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在日外国人支援を続けていきたい人

むかしむかし、ある港町に、架橋(かきょう)という名の若者が住んでいました。
架橋は海の向こうから渡ってきた人々が、言葉も分からず、道に迷い、困り果てている姿をよく見かけました。
「私に何かできることはないだろうか」
架橋は毎日、港へ出かけては、見慣れぬ土地で不安そうにしている人々に声をかけ、道を教え、言葉を教え、時には自分の家で温かい食事を振る舞いました。
ある日、村の古老が架橋に尋ねました。
「お前はなぜ、そこまでするのだ? 疲れることもあるだろうに」
架橋は静かに答えました。
「この人たちは、勇気を持ってこの地へ来たのです。でも、橋がなければ川は渡れません。私は人と人との間に橋を架ける者でありたいのです」
やがて、架橋に助けられた人々は町に根を下ろし、それぞれの技や文化を伝えました。町は色とりどりの花が咲くように豊かになっていきました。
年老いた架橋は、かつて助けた人々に囲まれながら、こう語りました。
「橋は一度架ければ終わりではありません。人の心をつなぐ橋は、毎日架け続けなければならないのです」
それから「橋を架ける者は、二つの岸を豊かにする」ということわざが生まれたとさ。
めでたし、めでたし。

と思う2025年12月13日10時25分に書く無名人インタビュー1220回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】


今回ご参加いただいたのは 宮城保之 さんです!

年齢:50代前半
性別:男
職業:日本語学校教員



現在:言葉っていうのは単なるツール・道具じゃなくって、自分をいろんな社会の圧力から守るための盾みたいなものでしょうか

qbc:今何をしている人でしょうか?

宮城保之:一つ目は、山口県の下関市に日本語学校がありまして、私はそこの教員として外国人留学生に日本語を教えています。
二つ目は、一般社団法人サクラ国際合唱団、略して「SIC」という団体を主宰していまして、北九州市や下関市に住んでる在日外国人の人たちを集めて、日本語や英語の歌を歌う国際合唱団を運営しています。
三つ目は、北九州市に東八幡キリスト教会という教会がありまして。そこの牧師が奥田知志さんといって、NPO法人「抱樸」の代表の方で、長年ホームレス支援などされてきた方で、今、北九州市で「希望のまち」という複合型社会施設の建設を進めるプロジェクトをされています。その牧師のことを知って、私はそこの教会に加入して、肩書き上「伝道委員長」といって、イベントを企画したりする役目をしたりしています。
四つ目は、ウェブライターをしてます。『北九州ノコト』という情報サイトがありまして、そこに記事を書いていろんな方達に取材して記事を書くことも今月から始めました。
五つ目がですね、私はもともとドイツ文学を勉強しまして、文学が好きで、小説やエッセイを書いています。エッセイだと、去年、岐阜県恵那市で第22回の下田歌子賞という賞でエッセイの佳作を頂戴しました。あと今月、『文芸思潮』という雑誌がありまして、そこの第18回の銀華文学賞奨励賞という賞をいただくことができました。その五つですね。
SICのシンボルマークは桜の花なんですが、その五つの花弁のようにこの五つの仕事が私の中でお互いを支え合っています。遅ればせながらようやく開花したという感じです。

qbc:どれが一番中心になってます?

宮城保之:中心というか、基本的な職務は下関の日本語学校の教師ですね。本職と言えばそれになりますね。

qbc:自分の中で、じゃあその中心にしたいなぁみたいなものってあるんですか?

宮城保之:中心ですか? そうですね…。私はクリスチャンで、まあ中心と言うか基盤と言うとそれですかね。キリスト教の信仰ということになるのでしょうか。

qbc:はっきりしないって感じなんですかね。じゃあ自分の中でこれが一番やりたいことなんですよみたいなのは。

宮城保之:具体的な仕事という意味で言うと在日外国人支援ということでしょうか。日本語学校での日本語を外国人に教える仕事もそうですし、SICという国際合唱団で在日外国人の方達を指導するというのもそうですね。ウェブライター業でも地域の外国人が関わるイベントや店を取材することが多いです。具体的な仕事という意味で言うと、在日外国人支援ということになるのかな。

qbc:別にこの場で改めて考えていただいてますけど、なんか自分の中でその中心になってる事じゃなくて、もうテーマでもいいですが。

宮城保之:言葉へのこだわりというのもあるかもしれませんね。だから私はドイツ文学を勉強してドイツ語を学んで、オーストリアのウィーンに14年ぐらい暮らしまして、そこで初めて日本語教師を始めました。日本語を、言語を教えたりとか、ライターとして記事を書いたり、小説やエッセイを書いたりするのも、やっぱり自分の中に言葉へのこだわりというのが強くあってやってるのかなというふうに思ってます。

qbc:日々どんな気持ちで過ごされてることが多いんですか?

宮城保之:そうですね…。私、今53歳なんですけど。ちょうど30年前ですね、私の父が今の私と同じ53歳で癌で亡くなってるんですね。で、53って私の父が亡くなった年だなあと思いまして。本当はもう自分は死んでいてもおかしくないような歳なのかなと思って。それだったら、もう思いっきり自分のしたいことをしてやろうみたいな感じで生きてますかね。

qbc:気分として、まあ感情っていう部分でいったらどういう感じ?

宮城保之:感情ですか。まあ単純に、辛いこともいっぱいあるけど、それも含めて基本的にはやっぱり人生は楽しいなと思ってますよ。

qbc:最近の気分としては?

