからカジュアルに問いかけられると、
一人で考えているときには閉じていた記憶の引き出しが、対話の呼吸によって自然と開く。

雑談のようなノープランな語り口で、思いつくままに事実を打ち込んでいく。
するとAIは、それを冷徹に構造化しつつ、「つまりこういうことですね」と、
まるで鏡のように僕の言葉を整理して突き返してくる。

そのリレーを何往復も繰り返していくうちに、
100問という巨大な山を、いつの間にか完走してしまっていた。

そして、その積み重なった膨大な対話の地層を上から眺めたとき、自分でも驚くほど、何度も何度も繰り返し僕の口から出力されている「言葉たち」の輪郭が浮かび上がってきたのだ。


掘り出された、僕の譲れない価値観

100の問いを通して濾過され、最後に残った僕の価値観の根源は、以下のようなものだった。

  • 「できることしかできない。だから、できることを増やす」

  • 「人間っておもしろい」

  • 「顧客が『これで使えそう』と実感してくれる瞬間が一番嬉しい」

  • 「やらされて出てきたミスは単なる失敗だが、やりたくて挑戦して出たミスは『挑戦』だ」

  • 「AIは人間を管理するものではなく、人間に寄り添う伴走者であってほしい」

これらは、普段のビジネスの場や、効率性を求められる日常の中では、
あえて大声で言語化することのない暗黙知だ。

けれど、過去の記憶から現在の仕事のリアルな葛藤、創作で迷走した夜の記録までを一本の線で繋いでいたのは、まぎれもなくこの「泥臭い思想」だった。

AIという鏡を通すことで、バラバラだった日々の点と線が繋がり、
「ああ、僕はこういう輪郭を持った人間だったのだ」と、腑に落ちるような感覚があった。


最後には「面白かった」と言いたい

AIが僕の人生の正解を決めてくれるわけではない。
答えは最初から自分の中にしかない。
AIは、その散らかった部屋の掃除を手伝ってくれただけだ。

けれど、一人では重くて動かせなかったクローゼットの奥の箱を、
横に誰かが座ってくれているという安心感だけで、一緒に開けることができた。

先日、ひょんなことから予定になかった同人誌イベントのサークル出店に急遽駆り出され、
懇親会では参加者に料理を振る舞い、夜には浴びるように酒を飲んだ。
予測不能で激しい一日を過ごした。

実務的な損得だけで言えば、あまりにも無駄な動きだったかもしれない。

しかし、100の問いを終えて自分の輪郭を再確認した今の僕なら、
あのカオスな一日を心から肯定できる。
そこで交わした人間の体温や笑い声は、理屈抜きで、
僕が愛してやまない「おもしろい人間たちの営み」そのものだったからだ。


僕が人生の最後に求めるのは、きっとそういうものなのだと思う。

どれだけシステムが自動化されても、最後に「自分の人生は面白かった」と言葉にして振り返りたい。
そのために、できることを増やす努力を続け、自分の火を守り続ける。

重い100の問いを終えた誌面の先に、
僕という人間の輪郭が確かに浮かび上がったことを感じた。

いいなと思ったら応援しよう!