選挙公報が届く家と届かない家
はじめに
「選挙公報はHPに掲載するので、それを見てね」ではダメなのか。
この問いは、架空のものではありません。
各選管さまと会話させていただく中で、繰り返し出会う声があります。
「特に問合せもクレームもないし、新聞折込と公共施設の備え置き、HP掲載で事足りていると思っている」
「全戸配布にすると新聞折込より費用が上がる。財政部局が承認してくれるだろうか」
「そもそも、うちの自治体で短い選挙期間内に全戸配布ができるのか」
1つ目は制度の意義の話。2つ目はお金の話。3つ目は実行の話です。
今回は、この3つを考えていこうと思います。
先に申し上げておくと、こうした問いが生まれるのは自然なことです。
デジタル化が進み、あらゆる事業に費用対効果が問われる時代です。
財政の視点に立てば、むしろ誠実だからこそ出てくる問いだと思います。
現行法の答えだけなら、3行で終わります。
選挙公報は「各世帯への配布」が原則。
新聞折込等が認められるのは「特別の事情がある場合」だけ。
HPへの掲載は、配布には該当しません。
ただ、「法律がそうなっているから」では、誰の疑問にも答えたことにならないと思います。なぜ法は、そこまでして「配れ」と言うのか。
この記事では、そこから書き起こします。
第1章 誰が判断できるのか
現行法の原則は、導入に書いた3行に尽きます。
ここで確認したいのは、条文の中身ではありません。
この構造が判断の権限をどこに置いているか、です。
国政選挙と知事選は、公職選挙法で発行を義務付けています。
それ以外の選挙は任意制で、発行する場合は条例を制定します。
配布方法も同じ構造です。
国政選挙と知事選は公職選挙法で「各世帯への配布」を原則と定め、任意制の場合は条例が定めますが、その条例も公職選挙法の規定を準用しています。
そしてHPへの掲載は、この配布規定のどこにも登場しません。
総務省の通知(平成24年)で認められたものですが、根拠は配布の条文ではなく、有権者への啓発・周知を定めた条文(公選法第6条)です。
HP掲載は「配布」ではなく「啓発」です。
つまり、選挙公報の全戸配布は「やるかやらないか」を行政サービスの観点や予算編成の場でどうこう出来る話ではない、ということです。
ここで、費用対効果という物差しの性質を考えてみます。
この物差しは、「かけた費用に見合う効果があるか。なければやめるか、縮めるか」という判断のためにあります。
つまり費用対効果を問うことには、問うた先に判断の余地がある、という前提です。
全戸配布には、その判断の余地がありません。
法と条例が原則として定めた義務だからです。
判断の余地がない支出に費用対効果を問うても、答えの使い道がない。
問いとして成立していませんし、そもそも『必要経費』です。
消防で考えると分かりやすいと思います。
出動件数が少ない年に、「今年の消防は費用対効果が悪かった」とは誰も言いません。
消防費は、火事の件数に対する効果を買っているのではなく、「どの家が燃えても駆けつける」という状態を維持するための費用だからです。
測るなら「状態が維持されているか」であって、利用率ではありません。
選挙公報の配布も、同じ性質の支出です。読まれた率や、投票率に対する効果を買っているのではなく、「誰のもとにも候補者の情報が届いている」という状態を維持するための費用。だから配布率で測ることはできても、費用対効果では測れません。
それでも、と思われた方がいるかもしれません。
正面から費用対効果を問えないのなら、例外はどうか。
各世帯への配布が「困難であると認められる特別の事情があるとき」は、新聞折込等に代えられる。
この例外を使えば、費用を抑えられるのではないか。
この「特別の事情」が何を指すのか、立法の経緯に答えが残っています。
新聞折込の例外規定ができたのは、昭和49年(1974年)の公職選挙法改正です。当時、選挙公報は職員や自治会などの協力による各戸配布が基本でしたが、大都市とその周辺で人口が急増し、住まいの形も複雑になり、人手では配りきれない地域が出てきていました。