宮城保之:ああ、最近、いろいろ…私、先月10月に付き合ってた恋人とですね、結婚というか入籍しまして。で、その国際合唱団も彼女と一緒にやってる企画でして。
で、今月から『北九州ノコト』っていうウェブサイトでライターも。これも昔ウィーンにいた時始めたことなんですけど、しばらく中断してて、またそれを始めたりとか。
それから小説では賞を頂いたりとか、色々面白いことがたくさんあって。
今日もこうして栗林さんとネットを通じて面白そうな出会いがあったりして、いろいろ生きてると面白いことがあるなと思ってます。

qbc:結婚はいつされたんですか?

宮城保之:入籍したのは先月10月23日ですね。まだ式を挙げてませんが入籍しましたね。

qbc:おめでとうございます。他に趣味をしたりする時間ってあるんですか?

宮城保之:本読んだり、映画を見たりとかですね。あと妻と一緒にちょっと旅行に出かけたり。温泉が好きですね。

qbc:どんな本を読まれたり、映画を見られたりするんですか?

宮城保之:本はそうですね。東八幡教会の奥田知志牧師が書かれた、最近だと『希望のまち』っていうプロジェクトについての本を読んだり。あと、X(エックス)をしていて、そこで知り合った人たちが書かれてる本を読んだりしてますね。

qbc:どんな内容の本を読まれたんですか?

宮城保之:この間読んだのは、鈴村智久さんという方が書かれた、ドイツの哲学者のヘーゲルっていう哲学者についての本ですね。で、最近はそういうきっかけでAmazonのレビューも書くようになりまして。
あと、チャン・ヴァン・クエンさんか。日本に暮らしてるベトナム人の方がXで面白い発言をされてまして、その方の電子書籍ですけど、読んだりしています。
あと村上吉文さんと言う、海外に住んでる日本語教師の方とXで知り合ったんですが、電子書籍で「今の日本の排外主義に対して日本語教師がどう戦うか」といった本を書かれてまして、それを読んだりしましたね。

qbc:そうすると、言葉への興味ってのはどんな感じのものなんですか?

宮城保之:言葉への興味…そうですね。言葉っていうのが、単なるそのツール・道具じゃなくって、自分をこういろんな社会のいろんな圧力から守るための盾みたいな感じですかね。そういう意味で積極的にその言葉の力というのを鍛えていかないと、自分自身を守っていけないんじゃないかという思いが昔からありまして。意識して、そういうことを自分も日々実践していこうと思ってるんですよ。

qbc:具体的にどういうことを?

宮城保之:具体的には、そうですね、Xを使うことも一つですね。Xで発言すると、炎上するリスクがあったりしてそれを怖がったりする人もいるんですけど。私はなるべくそういうリスクも覚悟しながら、それでもやっぱり言葉遣いを丁寧にしながら積極的に自分の意見を、Xやブログ等で書いていこう、発信していこうとしています。
あとエッセイの公募に応募したりしています。小説もですね、今年『異邦人』というタイトルで一つ自伝的な小説を書いて、それをブログにアップしました。そういうふうに小説を書く作業というのも、またこれからも続けていきたいと思ってますね。

qbc:言葉への興味っていうのは、なんかその「盾になる」っていうのは、具体的には?

宮城保之:いわゆるヘイトスピーチから身を守るというのもあるんですが、日本の社会は、いろいろ「思い込み」を植え付けようとしてくる社会じゃないかと思っていまして。わかりやすい例は美意識で、昔は「ちょんまげはかっこいい」、「お歯黒は綺麗だ」だなんて思われていた訳ですよね。そうしたイメージの刷り込みはわかりやすいかと思います。
自分を取り巻くいろんな周囲の圧力、マスメディアのニュースなんか見てても、そういう圧力を感じていて。そういう中で自分を守り通していくためには、自分自身が自分の言葉というのを丁寧に使って自分の魂を守っていかなければならないんじゃないかと思ってます。
で、そのために文学的な実践や外国語の学習は役立つのではないかと考えているわけです。

qbc:そうするとマスメディアとか言論とかっていうようなイメージですかね、言葉っていう。

宮城保之:そうですね。言論とか、社会の刷り込みですね。いわゆる社会的地位が高い人たちも、世間体の良さみたいな思い込みを植え付けようとしてきたりします。私はそういった経験を潜ってきたので、自分を守り通していくためにも、自分自身の譲れぬ言葉をしっかり持って磨いていく必要があるなあ、と今更ながら思ってます。

qbc:具体的な例ってあります? その押しつけられたとか。

宮城保之:私はもともと日本の大学でドイツ文学を勉強してて、大学院も行って、ドイツ文学の教授とか研究者の方たちを知っているんですが、その人たちは表面は取り繕っていても陰では人の悪口、陰口言い合ってたりしていて。グループ作って、他の人たちもそれに巻き込んでいこうとするわけなんですよね。そういうのに対して、自分は警戒心が強くなったりしまして。

qbc:具体的には言えないですかね。なんかその教授が、こういう時にこういうことを言ってきたみたいな。

宮城保之:そうですね。「大学院に進んだらもう大学の教員になるしか道はないんだぞ」みたいな思い込みを植え付けようとする教授がいましたね。「それにならなければもう人生おしまい」みたいなことを言ってくる教授です。その人自身を基準にした「正しい生き方」みたいなものが教科書的にあって、そこから外れたら破滅するぞみたいに恐怖感を植えつけて脅そうとしてくる。私が所属していた日本独文学会と言う学術団体の学会長をしていた人物も正にそういう思い込みに囚われた人でした。でも私、実際今大学の教授じゃないけど、ものすごく人生充実してるわけで、その人が言ってたことというのは全く根も葉もない思い込みに過ぎないんだなと思ってますね。ドイツの文学や思想を専門的に学んだり、ナチスによる情報操作の歴史を頭では知っているはずの人物がそんな世間の噂、身内の陰口を鵜呑みにして、学会長になったり定年退職後は平然と名誉教授になったりしているわけで、その実態に唖然とします。その人、奥さんも同業者ですし、すごく環境に甘やかされていて、批判精神が育たなかったんでしょうね。

