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(ショートショート)鏡の向こうの約束

 朝晩がすっかり寒くなった。
風間 凛かざま りんは小さくくしゃみを一つして、まだ半分眠っているような目で洗面所の鏡に向かう。

 三十歳になった今も、この寝ぼけ眼は学生時代から変わらない。
冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。

 その無意識の動作の中で、彼女の耳は子供部屋の物音を、ただひたすらに拾っていた。

 まだ聞こえてくるのは、二人の健やかな寝息だけ。

 歯ブラシを置いた拍子に、棚の隅に置かれた一枚の写真と目が合った。

 大学の卒業式の日、スーツ姿の夫と、袴姿の自分が、少し照れながら笑っている。

 同じクラスで出会い、恋をして、卒業と同時に結婚した。

 あの頃は、未来が永遠に続くと信じて疑わなかった。
あんなに早く、彼がこの世を去るなんて、思いもしなかった。
交通事故だった。

 あまりに、あっけなく。

 それからのことは、正直よく覚えていない。
ただ、残された二人の子供を育てるためだけに、無我夢中で生きてきた。

 鏡の中の自分と、もう一度向き合う。

 美容部員であるりんは、いつも身だしなみに気を付けている。
お客様に夢や輝きを売る仕事だ。

 自分の悲しみや疲れは、プロとして完璧なメイクの下に隠さなければならない。
ファンデーションを塗り、口紅を引く。

 それは、一日を戦い抜くための、彼女のよろいだった。

 全ての準備を終え、りんは鏡の中の「完璧な自分」の瞳を、まっすぐに見つめた。

 そして、毎朝の約束を、祈るようにそっと口にする。

 「今日も、無事に終われますように」

 その静かな誓いを胸に、りんは子供たちが眠る寝室のドアを、そっと開くのだった。


おしまい。


↑こちらの企画に参加させていただきました。