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(ショートショート)アップグレードの助走、夜桜の誓い

 真新しいスーツに袖を通し、鏡の前で深く息を吐く。

 今日から、僕の新しい章が始まる。

 胸元に、プラスチックの名札をピンで留める。

 そのわずかな重みは、学生時代のそれとは全く違う「社会」という名の重力を持って、僕の背筋を自然と伸ばさせた。

 オフィスビルの一角。

 自分の席に座ったものの、視界は極端に狭い。

 挨拶回り、資料の整理、慣れないPCの操作。

 周りを見渡す余裕など微塵もなく、ただ目の前のタスクに食らいつく。

 緊張という名のフル稼働を続けた僕の身体は、気がつけば深い夜の闇に包まれていた。

 オフィスを出ると、シャツの下にかいた汗が、夜の冷たい空気に触れて急激に冷えていく。

 けれど、その不快感さえ、今は心地よい達成感の一部だった。

 バス停へと続く道すがら、街灯の光を吸い込んでぼんやりと浮かび上がる淡い桃色の塊が目に入った。

 満開の夜桜だ。

 昼間の喧騒を知らないその静かな美しさに、僕は不意に足を止めた。

 今の僕は、まだ何者でもない。

 失敗を恐れ、周囲の顔色を窺うだけの未熟な存在だ。

 けれど、今日という一日を必死に生き抜いたこの足跡は、確実に明日への糧になる。

 「待っててね

 夜風に揺れる花びらを見上げながら、僕は誰に届くともない小さな声で呟いた。

 もっと仕事ができて、もっと頼りがいがあって、もっと自分を誇れる。

 そんなふうにアップグレードした僕になって、一日も早く憧れの君に会いに行きたい。

 闇の中で輝く夜桜を背に、僕は力強く、再び歩き出した。


Fin。


※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。


↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。