国会での自治省選挙部長の答弁が残っています。
大多数の地域は従来どおり各戸配布を続けてほしい。ただ、居住態様の複雑化で全戸への配布ができない地域については、例外として新聞折込等に代えられるようにしたい。
そして新聞折込を代替手段と認める根拠に挙げられたのが、当時の新聞購読率でした。昭和48年の調査では新聞を1紙以上とっている世帯は約94%、つまり当時の新聞折込は、ほとんど各世帯に届く手段でした。
ここから分かることが2つあります。
1つ目。この例外は「配りきれない地域でも、新聞折込ならほとんどの世帯に届く」という理由で作られた、ということ。目的はどこまでも全世帯への到達です。
当時の質疑で費用に触れた場面もありますが、それは「困難な地域で新聞折込に代えても費用は高くならない」という確認で、「安いから新聞折込にする」という話ではありません。
新聞折込を認める要件は、全戸配布の困難性。
「特別の事情」とは全戸配布が物理的に困難な事情のことであり、「配れるが、お金がかかるのでやらない」は当てはまりません。
2つ目。この例外は「新聞がほぼ全世帯にある」という前提の上に設計されていた、ということ。その前提は、もう崩れています。
日本新聞協会の調べでは、2025年の新聞発行部数は1世帯あたり0.42部。
仮に1部ずつ別々の世帯に届いているとしても、新聞のある世帯は4割ほど。例外が例外として機能した時代の条件が失われたのに、運用だけがそのまま残っている。
時代に合わなくなっているのは、全戸配布の原則ではなく、新聞折込という例外の前提です。

では今、「特別の事情」に本当に該当するものは何か。
突き詰めれば「引き受けられる業者が地域にいない」で、お金の問題ではなく、供給の問題くらいではないでしょうか。
事実、対応できる業者がいないという声をよく耳にしますし、いないだろうなとも思っています。
都心はポスティング業者が多数いるので入札が成立します。(価格競争もかなり激しいです)
しかし都心から一歩出ると、途端に対応できる業者がいなくなってしまいます。
この供給の問題は第6章で改めて触れます。
なぜ公選法はそこまでして「配れ」と言うのか。
次の章で、その理由を考えます。
第2章 なぜ、配らないといけないのか
前章で見たとおり、新聞折込の例外まで含めて立法の目的はどこまでも「全世帯への到達」にありました。
では、なぜそこまで到達にこだわるのか。
普段の暮らしの中で、情報は「見たい人が見る」形で流れています。
ニュースはアプリを開いた人に届き、広告は検索した人に表示される。
関心のあるところへ情報を寄せていくのが最も効率的だということを、私たちは日々の実感として知っています。
「見たい人は見られるようにしてある」
折込とHP掲載の組み合わせで事足りている、という感覚の土台には、この日常の効率感覚があると思います。日常のサービスなら、それでもいいでしょう。
ただ、選挙は、この形と根本的に相性が悪い。
選挙権は関心のある人にだけあるものではありません。
既に、全ての選挙人へ等しく届ける仕組みがあります。
投票所入場整理券、いわゆる「選挙のお知らせ」です。
選挙があること、投票所はどこか。
これは関心の有無に関わらず、全ての選挙人へ送られます。
ところが、その先の「誰を選ぶか」の材料になると、新聞折込や公共施設での備え置き、HP掲載でよい、という運用になります。
投票には全員を招いておきながら、判断の材料は自分で取りに来てほしい。ここに、ねじれがあります。
選挙は、候補者か政党を選ぶ行為です。投票所や投票方法の案内が手厚くても、候補者の属性や政策などの材料がなければ、判断のしようがない。
候補者のHPやSNSでも、情報は取れます。
ただ、そこでは「どこまで信じてよい情報か」を、受け手が自分で見極めることになります。
切り取られた発言や、出どころの定かでない情報も混じる。その点、選挙公報では、候補者本人が公式に書いた文章が全員分、同じ様式に載ります。
改ざんされず、横に並べて比べられる。この一次情報に代わるものは、そう多くありません。
