【掌編小説】 レシートに置いていかれた旋律 〜シロクマ文芸部〜
レシートに何か書いてある
その女性はレシートをレシート入れに捨てなかった。今日のそれは財布にしまい、代わりに昨日のものらしい一枚を、レシート入れに押し込んだ。
五線譜にニ小節ぶんの旋律と歌詞。
大学でバンドをしている私は、それを見過ごすことができなかった。指先でつまみ上げ、出入り口に視線をやる。もう姿はない。
差し入れだろうか。
このあたりでは、ほんの少しだけ名前が知られているフロントマンだし、そんなことがあってもおかしくはない。ちょっとだけ期待してる自分がいて、少しだけ居心地が悪かった。
けれど、二小節だけでは、まだ何も始まらない。
次のバイトの日、彼女はまた来た。おそらく毎日このコンビニを使っているのだろう。そして同じように、五線譜の書かれたレシートを残していく。
え、なにこれ、ちゃんと続いてる
今度は、前回の続きをなぞるように、さらに二小節ぶんの旋律と歌詞。
話しかけようと思えばいくらでもできた。でも、できなかった。なんか、そういうのを全部シャットアウトしてそうな空気があったからだ。
大きめのマスク、ショートカット、色白。目は細いけど、印象は強い。正直、好みだった。
彼女はいつも、少しだけ急いでいるように見えた。
別に遅刻しているわけでもなさそうなのに、会計が終わるとすぐに店を出ていく。
そうして、少しずつだけど、彼女が持ってくるメロディが出来上がっていく。
単純なんだけど、妙に耳に残るメロディだった。困難に遭遇しても、前を向いて生きて行こうって感じの曲。「愛は勝つ」「負けないで」のような方向性。
夜、自室でそれを打ち込みながら、ギターやベースの音を重ねる。ストリングスを入れてみると、意外なほどに広がりが出た。拍手の残響まで、まだ鳴ってもいないのに想像できる。
この曲のことは、誰にも話さなかった。
彼女とのあいだにだけ流れている時間を、壊したくなかったから。
次はどんなのが来るんだろう。
単調でだるいだけだったバイトが、密かな楽しみになってきていた。
そうしてサビが半分ほど見えた頃、彼女はいつものように現れた。けれど、その日のレシートには五線譜が書かれてなかった。
「ここから先は、お願いします」
意味がわからなかった。
いや、わかるけど、わかりたくないやつだ。
俺はレジを飛び出して、外に出た。ちょうど彼女が地下鉄の階段に向かってるところだった。
「あの、すみません!」
思ったより大きい声が出て、自分でもびっくりした。周りの人が一斉にこっちを見る。彼女も。
「なんで、ここまでなんですか」
自分でも情けない聞き方だと思った。
彼女は一瞬だけ迷ったみたいに見えたあと、マスクを外した。
「ごめんなさい。しばらく会えないかも」
それだけ言って、少し笑った。
その顔を見て、ああ、やっぱりちゃんと好きなタイプだなって思った。
こんなタイミングで。
名前も聞いてないのに。
彼女はそのまま、人の流れに溶けていった。
理由はいくつも考えられた。遠くへ行くのかもしれないし、ただ気まぐれに終わっただけかもしれない。けれど、どれも確かな手触りを持たなかった。
半年が過ぎても、彼女は現れなかった。
仕方なく残りは自分で書いた。自分の中にあるものを、すべてそこへ流し込むようにして。
完成した曲は、バンドのメンバーにも驚くほど好評だった。
そして今、私はライブハウスでその曲を歌う。
あのレシートの続きを、ようやく音にして。
もしかしたら来てるかも、って思いながら。
客席のいちばん後ろに、初老の男性がひとり立っている。拍手の音の中で、その人だけが、少しだけ動かない。胸に抱えた小さな遺影を、決して揺らさないようにして。
その視線が、ステージに向けられていることを、私はまだ知らない。
こちらのお題に参加させていただきます
寝ようと思ってたら、ふと思いつきましたので、書いて寝ます おやすみなさい
よろしくお願いします
