(ショートショート)狭き門をこじ開けろ! アマノ文筆クラブ
窓の外では、五月の柔らかな日差しが街路樹の若葉を透かしている。
新しいスーツに袖を通し、胸元に社名の入ったバッジを留める。
鏡の中にいるのは、かつての「神童」でも、立ち止まっていた過去の自分でもない。
一歩を踏み出した一人の「新人」だ。
夜明け前の静寂の中で、私は何度もあの暗いトンネルの中にいた。
周りの友人たちが次々と社会の階段を駆け上がっていく中、私は一人、重たい扉の前に立ち尽くしていた。
三十歳。
世間が「手遅れ」と囁く年齢。
培ってきた自負も、かつての黄金のような記憶も、現実という冷たい壁の前では無力に思えた。
けれど、心の奥底で燻り続けていた火種だけは、どうしても消すことができなかった。
「狭き門をこじ開けろ!」
それは、絶望の淵にいた私が、自分自身に課した唯一の命令だった。
門が狭いなら、体を削ってでも通ればいい。
扉が閉ざされているなら、拳が血に染まっても叩き続ければいい。
効率のいい近道なんてない。
スマートな処世術も今の自分には必要ない。
ただ、泥臭く、実直に、積み重ねてきた努力の総量だけが、この硬い扉を動かす唯一の鍵になると信じた。
不採用の通知が積み重なり、自分の価値を見失いそうになった夜も、私は机に向かった。
文字を追い、知識を蓄え、誰に媚びることもなく「自分」を磨き続けた。
揺らぎそうになる心を、温かなハーブティーと、一冊の文庫本で繋ぎ止めながら。
そして、四月。 その扉は、音も立てずに開いた。
「いつかは努力が報われる」
その言葉は、成功した者が後付けで語る綺麗事だと思っていた。
けれど今、研修先のデスクで、自分の名前が書かれた名札を見つめながら、私は確信している。
報われない努力は、形を変えて、自分を支える「骨」になるのだと。
遠回りをした十年分、私は誰よりも深く物事を熟知し、誰よりも切実に「働くこと」の重みを知っている。
今、背後で扉が閉まる音がした。
それは拒絶の音ではなく、新しい世界へと足を踏み入れた決意の音だ。
三十歳、ここからが私の本番。
こじ開けた門の向こう側には、想像もしていなかったほどに高く、澄み渡った青空が広がっていた。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