もう1つ、見落とされがちな点があります。
国政選挙や知事選などは、複数の自治体にまたがります。
同じ候補者、同じ政党を選ぶ、1つの選挙です。
それなのに、ある市は全戸配布で選挙公報が手元に届き、隣の市は新聞折込で到達率が下がる。
同じ一票を投じるのに、判断材料が住む場所によって変わってしまう。
一票の重みの格差は、よく知られています。ここで起きているのは、それとは別の、情報の格差です。同じ候補者を選ぶ選挙で、受け取る情報量が自治体ごとにバラバラでよいのでしょうか。
ここで、「折込とHP掲載の組み合わせ」を見直してみます。
新聞折込は、当然ながら新聞を購読している世帯にしか届きません。
HPは、アクセスしようと思った人だけが見ます。
手段としては別物に見えますが、届く条件は同じで、どちらも受け手側の習慣や行動によります。
新聞を取っている、自分から見に行く、が先にあって初めて届く。
つまりこの2つは、同じ場所に張られた2枚の網です。
新聞を取っていて、選挙情報も自ら見に行く人は、紙の選挙公報とHPの両方を見ているでしょう。
新聞を取っておらず、選挙に行かない人(興味関心がない人)は、選挙公報を目にする可能性は限りなくゼロに近いと思います。
関心のある側には二重に届き、関心の薄い側は二重に取りこぼす。
手段を2つ重ねているのに、覆っている範囲がほとんど同じ。
だから、足し算に見えて足されていません。

組み合わせが機能するのは、互いの死角を補い合うときです。
折込とHPは、死角が同じ側にあります。
しかも、新聞購読世帯は今や4割ほど。
この死角は、もう例外と呼べる大きさではありません。
そしてその死角に入っているのは、情報を自分からは取りに行かない人たち。
関心の濃淡で選別しない、という選挙の建て付けからすれば、最も取りこぼしてはならない層です。
この見立てが実際の数字でどう出るか、第4章で確かめます。
「配っても、読まれないのではないか」と思われるかもしれません。実際、届いた選挙公報の全てが読まれているわけではないでしょう。
それでも、届いていること自体に意味があります。
読むか読まないかは、選挙人の自由です。
ただ、「手元にあって読まない」のと「そもそも手元にない」のとでは、全く違います。
投票日の前夜、行くかどうか迷ったとき、テーブルの上に候補者の情報がある。その可能性を全世帯に等しく置いておくことが、選管の責務だと思います。
では、その「全世帯への到達」は、紙を配ることでしか実現できないのか。次の章では、代替手段を同じ物差しで採点してみます。
第3章 代替手段を同じ物差しで採点する
前章の終わりに置いた物差しを、もう少し丁寧にしておきます。
法が求める「届き方」には、3つの条件が含まれています。
①:全世帯に漏れなく届くこと。
②:誰にでも同じ形で届くこと。
③:受け手がアクションを起こさず、届くこと。
この物差しで、手段を順番に採点してみます。
まず、新聞折込です。
同じ形では届きますが、届く先は新聞購読世帯限定で、全世帯には届きません。前章のとおりです。
新聞折込を採用している自治体では、補完の仕組みが組み合わされます。
公共施設等への備え置きがメインで、個別郵送、つまり新聞を取っていない世帯から連絡をもらえれば郵送する自治体もあります。
公選法では新聞折込等に代える場合、選挙人が選挙公報を容易に入手できるように努めることを選管に求めています。
何を、どこまでやるかは自治体ごとの運用で、内容には差があります。
そして、この物差しで見ると、補完には共通の構造があります。備え置きは取りに来た人に、郵送は申し込んだ人に届く。
どちらも、届ける側が負うはずの手間を、受け手に置き換えています。
受け手が何もしなくても届く、という3つ目の条件は満たせません。
登録制にしている自治体なら一度の申込みで以後は自動で届きますが、「申し込む」という最初の一歩が残る点は同じです。
なお、補完をどう設計するかは自治体の裁量なので、こちらは費用対効果で測れます。そして測ると、分が悪い。
