近くて、遠かった。あの3日間のこと。
彼との時間は、数えきれないほど過ごしてきた。
楽しい、うれしい、幸せ。
旅行中は、そんな感情がもっと増えると思っていた。
助手席は、いつも居心地がよかった。
運転が嫌いだと言いながら、彼のハンドル捌きは迷いがない。
800キロ近くを、ずっと運転してくれた。
なんでもない話をしながら、一緒に歌を歌いながら、
窓の外を景色が流れていく。
朝早くに出発して、見たい景色を見て、豪華な宿に泊まって。
神社を巡って、温泉に入って、おいしいものを食べて。
この旅行中に、話そうと決めていた。
いつまでに何をする、という話じゃない。
冬までに一緒に暮らせたら、とか。
来年はどんな景色を見ていたいか、とか。
明るい未来の話を、ふたりでしたかった。
ただそれだけのことだった。
でもそれだけのことが、
どうしてこんなに難しいんだろうと、今になって思う。
1泊目の夜、「とことん話そう」という流れになった。
でも彼は「じゃあ一緒に住もう!」と、あっさり言った。
私が欲しかったのはそこじゃなかった。
一緒に住むために、何をどう進めるか。
そのめんどくさい手順を、一緒に考えたかった。
ゴールじゃなくて、道のりを。
でも旅行中だし、喧嘩したくない。時間はまだある。
そう言い聞かせて、その夜は流した。
2日目、朝からたっぷり朝ごはんを食べた。
彼はまた、行きたい場所まで車を走らせてくれた。
順調だった。楽しかった。
昨日のことなんてなかったみたいに、
窓から風が入ってきて、彼が笑っていた。
2泊目の宿へ向かう道中、その助手席で、私は口を開いた。
「昨日の話やけどさ……」
持ち出したのは、私だった。
「なんで全部決めないけんの?」
「一緒になるっていう目的は一緒やん」
安心したかった。その言葉に。
でも、できなかった。
少し前まで、彼の言葉は揺れていたから。
「一緒に住む」と言ったかと思えば、
「子どもが…」「そうするしかないやん」と言う。
どれが本音なのか、分からなくなっていた。
だから聞いた。昨日と今日で、なんで違うの、と。
すると彼は言った。
「そう言わないと終わらないやん」
その瞬間、声が出なくなった。
胸が、内側からぎゅっと締め付けられる。
息が、浅くなる。
言葉が喉の手前で固まって、出てこない。
彼と喧嘩になるといつもこうなる。
話したい、伝えたい、なのに体が先に閉じていく。
長い沈黙が、車の中に落ちた。
彼はハンドルを握ったまま、前を向いていた。
私は助手席で、膝の上に置いた手を、ただ見ていた。
さっきまで一緒に歌っていたのに。
さっきまで笑っていたのに。
景色だけが、窓の外を流れ続けた。
温泉宿に着いた。
チェックインを済ませて、部屋に入って。
いつもなら「一緒に行こう」と言ってくれる彼が、
荷物を置くなり言った。
「温泉行ってくる」
それだけ言って、一人で出ていった。
部屋にも温泉はあった。
私は一人でそこに入った。
お湯の温度だけが、やけに体に染みた。
悲しくて、むなしくて、涙がどんどん出てきた。
せっかくの旅行なのに。
普通にしなきゃ、笑わなきゃ。
そう思えば思うほど、涙があふれてくる。
なんでこんなことになるんだろう。
なんでこんなにすれ違ってしまうんだろう。
お湯の中で、一人で泣いた。
夜、部屋食の前に、一度大きくぶつかった。
それでも何度も喧嘩を繰り返してきたふたりは、
どこかで少しだけ抑えることを覚えていた。
今、我慢してる。彼もそうだと思った。
壊れそうなものをふたりで両側からそっと支えるみたいに、
その夜はなんとか持ちこたえた。
3日目も、行きたい場所に行って、のんびり帰路についた。
でも結局、またあの話になった。
何を言っても「言い方が」と言われると、黙るしかなくなる。
黙ると胸が苦しくなる。
それを昨日から何度繰り返しただろう。
家に帰ってきてからも、引きずった。
そして彼は言った。
「一人になりたい」と。
手が震えた。
怒りと悲しみが、ぐちゃぐちゃに混ざり合った。
せっかく一緒にいられたのに。
結局、自分の都合じゃないか。
そう思いながら、でも同時に、
それだけ追い詰めてしまったのかもしれないとも思った。
私はどうにか解決しようとした。
離れたくなかった。
このまま終わらせたくなかった。
でもそれが、また私の癖だった。
答えを出そうとする。収めようとする。
相手が必要としていない瞬間に、踏み込んでいく。
しばらくして、彼からメッセージが来た。
「私中心にすべてを考えていたけど、
自分がやりたいことや後回しにしていたことをちゃんと考える。
今すぐ何をどうすればいいかはまだわからないけど」
その頃には、私も少し冷静になっていた。
【ゆっくりでいいと思う】と返した。
【会いたい】と返事がきた。
【行こうか?】と聞いた私に、彼は言った。
「今会ったらいけない気がする」
拒まれた。
手が、また少し震えた。
でも今度は、怒りじゃなかった。
ただ、静かに痛かった。
それでも私は、分かった、と返した。
少し時間が経って、気づいたことがある。
私はずっと、言葉を選んでいた。
気を遣って、飲み込んで、考えて。
怒鳴っているわけでも、責めているわけでもない。
その自覚はあった。
だから「言い方が悪い」と言われるたびに、思っていた。
これでもダメなの?と。
でも、気を遣っていることと、
相手が圧を感じないことは、別なのかもしれない。
私は内容を話しているつもりなのに、
彼には強度が先に届いていた。
それがすれ違いの正体だったのかもしれない、と今は少し思う。
ただ、100%納得できているわけじゃない。
すぐに変われるわけでもない。
私はどちらかといえば、
心や気持ちや、言葉の奥にあるものを重視する。
彼はどちらかといえば、
行動や、その場の空気や、目に見えるものを重視する。
喧嘩の仕方が、そもそも違った。
意見のぶつけ方が、最初から噛み合っていなかった。
それはどちらが悪いわけでもなくて、
ただ、ふたりがこれから学んでいくことなのだと思う。
まだ途中の、学んでいる最中の話だ。
一緒に生きていくというのは、好きでいるだけじゃ足りない。
でも現実だけでも、心が死ぬ。
答えを急いでも、壊れる。
待ちすぎても、すれ違う。
どうすれば正解なのか、まだ分からない。
ただ、私は怒っていたんじゃなかった。
傷ついていただけだった。
そして彼も、きっとそうだったんだと思う。
ふたりとも、不器用に、必死だった。
それだけは、分かった。
どんなにかっこ悪くても。
どんなに情けなくても。
それでも私は、
この人とこれからの人生を歩きたいと思っている。
彼も、私も、立ち止まらない限り。
