(ショートショート)空白の記憶
砂が落ちきらないあいだに、私は砂時計をくるりと元に戻した。
また新しく積み重なり始める時間を横目に、一冊の古い日記を紐解く。
ページをめくれば、過去の出来事が瑞々しい言葉となって蘇ってくる。
たとえば、彼氏と激しく衝突した日の記録。
読み返せば、あの時の感情が今の私を浸食していく。
意味が生まれる前の風景は、いつだってその瞬間だけは、何物にも代えがたい真実だったのだ。
ふと、この日記に「彼」の視点が完全に欠落していることに気づく。
私の不都合を削ぎ落とし、私の正義だけを並べた独りよがりな記録。
そこには、確かに存在したはずの書かれなかった方の世界がある。
けれど、私はあえてそこには触れない。
時折、日記には「ヤバい」「すごい」といった乱雑な言葉だけが並ぶページがある。
今の私には解読不能な、言葉が意味を拒んだ場所。
しかしそれこそが、私にとっての日記の正体なのだろう。
意味があるようでいて、今の私には何の意味もなさない言葉の断片。
それは、一文字だけで完結する私だけの純粋な欠片だ。
私は天井を見上げ、まだ熱を持った過去の自分を思う。
まだ物語にならない場所で、私は今日も、誰のためでもない言葉を紡ぎ続けていく。
Fin。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