定形郵便に収まらない選挙公報を、投票日までの日数を考えれば速達で送ることになり、封入と発送の手間も1通ごとに乗ります。
1通あたりの単価は全戸配布より高くつきます。
それでも総額が小さく収まって見えるのは、登録数がごくわずかだからです。全世帯に届けようとすればするほど、全戸配布より高くつく。
この構造では、補完にはなっても代替にはなりません。
続いて、HP掲載。
「見に行く」という行動が条件になっている時点で、3つ目を満たしません。
では、デジタルで個人に直接届けるとしたらどうか。
筆頭候補はマイナポータルでしょう。
選挙人全員が登録を済ませ、全員に同じ内容が届き、プッシュ通知も飛ぶ。そこまで揃ったとします。
それでも最後にひとつ、壁が残ります。
「送った」と「届いた」は、違うということ。
スマホにニュースのポップアップが出た時、興味のある見出しなら開くし、そうでなければ、表示を消すと思います。
私たちは1日に何度もこれを繰り返しています。
通知は来た。正確には「送られてきた」だけで、開かないまま流れていくものが大半です。これが今の、通知との付き合い方だと思います。
ここで起きているのは、「興味があるかないか」で、開くか開かないかが分かれる、ということ。興味のない通知は、アクセスされないまま消えていく。日常のニュースなら、それで構いません。
でも選挙公報は前章で確認したとおり、興味のあるなしで分かれてよいものではありません。
関心の薄い人にこそ届けなければならない情報を、「開くかどうかは本人の興味次第」という仕組みに乗せてしまえば、結局また、関心のある人だけが中身を手にする。第2章で見た選別が、そっくりそのまま戻ってきます。
通知を送ることはできますが、本人が開いていないなら「届いた」とは呼べない。送信は済んでいても、中身は本人の手元で止まったままです。
LINEでブロックされている相手に送信はできても、届きません。
前章で、紙は「届いた上で、読む・読まないは本人の自由」と書きました。デジタルは、その「届いた」の一歩手前、「送っただけ」で止まる可能性を常に抱えています。この最後の壁が、どうしても埋まらない。
紙なら、ポストから取り出してテーブルに置くまでの間に、もう表紙が目に入っています。開くという操作を挟まなくても、情報が視界に入る。受け手の興味を経由せずに手元まで届く手段は、アナログな全戸配布だけです。
誤解のないように書き添えると、これはデジタルを否定する話ではありません。役割が違うだけです。
選挙公報が手元に届いた人は、投票所へ向かうとき、かさばる紙を持ち歩く必要はありません。
「HPにも掲載していますので、出先ではそちらをご確認ください」と案内すればいい。届けるのは紙が担い、届いたあとの確認はデジタルが担う。
この分担なら、HP掲載は配布の代替ではなく、配布を活かす道具になります。
ただ、「置き換える」となった瞬間、この章の物差しに掛かる。
全世帯に・等しく・受け手のアクションが不要。
この3つを同時に満たさない手段への置き換えは、必ず「届かない人」を作ります。
ここまでは、理屈の話です。
この理屈が現実の数字とどれくらい合っているのか、次の章で確かめます。
第4章 データで確かめる
ここまで理屈で述べてきた2つのこと、「デジタルは関心の薄い層に届きにくい」「紙は関心が薄くても届く」は、数字にも表れています。
東京都選挙管理委員会が令和7年(2025年)の参院選後に行った世論調査で見ていきたいと思います。
都内は全戸配布を実施している自治体が90%を超えており、他エリアとは一線を画しています。
ここで見るのは到達率ではなく、媒体の性質です。
関心の濃淡で届き方がどう変わるかは、地域によらない人と媒体の話です。
「候補者を選ぶのに役立った」と答えた割合を選挙への関心度で分けると、候補者のHP・SNS(まとめサイト等含む)は、関心があった層で38.6%、なかった層で15.5%。その差23.1ポイントは、調査に並んだ媒体で最大の開きでした。
一方、選挙公報は45.2%と33.6%で、差は11.6ポイント。