qbc:これと言葉っていうのはどういう関係性があるんですか?思い込み から身を守るっていう。

宮城保之:そうですね。その人たちがドイツ文学の教授とか、言葉に関わる、ドイツ語を教えたり文学を教えたり、言葉を教える立場にありながら、本人の言葉遣いが明らかに陰で卑しくなっていたり、汚い言葉遣いを平気でする。で、そういうところから、その人の魂が汚れていってるんじゃないかと私は感じまして。言葉遣いというのを大切にすることによって、マインドコントロールみたいなものから身を守ることができるんじゃないかと思っています。
昔、日本でサッカーの代表監督されていたイビチャ・オシム監督なんて私は大好きで、私はサッカーはよくわからないですけど、彼のインタビューを見てるとものすごく丁寧な言葉遣いをしていて。何かそういう言葉遣いを大切にすることによって守れるものがあるんじゃないかと。私自身もそれを実践していきたいなと思ってるんです。

qbc:性格は人から何て言われたりします?

宮城保之:性格は基本的に大人しいとか。学生からは優しいと言われますね。勤務校の同僚の先生方からは、「宮城先生は学生に優しすぎる」といって叱られてばかりいます。

qbc:自分自身ではどういう性格だと思ってます?

宮城保之:小説書いたりとか、我が強いのかなというのはあります。ただ、あんまり人と喧嘩したりとか苦手なたちで、なるべく対立をしないようにするところがありますね。
自分が書いた小説を読み返してみて、自分は世間と距離をとって「観察」する習性が強いんだなとつくづく思います。一方で他者に「介入」するのは苦手で、口喧嘩なんてしたことがありません。その一方で自分が周りから観察されているという自覚もあります。ウィーンにいた時も、オーストリア人やドイツ人が外国人である自分のことを観察している、値踏みしている、というのは分かっていました。だから彼らが「ドイツ語が上手ですね」などと褒めてくれても、それが本心からの称賛なのか単なる社交辞令に過ぎないのか。疑う気持ちは常に忘れずにいました。
それから私には「戦略家」的な気質があると思います。例えば国際合唱団を作ったら、どうやってそれをインターネット等も活用して売り込んでいくかストラテジーを練り、実行に移していく。そういう作業がやたらと性に合うんです。一方で私は自分が「切り込み隊長」みたいな役割をすることも好みます。つまり私は戦略を練るのは好きなんですが、「人に指示する」のが大の苦手なんです。だから自分自身でやるしかない。このインタビューも「切り込み隊長」としての私の仕事の一つですね。
もう一つ、私は自分の「イメージ」をとても大切にします。例えば私が今SNS等で使っているプロフィール写真は今年の6月に催された山口県合唱連盟による「歌フェス」で撮って頂いたものなんですが、私が望んでいた自分のイメージにぴったりの画像です。私達SICのメンバーの集合写真を撮影する時、撮影係の方が「ガッツポーズをして下さい!」って言ったんです。それで私は反射的に左手を構えた。イベント後に送られて来たその写真を見て、私ははっとしました。そこには私が望んでいた自分の姿があったんです。私は写真を撮られる時、ガッツポーズをしたことなんて他にありません。不思議なことです。私は昔から、フランツ・カフカや中原中也といった文学者の肖像写真に不思議と惹かれていました。そのイメージに彼らの作品の秘密があるかと感じていました。だから私は自分のこの画像のイメージを大切にしていきます。
そして私は今年11月に新しいホームページを作ったんですが、そこに自分のシンボルアイコンを設置しました。

この十字架にペンを交差させたアイコンは私が構想し、SIC団員であるテイカンヨさんが作成して下さったものです。私はこうやって「あるべき自分のイメージ」を明確に保持する姿勢をとても大切にしています。
それとやはり私は、自分自身に対する関心が人並み以上に強いんだと思います。自分が一体何者なのか考えずにはいられない。だから文学や哲学を学んだり、自伝的小説を書いたり、こうしたインタビューを歓迎したりするんでしょうね。

qbc:距離の近い人、パートナー、家族、親友とかそういう距離の近い人から言われる一面ってあります?

宮城保之:私の妻は私と最初は職場で出会ったんですが、初めて見た時から私に芸術家っぽい雰囲気を感じていたと後で言われました。その言葉を聞いて私は、昔小説を書こうとしていたことを思い出したんです。それをきっかけに、また小説を書こうと思うようになりました。その彼女が芸術好きで、彼女の父親は高校の美術の先生をやりながら自宅のアトリエで絵を描いていた方なんです。そういう背景があって、彼女は芸術にとても興味を持ち、国際合唱団を作ったりしたわけです。彼女は私にも、そういう気質があるんじゃないかというのを感じ取ったそうなんです。
で、私自身はと言えば、昔は文学に興味があって創作も試みていたんですけど、しばらくそこから離れていて、そういう自分を忘れ去ろうとしていた。それが彼女との出会いによって、その志を思い出し、また小説を書くようになったということですね。

qbc:ちなみにその教師の方はいつ頃から?

宮城保之:もともと最初始めたのは、オーストリアのウィーンにいた時で、ウィーンの市がやってる市民大学っていうのがあって、そこで始めたのが東日本大震災の後ですね。

qbc:じゃあ2011年過ぎにウィーンで始められて。で、そこに10年ぐらいいらっしゃったんですか?

宮城保之:そうですね。

qbc:日本に帰ってきたのは?

宮城保之:帰ってきたのが2015年ぐらいですかね。で、私の実家が福岡県で、最初はそこに母親がいてそちらに住んでましたが、山口県の下関市で仕事するようになり、今の住まいはそこです。まあ近いですけどね、実家とは。

qbc:順番に確認させてください。2011年過ぎぐらいにウィーンで始められて、2015年ぐらいに帰ってきた?

