白の村
やがて 仏陀となる あなたへ
私は昭和30年生まれ。
子ども時代は、家が貧乏だった。
高校生まで同じ村に住んでいたが、貧乏だとは思わなかった。
まわりがみんな貧乏だったからだ。
隣近所のおじちゃんもおばちゃんたちも、みんな貧乏だった。
家は、焼き物工場の中にあった。
物置部屋を借りていた。
六畳一間に家族四人で住んでいた。
もちろん、テレビもラジオも電話もなく、畳さえもなかった。
便所も共同、風呂も村にひとだけの共同浴場だった。
川の水をくみ上げていたので、雨が降って川が濁ると風呂水も薄茶色になった。
天井板もなかったので、ご飯の上に焼き物を焼くときに出る黒い煤煙が降ってきた。
よく、お隣に醤油を借りに行かされた。
借りた醤油を返すときには、母がお礼にマッチ棒三本をそえていた。
村に初めてテレビが来た。
白い陶器に絵付けをしてる、村で少し金持ちの家だった。
テレビが珍しかったので、村のみんなが見に行った。
母はそこの従業員だったので、テレビをめあてに家族で出かけていったことがある。
その家に行くと、たくさんの人が集まっていた。
酒を飲む男たち、笑いながらおしゃべりをするおばさんたち、走りまわって騒ぐ子どもたち。
夜8時になると、みんなテレビの前に集合した。
「プロレス」だ。
力道山の空手チョップに大人も子どもも沸いた。
話は最初に戻るが、この村に一家で引っ越してきたばかりのころの話だ。
私が4歳か5歳のころだったと思う。
ここは陶器の村だった。
陶器を焼く煙突があちらこちらに建っていた
。
陶器を窯で焼くときに、焼き物の下に敷く「はま」と呼ばれる丸い茶碗の大きさぐらいの台がある。
白くて、円盤状の皿だ。
陶器が焼き終わるとその「はま」は道に捨てられる。
だから、村の道という道にはどこにでも「はま」が敷き詰められていた。
今のようにアスファルトではなかった時代だ。
村の道は白かった。

夏、暑い日が続いた。
母が病気で寝こんだ。
布団に寝ている母を残し、幼児の私は一人で、村に一軒しかなかった小さな雑貨屋に歩いて行った。
白い道を、ジャリ、ジャリと音を立てながら歩いた。
橋の上も白かった。
雑貨屋に着いた。
私は、店の棚から、「けいらん」を手にすると、お金を払わずにそのまま店を出たらしい。
母は「けいらん」が好きだった。
「けいらん」とは、白い餅の中にあんこが入った長方形の餅菓子だ。
白い表面に赤い模様が入れてある。
昔は、出店がたつ運動会やお祭りのときにしか食べられなかった。
寝ている母の枕もとに、私が「けいらん」を差し出すと、母は飛び起きた。
ぼさぼさの髪に、はだけた寝巻姿そのままに、私の手を引いて雑貨屋に向かった。
はっきり覚えているのは、母が雑貨屋のお婆さんに深々と何度も頭を下げている姿だ。
お婆さんが「よか、よか」と言うように、母に小さく手を振っていた。
帰り道、母は一言も私を叱らなかった。
母を見上げても、逆光で見えなかったが、母は泣いていたのかもしれない。
夏の強い日差しが白く照り返す。
ゆっくりと、母に手を引かれて、白い道を帰った。
みんな貧乏だったから助け合えた。
正直だったから明るかった。