デジタルは関心が薄れると急に届かなくなり、紙は関心の濃淡に左右されにくいのではないでしょうか。

「見に行く」ことが前提のHP掲載も同じです。
選挙公報を目にした人のうち、都や区市町村のHPで見た人は5.9%、選挙に関心がなかった層に絞ると1.0%。置いてあっても、関心の薄い人はアクセスしません。
新聞折込と補完措置、HP掲載の運用で、苦情も問い合わせも来ない。
だから足りている、と感じてしまうのではないでしょうか。
ただ、問い合わせをしてくるのは、選挙に行こうとしている方でしょう。
選挙から距離のある方は、届いていなくても問い合わせをしません。
問い合わせが来ないことは、足りている証拠にはなりません。
足りる=全世帯に届いている。これ以外に議論の余地はないと思います。
では、その「届く」が崩れると何が起きるのか。
同じ参院選で、印象的なことが起きました。
京都市は昨年参院選から選挙公報の配布を民間業者に委託しましたが、その業者が業務不履行を起こします。
確認できた配布は推計世帯の約68%で、およそ3分の1の世帯に選挙公報は届きませんでした。
この業者は同市に「配り終えた」と虚偽の報告までしていました。
書き添えておきたいことがあります。
京都市はもともと、市政協力委員と呼ばれる住民の方々の協力で配布を続けてきました。
その負担を減らしながら全戸配布を守るために、民間委託という形へ移行する。
自治会・町会が配布している自治体もありますが、高齢化による担い手不足、夏の暑さ、配布を生業としていないことによる精度の限界など、再現性と継続性の課題を抱えています。
だからこそ、負担を減らしながら全戸配布を守るための民間委託は、素晴らしい判断だったと私は思います。
失敗したのは全戸配布という選択ではなく、履行の体制です。
翌年の衆院選は突然の解散だったこともあり、苦渋の決断で新聞折込に切り替えたと推察します。
結果的に、届く先は新聞購読世帯のみ。
1974年に「新聞なら94%に届く」として認められた例外の手段は、いまや半数以上の世帯に届きません。
そして皮肉なことに、業務不履行とはいえ約68%という配布率は、新聞購読世帯の割合を上回っています。
つまり、業務不履行だった事案ですら、新聞折込の自治体より多くの世帯に届いていたことになります。
全戸配布に挑んだ失敗が、挑まない現状(新聞折込)の到達を上回ってしまう。この逆転が、新聞折込の現在地です。
心配なのは、この一件がトラウマになることです。
京都市にとっても、この事例を見た全国の自治体にとっても、全戸配布へ踏み切る足枷にならないことを願っています。
間違った物差しで測れば、間違った結論が出る。
正しい物差し、「全世帯に、等しく、受け手のアクションが不要」で見れば、数字は1つの方向を指しています。
第5章 費用の適正さは、どう測るのか
導入の2つ目の声に戻ります。
「全戸配布にすると新聞折込より費用が上がる。財政部局が承認してくれるだろうか」
第1章で、全戸配布は費用対効果で測れない支出=必要経費だと書きました。
ただ、それは「やるかやらないか」の話です。
「いくらでやるか」は別問題で、こちらは測るべきです。
法定の義務だから青天井でよい、とはなりません。
その前に、片付けておきたい比較が1つあります。
「新聞折込なら1部◯円、全戸配布なら1部◯円」という単価の横並びです。全戸配布に移行できない理由として、この比較をよく耳にします。
ただ、この2つは比較として成立していません。値札の形が同じだけで、買っているものが違うからです。
新聞折込が安いのは、新聞社が購読者のために維持している配達網に相乗りさせてもらっているからです。
配る仕組みが既にあり、選挙公報をそこに挟んでもらうだけ。だから安い。そして届く先が購読世帯に限られるのも、同じ理由によります。
相乗りだから安く、相乗りだから購読世帯にしか届かない。
安さの理由と届かない理由は、同じ1つのものです。
一方の全戸配布の単価は、購読の有無に関係なく、その地域の全世帯を1軒ずつ回りきるための価格です。