宮城保之:そうですね。で、帰ってきて日本語教師の養成講座に資格を取るために通い、その後ですね。

qbc: じゃあ日本でも十年ぐらい?

宮城保之:そうですね。


過去:大学やアカデミズムがやはり自分の性に合わないというのを感じていたわけです。

qbc:過去について聞いていきたいんですけども、子供の頃はどんな?

宮城保之:私が生まれた時、妙なことが二つありました。一つは、私は二歳歳上の兄がいるんですが、私はその兄と誕生日が同じなんです。もう一つは、私は生まれた時、肌の色が真っ白で、お医者さん達をびっくりさせたそうです。
で、私の実家は三代続いた開業医です。私は次男なんですが、父親は医者で。だから親は私を医者にしたかったわけです。医学部に進めたかったんです。
で、小学校は普通の公立校に行ったんですが、中学で受験しまして。福岡に久留米大学附設中学っていう学校があって、いわゆる進学校ですね。そういう学校に入って、中学高校六年間寮生活をしました。
そこで私は要するに落ちこぼれたわけで、大学受験に失敗し、親は私を東京の駿台予備校の医学部進学コースににやったわけです。
ですが私は結局そこで、もう医学部は無理だと考えたんです。それで文学を勉強したいと思って、結局大学は東京の大学の文学部のドイツ文学科に入りました。

qbc:どんな子供だったんですか? 子供の頃。

宮城保之:そうですね…。ちょうど『機動戦士ガンダム』とかアニメが流行ってガンプラブームがあってプラモデルを作るのが好きでしたね。親が塾教師をつけたのでそれで勉強してたけど、勉強が好きというタイプじゃなかったです。読書は好きで、ドイツの『大泥棒ホッツェンプロッツ』等の童話や星新一等も愛読してました。子供の時も読書は好きでしたね。

qbc:子供の頃で、なんかほんとちっちゃい頃の好きな遊びとかって覚えてらっしゃいます?

宮城保之:やっぱりガンプラ作りかな。

qbc:幼稚園とか保育園とかその頃は?

宮城保之:その頃はですね、近くに田んぼとかあったんで、そこでカエルを捕まえたりとかしていました。十円で買えるようなゴムボールで遊んだりとか。ガチャガチャも楽しんでましたね。

qbc:外遊びと家の中で遊ぶって言ったら、どっちかいうとどっちですか?

宮城保之:どっちかって言うと、外で田んぼとか行ってカエル捕まえたりトカゲ捕まえたりとか、そういうのが多かったですかね。でも、読書も好きでしたけどね。

qbc:どんな本が好きだったんですか?

宮城保之:お気に入りは『大泥棒ホッツェンプロッツ』とか、あと佐藤さとるさんの『コロボックル物語』とか好きでしたね。子供の時に。
あと、昔は少年ジャンプとか、漫画もよく読みました。『Dr.スランプ』が人気が出たのは私が小学生の時ですかね、鳥山明。そういうのも好きでしたよ。でもキャラクターで一番惹かれたのは手塚治虫の『ブラック・ジャック』ですね。反骨的なキャラが好きなんです。

qbc:小学校とか学校ではどんな子だったんですか?

宮城保之:小学校の時、そうですね。親が教育熱心で、学校だとクラスに医者の家庭の子どもはそんなにいなかったんで。小学校の時は学校の勉強は塾教師をつけられていたからできていたわけですけど、自分が勉強好きというわけじゃなかったです。体力も無くて、体育も苦手でしたね。

qbc:中学校ではどんな子でした?

宮城保之:中学では寮に入りました。当時は男子校で。ただ、医学部進学に私自身が乗り気じゃなかったし、中学受験を終えて、気が抜けちゃったといいますか。それで私理数系がものすごく苦手で、全然授業についていけなくて。落ちこぼれちゃってましたね。

qbc:小中っていうのはなんか何が好きな子だったんですか?

宮城保之:読書は好きでしたね。小説も好きでしたが、当時は『週刊少年ジャンプ』等の格闘系少年漫画のブームがあって、私も熱中していました。『北斗の拳』等ですね。ただ私はそういう少年漫画を「自分事」として読もうとしていたところが変わっていたのかもしれません。例えば『るろうに剣心』を読んで、どうすれば自分が緋村剣心のように生きられるのか真剣に考えるわけです。社会的弱者を守って闘うヒーローに憧れていました。今の仕事はその憧れへの応答と言えるでしょう。自分の中のヒロイズムの原型を作ったのは、日本の少年漫画でしょうね。
中学の頃はファミコンの『ドラクエ』ブームもありました。ただ寮生活だったので、したくても夏休みの帰省時等にしか出来ませんでしたね。
あと、テレビやラジオで、プロ野球の大洋ホエールズ、今の横浜DeNAベイスターズの前身のチームのファンで、その応援するのも楽しみでした。「プロ野球チップス」っていうお菓子がありまして、プロ野球選手のカードがおまけでついているんです。それで最初に買ったのを開けたら、当時大洋のエースだった遠藤一彦投手のカードが出てきまして、それがきっかけでファンになりました。当時の大洋は弱小チームでしたが、腐らず一人黙々と投げる遠藤投手はかっこよかったです。
あと寮だったんで、ボードゲームは同級生と楽しんでましたね。でもテレビゲームはできないんですよ、寮は。

qbc:高校はそれでどんな感じになったんですか?

