(ショートショート)雪と、数字と、深呼吸
雪の結晶が、街灯の鈍い光に照らされて踊っている。
「なんで今日なんだろうね」
独り言が、凍てつく空気の中に白く消えていった。
会社の経営部で働く私にとって、今は一年で最も過酷な確定申告のシーズンだ。
締め切りという名の魔物が背後に迫っているというのに、無情にも雪は降り積もる。
運の悪いことに、頼みの綱だった始発列車は雪の影響で立ち往生。
私は仕方なく、真っ白な静寂の中を会社に向かって歩き始めた。
かじかんだ指先を、コートのポケットに押し込む。そこにあるカイロの小さな温もりだけが、今の私の、心まで凍えさせないための唯一のライフラインだった。
最近は、パソコンやスマホで簡単に申告できるようになった。
けれど、便利になったからといって魔法のように終わるわけじゃない。
数字を精査し、領収書の一枚一枚と格闘しながらパソコンに打ち込むのは、結局のところ、血の通った人間なのだ。
画面の向こうにある「効率化」という言葉の裏には、昼食をとる暇もなくキーボードを叩く私の執念が隠れている。
ようやく辿り着いたオフィス。
静まり返ったフロアで、自宅から持ってきた水筒の蓋を開ける。
立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、温かな飲み物を一口。
「ふぅ」
深く、深く深呼吸。
あともう少し。
この山のような書類を片付ければ、春はもうすぐそこだ。
私はカイロをデスクの脇に置き、再び戦場へと指を走らせ始めた。
オフィスを包むのは、換気扇の低い唸りと、自分のキーボードを叩く音だけ。
窓の外は、昼間の荒ぶる雪が嘘のように静まり返り、街灯の下で銀世界が青白く光っています。
画面に並ぶ無数の数字。
何度も検算し、領収書と突き合わせ、指の感覚がなくなるほどキーを叩き続けてきた。
深夜二時。コーヒーはとっくに冷め、最後の一杯も底を突いた。
「よし。これで、全部だ」
カーソルを「送信」ボタンへと運ぶ。
わずかに震える指先。
もしここでエラーが出たら、あるいは計算ミスが見つかったら。
そんな一抹の不安を振り払うように、私は人差し指に力を込めた。
――カチッ。
静寂の中に、マウスのクリック音が鋭く響く。
画面の中央で小さな円がくるくると回り、私の心臓もそれに合わせて波打つ。
数秒の空白。
それが永遠のようにも感じられた次の瞬間、画面に鮮やかな緑色のチェックマークと共に、その文字が浮かび上がった。
【送信完了】 申告データの受け付けを完了いたしました。
「終わった」
背負っていた巨大な岩が消えてなくなったような、奇妙な浮遊感。
私はキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く体を預けた。
バキバキと音を立てる背筋。
凝り固まった首を回すと、ようやく自分の体が自分のもとに戻ってきた気がした。
ふと、デスクの脇に置いたカイロに触れてみる。
あんなに熱を帯びていたそれは、今はもう役目を終えたように冷たくなっていた。
けれど、私の胸の奥には、やり遂げた者だけが味わえる静かな熱が宿っている。
コートを羽織り、オフィスの電気を消す。
暗闇に沈んだフロアで、パソコンのモニターの青い残像だけがまぶたの裏に焼き付いていた。
外へ出ると、空気は凛として冷たかった。
歩道には、昼間に私が必死に刻んだ足跡が、新しく降り積もった雪に隠されて消えかけている。
「明日は、昼まで寝てやろう」
明日から三連休だ。
そんな贅沢な決意を抱きながら、私は誰一人いない真っ白な道を、羽が生えたような軽い足取りで家へと向かった。
Fin。
※この小説はフィクションです。
登場するモノや人物は存在しません。
↑この企画に参加しました。
ありがとうございました。