片方は「挟んでもらう」値段、もう片方は「届けきる」値段。仕事の中身が違うものに同じ形の値札が付いているから、比べられるように見えているだけです。
1974年の時点なら、この比較にも意味がありました。
購読率94%の時代、折込の単価は事実上「ほぼ全世帯に届ける値段」だったからです。今は、単価の形はそのままに、届く範囲だけが94%から4割へ縮みました。値段が変わらないまま中身が減っていく。
日用品なら「実質値上げ」と呼ばれる現象です。
折込は安いままに見えて、「届ける」という中身で測れば、この50年で最も値上がりした手段かもしれません。
だから、全戸配布への移行で増える金額の正体は、「高い手段への乗り換え」ではありません。
新聞折込から抜け落ちた6割の世帯への到達を、買い戻す費用です。
比べるべきは1部あたりの単価ではなく、「全世帯に届く」という目的を満たしているかどうか。
満たしていない手段の安さは、値引きではなく欠品です。
では、適正価格はどうやって測るのか。
よく使われるのが、他の自治体との単価比較です。
ただ、配布の原価は地域条件で大きく変わります。
世帯の密度、集合住宅の比率、オートロック、地形。
同じ「1部あたり◯円」でも、駅前のマンション街と山あいの集落では、かかる手間がまるで違う。
他自治体の単価は、参考にはなっても物差しにはなりません。
物差しになるのは、同一条件の相見積もりしかありません。
同じ仕様、同じ地域、同じ期日で、複数の事業者から見積もりを取る。
そこで出てくる価格が、その地域・その時点での適正価格です。
他所より高く見えても、それがこの条件で引き受け手の現れる価格なら、不当に高いのではなく、それだけ手間のかかる仕事だということ。
逆に、最も安い見積もりが最も安く済むとも限りません。
全戸配布は、届いて初めて意味を持つ支出です。
届かなければ、金額の多寡にかかわらず、その支出は目的を失う。
適正さは、価格と履行の確かさの両方で見る必要があります。
一者しか見積もりが取れない場合、競争で検証する道はありません。
その場合は、積算の内訳と履行体制の説明を求め、価格ではなく中身で適正さを確かめる必要があります。
こう整理すると、財政部局への説明もシンプルになります。
これは法と条例が定めた義務的な支出であること(第1章)。
そして適正価格は、同一条件での競争。
相見積もりが取れない地域では、競争の代わりに内訳と履行体制で説明する。
財政の関心は突き詰めれば「無駄遣いではないか」にあります。
競争で答えるか、内訳で答えるか。
どちらかを用意できれば、説明は筋が通ります。
残るは、導入の3つ目の声です。
「そもそも、うちの自治体で短い選挙期間内に全戸配布ができるのか」
第6章 短期間で全戸配布ができるのか
最後に、導入の3つ目の声です。
「そもそも、うちの自治体で短い選挙期間内に全戸配布ができるのか」
正直に書くと、簡単ではありません。
何故なら、配る側にその自治体での全戸配布経験がないと配りきれないからです。
自前選挙の場合、政令市以外は選挙期間が短いうえに、選挙期日2日前までに配布完了する必要があるため、とてもタイトな日程となります。
公示/告示日の17時に候補者が確定し、そこから掲載順序のくじを経て、印刷準備に入ります。校了後、印刷が始まりますが、配布業者に納品されるのは翌日以降が多いのではないでしょうか。
残された配布期間(3〜4日間)で配り終えるには精度の高い配布計画と、実行部隊の経験・ノウハウ・クオリティが必要となります。
この計画は「当該地域で、1人が1日に何部配れるか」という数字がキーとなり、自治体によって変動します。
戸建てが並ぶ区域、オートロックのマンション、山あいの集落。
同じ1部でも配布に要する時間が異なります。
その全ての前提になる1日あたりの配布数は、机上の計算と配布経験、ノウハウを組み合わせることで叩き出すことができます。
これが出来ないと、適正な配布人員数が出せません。
経験のない体制のまま引き受けるから、不履行が生まれることになります。
引き受け手は、その地域で配りきれる計画と体制まで揃って、初めて「できる」と言えます。
