(ショートショート)桜餅の甘み、オレンジ色の帰り道
積み上げられた茶色の城塞に囲まれて、私は途方に暮れていた。
新生活の準備。その実態は、終わりの見えないダンボールとの格闘だ。
拭っても止まらない汗と、埃っぽさにやられて、思わず重たいため息が漏れる。
「疲れた」
と独りごちて床に座り込んだその時、スマートフォンの通知音が沈黙を破った。
画面には、新しくできた友人からのLINE。
「ねえ、近所においしい桜餅を食べさせてくれるお店があるんだけど、行かない?」という誘いだった。
「そこ、どこ?」
無意識に指が動いていた。
殺風景な部屋から逃げ出したい一心で、私は返信を送る。
待合場所の確認をすると、私は慌ててダンボールの山をかき分け、奥底に眠っていたお気に入りのワンピースを引っ張り出した。
辿り着いたカフェは、春の柔らかな光に満ちていた。
運ばれてきた桜餅は、淡い桃色の餅を鮮やかな緑の葉が包み込み、えもいわれぬ芳しい香りを漂わせている。
一口食べれば、上品な甘みと塩気の絶妙なバランスが、引っ越し作業で凝り固まった心をゆっくりと解きほぐしていった。
他愛もない会話、響き合う笑い声。
数時間前まで感じていた孤独や疲れは、甘い餡と一緒に溶けて消えてしまった。
充実した時間を終えてマンションの前に辿り着く頃には、空は鮮やかな夕暮れに染まっていた。
街をオレンジ色に包む残照を浴びながら、私は自分の部屋を見上げる。
まだ片付いていないあの部屋も、明日からは少しだけ「私の居場所」に見えるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私は鍵を取り出した。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