宮城保之:高校も、中高一貫なんで、ほとんど同じような感じですね。私がいたその学校の一年後輩に堀江貴文さんがいるんですが、堀江さんと私には似たようなところがあると思います。その学校はいわゆる社会的成功を模範としたパターンに生徒を当てはめようとするような教育をしていた学校なんですが、堀江さんや私というのはそういうパターン化される図式が極めて苦手なんだと思うんです。だから子どもの頃から私に「期待」をしてきた人達は、まずその「期待」の仕方が間違っていたと思う。私にはパターン化された社会的成功への期待に応じる能力がおそらく欠落しているんです。そういうものに逆らわずには生きていけない。だからもう諦めて頂くしかない。
今年の7月に私は関西大学文学部の酒井真道教授に依頼されて同大学で日本語学校の教育についてゲスト講義をしたんですが、酒井さんと私はウィーンで留学生同士として知り合ったという関係です。彼は大変ユニークな方で、40歳過ぎて外国でふらふらしていた私みたいな人物を当時から凄く買って下さっていました。ただその酒井さんでさえ、私が小説を書いていることは知らなかったわけです。その講演の4ヶ月後に私が文学賞を受賞するなんて思ってもみなかったでしょう。それは本当に面白いと思います。
まあその中学・高校で学んだ一番の教訓は、「いくら周りを優秀な人達が取り囲んでいようが、自分がやらなければ何にもならない」という現実を骨の髄まで思い知らされたということでしょうね。

qbc:高校のあと進路進学は?

宮城保之:大学に行きましたね。文学部ドイツ文学科に入って、ドイツ語を勉強したり、ドイツやオーストリアの文学作品を読んだりしました。それから文学系のサークルに入って自分で小説書いてみたりも。卒業後は大学院に進んで、研究もしました。修士論文はヴァルター・ベンヤミンというドイツの思想家について書きました。
それから大学時代にキリスト教に興味を持って、教会に通ったりもしましたね。その後、信仰からはしばらく離れちゃいましたけど。

qbc:お医者さんになるっていうのはどのタイミングで無しになったんですか?

宮城保之:ああ、私は東京で浪人してた時ですね。その夏ぐらいですかね。

qbc:それってどういうふうに辞められたというか。

宮城保之:そうですね。駿台予備校に入って、中学高校でも落ちこぼれてたけど、自分の模試の成績を見てもやっぱり学力が伸びるどころか落ちていってるようなのがはっきりわかるわけで。これはまあ無理だろうなっていうのが、さすがに分かりまして。思い切って全く別の、自分がやりたかった文学の勉強をしたいなと思うようになりまして。中原中也や遠藤周作みたいですね。

qbc:ご家族とはどういう風に交渉したんですか?

宮城保之:もちろん親は最初反対しました。私は実家は福岡県で、私一人で東京の予備校行って、距離があって、当時は電話でのやり取りですね。母親は時々私のところへ来たりもしましたが。私があまりに頑固に言うのでさすがに諦めたんですね。
子供の時も、そういうことがありましたよ。親がそろばんとか書道とか習わせに行かせるんですけど、わざとそろばんを公園の隅に捨ててですね、「そろばん無くした」とか言ってサボったりして。自分は好き嫌いがはっきりしていて、本当に自分が興味がない、苦手なことは全く受け付けない性格だっていうのは、昔からはっきりしていたので、親も諦める他ないと気付いたんでしょう。

qbc:その中高から大学受験したりっていうのに、全然長さはあるじゃないですか。そういうふうなものを辞めたのってどういうふうに辞めていったのかなっていう。

宮城保之:そうですね。中学受験で、福岡県で一番難しいと言われているような学校に合格したんだからといって、周りがすごく期待して、自分もそれはわかっていたんですけど…。

qbc:じゃあ自分としてはどの時点でもうやりたくなかった?

宮城保之:やりたくないのは、もう中学一年の時から正直乗り気じゃなかったんですけどね。

qbc:じゃあ受験勉強自体は大丈夫だったんですか? 受験勉強しているとき自体は。

宮城保之:うーん、大丈夫じゃなかったと思うんですよね。

qbc:受験勉強の時からもう嫌だった?

宮城保之:そうですね。嫌々やってましたね。

qbc:お医者になるんだよって言われたこと自体はどうだったんですか?

宮城保之:先ほど言葉による思い込みを植え付けるっていう社会の圧力みたいな話をしましたけど、私の家庭も祖父の代から医者にならないと幸せになれないみたいな価値観ががあったりしまして。そういうものに自分も昔囚われ、自分の中では嫌な気持ちもありながら、結局それでだらだら過ごしたりしてまして。でもまあさすがに浪人してる時に、それがもう嫌になったというわけです。

qbc:大学は出られてからどうされたんですか?

宮城保之:大学行って、その後大学院に行きました。ドイツ文学の研究者コースに乗っていたんです。

qbc:ドイツ文学で何をされてたんですか?

宮城保之:修士論文はヴァルター・ベンヤミンっていうドイツの批評家について書きました。特にドイツのユダヤ系の20世紀の思想に興味があったんです。ユダヤ教やキリスト教、宗教系の問題が絡んだところです。テーマは「世俗化論」って言って、社会で宗教の力が失われていくことで、世俗化といって宗教勢力からは自由になるわけですが、それでも文化や社会制度の中に残り続ける宗教の遺産みたいなのがあるのかとか、それが失われることによって何か大きなリスクがあるのか、みたいなことを中心テーマにしてましたね。

qbc:院を卒業したあとは?

宮城保之:大学院の博士課程の時、オーストリアのウィーン大学の哲学科に留学しました。最初はそこで博士号取って、その後日本の大学に戻って、大学のドイツ文学の教員にでもなるかなんてつもりだったんですけどね。

qbc:ドイツ文学博士も持ってらっしゃるんですか?

宮城保之:いや、ないですね。修士号はありますけど、博士は結局取らず。

qbc:えっと、そうすると、30ぐらいでウィーンに行ってるんですか?

