(ショートショート)満開よりも瑞々しく、春の終わりの散歩道
グラスの中で氷がカランと音を立て、結露した雫がテーブルに小さな輪を作っている。
少し早めの初夏を思わせる陽気に、私たちはアイスコーヒーを啜りながら、午後の柔らかな光の中にいた。
「やるなら今だよ」
母がストローを動かしながら、唐突に、けれど確信に満ちた声で言った。
「何が?」
私が尋ねると、母は窓の外の明るい空を見上げながら、どこまでも呑気な調子で答える。
「お花見に行こうよ、今から」
私は思わず時計に目をやった。
四月も半ばを過ぎ、新しい環境での生活に少しだけ疲れが溜まっていた頃だった。
「もう桜は散り始めてるんじゃない? 盛りはとうに過ぎたでしょ」
「じゃあ、葉桜を見に行こう」
母はちっとも諦める様子がない。
むしろ、薄紅色の花びらが去り、瑞々しい若葉が芽吹き始めた今の姿こそが見頃だと言わんばかりの勢いだ。
隣のソファでは、父が平和そうに昼寝を貪っている。
規則正しい寝息が静かなリビングに響き、それが「今なら静かに出かけられる」という合図のように聞こえた。
「今がチャンス。お父さんが起きないうちに」
私たちは顔を見合わせ、まるで悪巧みをする子供のような足取りで、意気揚々と家を抜け出した。
目的地までの道すがら、風に揺れるのは鮮やかな緑。
かつてピンク色に染まっていた枝には、生命力に溢れた新しい季節が宿っている。
満開の美しさもいいけれど、移ろいゆく葉桜の下を、こうして母と二人で歩く時間も悪くない。
「桜が見られたら、なんでもいいんだよ」
私の呟きは、春の終わりの温かな風に乗って、キラキラと輝く緑の隙間へと吸い込まれていった。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