選挙に、「初回だから」という猶予はありません。
毎回が本番で、初回から全世帯に配りきる必要があります。
だから発注で確かめるべきは、価格の安さより先に、その地の配布経験と履行体制です。
選挙公報は配布期間が短いうえに、配布期限も法定されています。
経験を積ませるには、広報紙や議会だより、ハザードマップなどの他媒体を試験的に全戸配布させるしかないのかもしれません。
これらの媒体は配布期限が法定されていないので、ある程度のバッファを持たせた計画なら、配布経験を積ませることが可能です。
ただ、それらの媒体に『その価値』があるかどうかは、行政サービスのフィルターで各自治体が判断する必要があります。
広報紙や議会だより等の媒体と、選挙公報とでは意義や建て付けが全く異なります。
事実、届ける価値があると考えている自治体は全戸配布しています。
このことから、第1章で見た「特別の事情」は対応できる業者がいない場合にしか該当しないと考えます。
とはいえ、配布期間が短すぎる問題もあります。
期日前投票の利用率が年々高まっていますが、公選法上は原則、当日投票主義なので、期日前投票は例外的な扱いになります。
投票日2日前に配布期限が設定されているのも、当日投票(選挙期日)がメインだからでしょう。
例外扱いの期日前投票が伸びている現状を考えると、実態と合っていないと思います。(これ以外でも多数ありますが笑)
結び
選挙公報は、候補者が自分の言葉で書いた政策が全ての選挙人に同じ形で届く、唯一の媒体です。
テレビにも新聞にもネットにも、それぞれの強みがあります。
ただ、「全世帯に等しく届く」を果たせるのは、いまも全戸配布だけ。
「新聞折込とHPで事足りている」という最初の声に戻ります。
新聞折込は、新聞購読世帯にしか届きません。
HPは自分から見に行く人にしか届きませんし、備え置きなどの補完も同様です。
この状態で、事足りていると判断して良いものでしょうか。
費用対効果という物差しは優秀です。
ただ、判断の余地がない支出には使えません。
使うべき物差しは「全世帯に、等しく、受け手がアクションを取らなくても届いているか」です。
そして適正価格は同一条件の相見積もりで測る。
物差しを正しく持ち替えれば、財政部局への説明も住民への説明も、筋が通ります。
「投票に行く人は半分ほどだから、そこまでしなくても」という見方も、あるかもしれません。
ただ、この発想だけは選管にはあってはならないと私は思います。
「見たい人が見にいく」日常だと、選挙に行く人・関心のある人だけにアプローチしているということになります。
ポスターコンクールや街頭啓発など、様々な啓発活動を通じて選挙に興味を持ってもらおうとしているのに、いざ選挙を迎えたら『選挙に来てくれる人』にしかアプローチしない。
対応できる業者がいるのであれば、この矛盾を解消すべきだと思います。
選挙に行くかどうかは、選挙人が決めることですが、届ける側が、配布範囲を絞ってはいけないと思います。
民主主義の根幹である選挙は、行政サービスというフィルターで差を生んではいけない。オフィシャルな候補者情報が、全員に等しく届く状態を保つことは、選管(自治体)の責務だと私は考えます。
最後に、ひとつ開示を。
当社は選挙公報の全戸配布事業もしています。
その上で書きますが、担い手は当社でなくても構いません。
どの地域にも確実な引き受け手が育ち、選挙公報が全世帯に届く。
この原則が守られることが、この記事の目的です。(とはいえ、見積り依頼お待ちしております!)
デジタル社会が進むほど、受け手が積極的にアクセスしなければ情報は得られません。
しかしながら、伝えなければならない重要な情報は必ず存在します。
その隙間を埋めるのは、手元に届くアナログな全戸配布ではないでしょうか。
出典: 東京都選挙管理委員会「選挙に関する世論調査(令和7年7月20日執行 参議院議員選挙)」
https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/yoron-chousa
