MacroMind Directorとの出会い
むかしむかし。あるところに夢をこじらせたデザイナーの若者がおりました。ときはバブル崩壊直後。マリアクラブも営業していたまだバブルの残り香が漂う福岡市。
九州デザイナー学院を卒業して紆余曲折、デザイン会社を転々として(これもいつか昔話で書きたい)Blinkという名前だけは輝かしい印刷会社の子会社で働いていた。デザイン会社なのにMacが一台だけ、会議室においてあるのでデザインの仕事のときは会議室にこもることになる。
Macは5MBメモリ HDは100MBだった。メガよw
1995年、結婚を控えたある日CMをディレクションしていた井上さん(仮名)から「廣くんちょっと一緒に来て」と会議室に呼ばれた。井上さんはけたたましい音のDUCATI VENTにまたがるライダーとしても頭おかしい部分も先輩。僕のバイクはその頃SUZUKI GSX750SS。いわゆるカタナってやつの頃だ。

会議室には福岡市で1番最初のMac IIを僕に与え、デザインを教えていただいた恩師である荒木専務(仮名)が待っていた。そういえば荒木さんもSUZUKI RH250という2STモンスターでゴンドーシャロレー牧場を駆け回る猛者中の猛者だわ。タッパも190cmくらいある。昭和ってバイク乗りばっかりやね。
その荒木専務に向かって井上さんは「辞めます。廣も」って言ったのだった。
「え?」っ初耳となったのだけど、まぁ超薄給の労基法もクソもない仕事環境であったし辞めたくない理由がほとんどなかったので言われるままに井上さんについていくというなんとも受け身な転職であった。これまでもそうだったんだけど、状況が流れるときはチャンスが落ちてるかもと根拠のない自信があったのだ。
その頃の給与明細貼っておきます。

転職した先はNiiproという元はDTPでミニコミ誌を作っていた小さな会社。仁井社長(仮名)は僕にMacを教えてくれた先生でもある。本来は有能なプランナーである井上さんを引き抜いたところに僕がついてきたというお荷物だった。
仕方がないので社長は「これを使えるようになっとけ」と触らせてくれたのがMacroMind Director 1.0Jと2.0だった。
一本のタイムラインを持ち、24のスプライトを並べてアニメーションができるツール。2.0は英語版だけどスクリプトチャンネルがあってそこでイベントを拾ってプログラムが実行できるようになっていた。プログラミングなんてオタクの気色悪い趣味だ!とすごい偏見だった僕がプログラミングを夢中になって学んだ。

日本語の参考書はないのでマニュアルを持ち歩いて電車やカフェで勉強しまくり。スクリプトについてはHyperCardのHyperText HyperTalkに似ている記述だったので大重美幸先生と掌田 津耶乃先生の本で学んだ。
その後Directorを使う仕事が舞い込むようになり忙しい日々を過ごした。当時一番嬉しかったのは幕張メッセで行われる事になったMac World JapanでAppleの社長がプレゼンするための「エレクトリック・ポエトリーDOVANNA」というアプリを作ったこと。そう佐野元春さんのアプリなのだ。わざわざ福岡まで来ていただいて土日2日間くらいで作成した。
耳元で佐野さんが「それはCast To Time じゃなかったかな?」とDirectorの英語版に慣れておらずモタモタしている僕の横で囁く。SOMEDAYやナイアガラトライアングルで中学の時から知っている憧れのアーティストがわざわざ福岡に来られて制作を3時の方向1mで見守ってくれている。
僕はというとその佐野さんの頭がパッカーンと割れて中からメロンパンじゃなくキカイダーみたいなメカや街がチカチカするアニメーションを作っていたりしてなんとも失礼極みだった。ほんとごめんなさい。
その「Dovanna」という作品は僕の実写の顔がまずあって、その後ろにちょうど嵐のときの雲が流れて、そこで僕の顔が常に微妙に変化する。そして、それぞれにクリックするポイントを設定してあって、目をクリックすると画面の僕が見ている別の風景が映し出されて、口をクリックするとオーラルの表現に変わるといったようなものが2分か3分間ぐらい続くというものです。
また、あるポイントをクリックすると僕の詩句表現に連動して(僕がDovannaという女性について読み上げていく)Dovannaの身体のやわらかなラインに沿って僕が触るというような動画となる。その瞬間に、僕の頭脳をクリックすると、巨大なエクスプロージョンがドカン!とくるといったものでした。
いやほんと無意識に勝手に湧いた稚拙なイメージをそのまま使っていただいて、ダメ出しは一つもなかった気がする。
マルチメディアの幕開けである。
その後、ぼくはMacromedia Director 4.0の発売と同時に一冊の本を上梓した。お前本を書けと仁井社長が技術評論社に紹介してくれた。カバーデザインまでやらせていただけるということが嬉しかった。

27歳で一冊目の本が出て数年経ったある日。その時には東京の会社に転職。Macromedia Japanのイベントなどで登壇したりするようになって会場で名刺交換をたくさんした。
その時、一人の女性が「この本がなければ今何をしていたかわかりません」と言ってくれた。この一言がちょっとすっ飛ばすが20年後Flash衰退の時代にUnityの本を書くのは僕だ!と思うことにつながっていったのだ。

マクロメディアのイベントに参加する様になって、いつだったか忘れたけどサンフランシスコのカンファレンスを見に行けることになった。その時出会ったのがLINGOという言語を開発された張本人のJT様。

その著書の日本語版を完訳することになったのだ。これがOHM社さんとの出会いである。

技術書出版社の雄であるOHM社(現在は社長)の村上さんと一緒に幕張のロイホで朝まで監訳作業をしたのを今でも覚えてる。カバーデザインもさせてくださいと作ったのが上の写真のカバー。
その後OHM社さんの本のカバーデザインを180冊近くさせていただく事になったのだけどついぞ自分の本は出せなかった。時は1995年あたり。
やっと出せる事になったのは2014年の事。
そしてさらに10年以上の月日を経て2冊目を2026年には出す。皆さんもう少し待っていてください。前の本もそこそこ濃かったと思うけど今度の本は2倍くらいの濃さだと思う。なんせ10年のしごとで培った小ネタが満載なので。