宮城保之:そうですね、それぐらいかな?日本に戻ってきたのは40代ですね。

qbc:ウィーンでは大学生されてたんですか?

宮城保之:大学院生、博士課程のですね。向こうは大学院って分け方はしないですけど、要するにドクターコースです。

qbc:オーストリアで働けたんですか?

宮城保之:アルバイトはできますね。

qbc:そのオーストリア時代はどうだったんですか?

宮城保之:ウィーンの市民大学という、市の施設で現地人に日本語を教えたりしました。
あと、ウェブライターを始めたのもその時ですね。最初は『All About(オールアバウト)』っていう情報サイトがあって、そこのドイツ語ガイドっていうのがあって、そこでドイツ語に関する記事を書く仕事をして。
あと、もうなくなりましたが、『IRORIO(イロリオ)』っていうニュースサイトがありまして、そこでドイツ語や英語のネットでの新聞記事をもとに日本語で記事を書くウェブライターの仕事を並行してやってましたね。
インターネットを使えば、外国にいてもいろいろ出来るわけです。昔は出版社や新聞社にコネでも無いと発信が困難だったわけですが、インターネットがあれば、ブログで記事を書いたりとか色々出来ますよね。私は自分でHTMLを学んでホームページを作ったりもしてました。そういうふうにして、自分でネット使ってどんどん発信ができるなということがわかって来まして。
そのHTMLはしばらく使わずにいたんですけど、妻との出会いがきっかけになって、またHTMLを用いて国際合唱団のホームページ作ることになりました。ウェブライターの仕事も、『北九州ノコト』で再開することになりましたね。

qbc:オーストリアからは何で戻って来られたんですか?

宮城保之:オーストリアで、日本語教師とは別に、NGOに関わる機会があったんです。ウテ・ボックさんってオーストリア人の女性が作った、アフリカやアフガニスタン等の国から来た難民の方達を支援するNGOがあって。そこで、そういった方達にドイツ語を教えるボランティアの講師をしまして。それでそういう貧しい国から来た人たちを支援する、言葉を教えたりする仕事というのは面白いなと思いまして。
で、ネットのニュースで、日本が移民国家のようになり、アジアを中心にいろいろな国から日本に留学して日本語を学び、日本で働こうとする人たちがいるということを知りました。そこで日本に帰って、そういう人たちに日本語を教える仕事をしたいなと思うようになり、それで日本に帰ったという次第です。

qbc:そもそもウィーンに行かれた目的っていうのは何だったんですか?

宮城保之:ウィーン大学で博士号を取ろうと。要するに研究者としてのキャリア形成のためでしたね、当初は。仕事としても将来は日本の大学でドイツ語を教えたり、ドイツ文学の作品を翻訳したりとか、そういう仕事をするイメージでした。最初はそういう感じでしたね。

qbc:それが最終的に日本に戻ってくるっていうのは、どういうふうに思ってだったんですかね?

宮城保之:ウィーンで日本語教師を始めたり、難民支援のボランティア講師をして、そちらの方が面白いというか、自分に向いてるなぁと思うようになって、それでもう思い切って方向転換をしたということですね。
まあ大学やアカデミズム業界が、やっぱり自分の性に合わないというのを感じてたってのもありまして。私は文学作品、小説等を自分で書くのが好きなのであって、研究したり、学術論文を書いたり、そういうのは自分の性に合わないことに気がついたわけです。

qbc:で、日本に戻ってきたらどんな感じだったんですかね?

宮城保之:日本に帰ってきて最初は、福岡県の実家の方に戻って。その後北九州市の小倉にあった日本語教師の養成講座にちょっと通って。その後に今の勤務先の山口県下関市の日本語学校に応募して、それで仕事を始めたというわけです。

qbc:どんな生活だったんですか? 教師生活を始めてからの日本での十年ぐらいは。

宮城保之:そうですね、最初は非常勤講師という立場だったんで日本語を教えるだけでしたけど、その後常勤講師になって、進学の指導等もするようになりました。私の勤務先の日本語学校を卒業した後、専門学校や大学に進学する学生、それに就職を希望する留学生の指導をするわけです。今まで私もそういうのは未経験の領域だったので、色々学びながら何とかやっています。

qbc:この十年、その20代30代と比べて40代ってどうだったんですか?楽しさっていう意味では。

宮城保之:そうですね。20代30代、その頃はドイツ文学科に行ってドイツ語とかドイツ文学の勉強をして、将来の仕事としては、大学のドイツ文学の研究者というコースを考えていました。頭の中がヨーロッパの方に、ドイツとかフランスとかヨーロッパの方に向いていた感じです。
それがウィーンで難民支援をしたり、こっちに戻って日本語学校の教員をするようになってから、自分の方向が、ヨーロッパじゃなくて、アジアの貧しい国の方に向き直ったような感じですね。

qbc:楽しさとしてはどうですか?

宮城保之:楽しいし、今の方が自分には向いてるなって思います。まあもちろんドイツ語は魅力ありますし、ドイツなどヨーロッパの文学や哲学ももちろん、今でも素晴らしいと思っています。ただ、そこにちょっとこう窮屈なものを感じていまして。
やっぱりちょっとエリート主義的な傾向が、大学・アカデミズムにはあって、窮屈さを感じていたのが、バングラデシュやスリランカやネパールといったアジアの貧しい国から来てる留学生の人達が相手だと気持ちが楽になって、窮屈さを感じない。いろいろ指導していて悩むところはもちろんありますけれども、基本的にリラックスしてやれてるかなという。自分には性分としてこちらの方が合ってるかと思います。私も昔、中高進学校で落ちこぼれだったので、ちょっと落ちこぼれているような学生たちを指導してる方が自分らしく感じられるんです。
ドイツ文学を学んでいた院生時代には、現在有名になったあるドイツ現代文学研究者の方に、「東大の大学院出て天麩羅屋になった人もいるけどあなたも頑張ってね」と笑顔で言われたり、どうもそういう業界の雰囲気に馴染めませんでしたね。

qbc:ご両親からどのように育てられたと思ってらっしゃいます?

宮城保之:両親は最初は私に、大学の医学部行って医者になることを期待していたわけです。私の親戚には大学の医学部の教授になっている人もいるわけで、そういうコースを期待されていました。それで中学受験の時は家庭教師をつけられて、福岡県でももっとも難しいと言われてるような学校に合格してしまい、不覚にも周りから妙に期待されてしまったわけです。
で、親はそうやって期待してたんですが、私は中学に入って成績がガタンと落ちてしまいました。それでもやっぱり親は諦めきれなかったみたいで医学部進学の為の勉強を続けさせましたけど、私の方で音をあげてしまったというわけです。そこでさすがに周囲も「やっぱりこの子じゃ駄目だ!」と匙を投げるしかなくなったんです。
私の母親はもう80歳になりますが、だから私の妻にものすごく感謝しているんですよ。「よくこんな息子を引き取って下さいました」ってね。

qbc:その自分の人生の中で、転換点っていうものがあるとしたらどこにあると思います?

宮城保之:そうですね。第一の転換点が、医学部へ行けと言われて育ち医学部志望だったのが、それをやめて、文学のに進んだ、東京にいた二十歳の頃。それが第一の転換点ですね。
第二の転換点は、ウィーンにいた時。ドイツ文学研究者のコースを離れて、難民支援をし、日本に帰って日本語学校の教員になって、在日外国人支援の仕事をする方向に切り替わったというのが第二の転換点ですね。

qbc:その大学、そのウィーンで辞められてるんですね?途中で。難民支援に携わったきっかけって何だったんですかね?

宮城保之:東日本大震災の時に、私のいたオーストリアのウィーンでも様々なチャリティーイベントが催されました。その時にオーストリア人の友人から声をかけられて、「Japan Dancing to Support」っていうチャリティーイベントを一緒に主催したんです。で、私はその時既に自分でHTMLを習得していて、自分で日本の無料サービスを使ってドイツ語と日本語によるホームページを作ってみせたんです。それが一緒にイベント企画したオーストリア人の友人達に気に入ったようで、その時リーダーをしていたマリアという女性がいろいろ声かけて、私に日本語教師や難民支援の仕事を紹介してくれたんです。それがきっかけですね。
彼らオーストリア人メンバーは、最初私のことを「ドイツ語が達者な日本人留学生」くらいに思って声を掛けたんでしょう。それが、私が皆の為に日本のウェブサービスを使って無料でホームページを作ったのを見て驚いたんです。私は彼らが私を気に入った理由が分かります。日本人留学生に対する彼らの典型的なイメージは「目上に従順」、「日本人同士で固まる」といった感じだった。ところが私はただ一人、誰に言われるでもなくHTMLを学びイベントのホームページの為に役立ててみせた。ステレオタイプな日本人のイメージを極めて分かり易い形で壊してみせたんです。
誤解しないで頂きたいのは、日本人のイメージを壊すというのは「欧米人のようになれ」という意味ではありません。私が用いたのは日本のホームページ作成サービスであり、あくまで日本人としての立場を活用して、というところがポイントだったわけです。
ちなみにこのHTMLの技能は、今年になってSICのホームページ、私の新ホームページ作成の為にまた活躍する機会を得ました。もちろん10年以上前にウィーンで独習していた時、私はそんな未来を予測していたわけではありません。

未来:これからは周りの人たちが自分らしく生きられるよう助けなければなりません。

qbc:じゃあ最後、未来について聞いていきたいんですけど。五年十年から最後、自分が死ぬというところまでイメージして、どんな未来をイメージできますかね?

宮城保之:そうですね。一つはもちろん日本語学校や国際合唱団、ライターの仕事で、在日外国人支援を続けていきたいです。
もう一つは小説を書くことですね。これからも書き続けていきたいと思っています。その二つですね。

qbc:どんな小説書かれるんですか?

宮城保之:小説は、今年書いたのは、『異邦人』という私の自伝的な小説ですね。それは私のブログ、noteで公開しています。
それと今年『文芸思潮』の銀華文学賞奨励賞というのを頂戴したのは、私が学生時代に書いた原稿用紙30枚ぐらいの短編小説を元にしたものです。それもネットでも公開されています。それは虚無的な小説ですね。
病院を舞台にしていて、一人の男が自分の分身のような人物の体を前にして医師の男と問答するんですが、その医師から「世の中には救いようもない病に取り憑かれた人たちがたくさんいるんだ」「私達ももうもう諦めてしまっている」みたいなことを言われてその病室を出て行き一人さまようという、虚無的な小説ですね。私が昔学生時代に書いたものに手を入れたものですけれども。

qbc:それも完全に自分がモデルになってますかね?

宮城保之:そうですね。確かにその当時、30年ほど前は虚無的なところがありました。当時の暗い気持ちが反映されてるかな。
今はかなり楽観的になっているんですけど、昔はちょっと思い詰めているようなところがあって。

qbc:その20代30代の時って、振り返ってみるとどんな感じなんですかね?

宮城保之:振り返ってみて面白いなって思います。よく思い返してみると、必要な時に必要な出会いがありました。
私はおそらく今までの人生で、三人の師に出会っています。。
最初に出会った師は、私が東京の駿台予備校に入った時に物理の講師をしていた山本義隆先生です。その方はかつて大学紛争の時、将来を嘱望された東大大学院の院生だったんですが、東大全共闘の代表となり、運動終結後は大学を去って予備校教師になられた方です。私はそれまでの人生でそんなスケールの大きな方に会ったことが無かった。私は自分の根っこの部分でそういう生き方に憧れていたんです。私も山本先生に倣い、大学を去りました。この山本義隆先生が私の第一の師です。
第二の師は、ウィーンで難民支援をされていたウテ・ボックという女性です。外国人支援の大切さを私は彼女から学びました。残念ながら私の帰国後お亡くなりになりましたが、私は彼女との出会いを描いたエッセイで下田歌子賞という賞を頂き、また日本語のWikipediaにボックさんの項目が無かったので私が作りました。せめてものご恩返しが出来たかと思います。
そして第三の、おそらく私の人生最後の師が、東八幡キリスト教会の奥田知志牧師です。NPO法人「抱樸」の代表としてホームレス支援をされ、現在北九州市で「希望のまち」プロジェクトを進められている方です。師と言うか、私は奥田牧師と言う太陽を取り巻く衛星の一つに過ぎないのかもしれません。そのくらい大きな存在です。
もちろんこの三人以外にも多くの方達に私はこれまで助けられて来ました。そのことに心より感謝しています。だから今度は私が助ける番です。
妻との出会いにより、私は忘れ去ろうとしていた文学への情熱を取り戻しました。そして私には国際合唱団にも、教会にも、ネットで繋がった方達にも、頼もしい味方がいる。言葉の力や音楽の力、ネットワークの力をこれからも信じていこうと思っています。

qbc:なんかその言葉に対してその丁寧に使わなきゃいけないみたいに思いだしたのって、そういう考えっていつからお持ちなんですか?

宮城保之:私が東京都立大学大学院の独文科にいたとき、瀬尾育生という教授に出会いました。その方はドイツ文学の研究者ですが、自身で詩を書く詩人でもありました。その先生はものすごく言葉遣いが慎重で丁寧で、言葉に汚れがない。その言葉遣いや雰囲気を見て、ああ、なるほど、こういう人が本物の文学者なんだなと分かりまして。やはり自分も、自分自身が本当に文学を体現して生きようと望むなら、そういう言葉遣いに倣う必要があるなと感じました。他の教師の多くは言葉遣いがだらしなかったです。文学の基本すら身についていないんだろうなと感じていました。

qbc:もしもの未来の質問っていうのをしているんですけど、もしも、まあ家はお医者さんなんですけど、お医者さんになれとかって言われなかったらどんな人生になってたと思いますか?

宮城保之:言われなかったら、そうですね。やっぱり理数苦手だから、文系に行くでしょうけど…。ただ、そんなに突き詰めたように文学にハマらなかったかもしれないですね。文系でも法学部とか経済学部とか実学系に行ってた可能性もありますね。

qbc:なんかこれだ、みたいなのわかんないですかね?

宮城保之:これだ?

qbc:例えば、まあ人によっては「あ、僕はそしたら絵を描いてました」っていう人もいるわけですよね。まぁ、絵っていうのは例えなわけで、「これだ」っていうのは無いわけですね?

宮城保之:そうですね。でも読書が好きで文章を書くことへの憧れはあったんで、そういう系統ですかね。 ジャーナリストとか、文章を書くのに関わるような方向かなと思いますね。

qbc:編集者とかライターとかっていう?

宮城保之:ライター系、ジャーナリスト。そっち系ですかね。
子供の時は、正直日本語教師なんて全く考えてなかったですね。当時日本語教師って言ったら、ドナルド・キーンとか日本文学の研究者みたいなイメージでしたからね。文章を書くことに憧れはあったんで、ジャーナリストとかですかね。

qbc: 自分で小説書いて作家さんとか。

宮城保之 : いや、それは職業としては難しいです。

qbc:ちなみにその日本語教師は日本語教師である必要性ってそんなにある? その在日外国人支援っていうテーマであれば、教師である必要性っていうのはあんまりない?

宮城保之:そうですね。例えば行政書士の方で、就労ビザ等のサポートされてたりとか、日本語教師以外でもあります。難民の方達を支援する弁護士だとか。ジャーナリストで記事を書いて支援するやり方もありますね。いろいろ形としてはあると思うんですけど、日本語教師もそのうちの一つですね。

qbc:ありがとうございます。最後の質問がですね、最後に言い残したことはっていうので、遺言でも読者向けメッセージでも何でも大丈夫なんですけれども、最後に言い残したことがあればお伺いしております。

宮城保之:そうですね。私が東八幡キリスト教会の奥田知志牧師に言われた言葉があって。「宮城さん、あなたが自分らしく生きるのはいいことだ。だがこれからは周りの人たちが自分らしく生きられるよう助けなければなりません」と私は奥田牧師から言われたんです。なるほど、と思いました。
私はこれまでの人生で、自分が自分らしく生きるということにものすごくこだわってきて、それはもちろん大切だと思うけど、自分の周りの人たちも自分らしく生きられるように助けていけるようになったらいいなと願っています。彼らに私のコピーみたいな人間になってほしいんじゃないんです。私だって、たとえどれだけ出世できようと、誰かのコピーになりたいわけじゃなかった。彼らが世間体に踊らされず、操り人形のようにならず、本当に自分らしく生きる手助けがしたい。
私はドイツ語や文学を真剣に、自分事として学ぶことで、この社会の圧力から自分の魂を守る盾として言葉を用いる技を身につけることができました。これからはこの盾を、私だけでなく、私の周りの大切な人達を守る為に用いていこう。そう望んでいます。

qbc:なるほど、ありがとうございます。

宮城保之:ありがとうございました。

あとがき

人は救われる。

【インタビュー・あとがき:qbc】

【編集:mii】


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