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今はあがくタイミングだろうなって人

むかしむかし、ある村に、時知(ときち)という若者が住んでいました。時知には不思議な感覚がありました。「今はあがくべき時」と「静かに待つべき時」を見分けることができたのです。
村人たちが平穏に過ごしていた頃、時知は突然、激しく動き始めました。
土を掘り、
種を蒔き、
水を運び、
休む間もなく働きました。
村人たちは不思議に思いました。
「なぜそんなに急いで働くのですか?」
時知は答えました。
「今はあがくタイミングなんです。この時期に全力を尽くさなければ、実りの時期は来ません」
果たして、時知の言葉通り、村に干ばつが訪れました。
しかし時知の畑だけは、早くから準備していたおかげで、
豊かな実りをもたらしました。
後に時知はこう語りました。
「人生には、静かに待つ時と、全力であがく時がある。その時をわきまえることが、実りある人生への道なのです」
そして「時を知り、力を尽くす」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2025年2月26日19時20分に書く無名人インタビュー1023回目のまえがきでした!!!!!

【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは 桑野佑太 さんです!

年齢:20代前半
性別:男
職業:芸大生



現在:自分は何者であるかなっていうのがずっと自分の中でキーになってるなっていうのはありまして、そこを最近ずっと逡巡してる

ゆり:
今何をされてる方ですか。

桑野佑太:
僕は、大阪芸術大学の3年生で放送学科という学科で広告を専攻してます。既存メディアを学びながら新しいメディアでどうやって発信していくかっていうものをベースに様々なものを作ったりしてます。

例えば、ミュージックビデオの監督とかプロデュースをしてみたり、友達が作ったスクールバスのミニチュアをどうやったら面白く発信できるかを考えてそれをTikTokに上げてみたりっていうのをしながら色々と動いてきました。

そういうことを経て、今大阪に住んでいるのですが東京に毎週末通いまして、渋谷に空き地を作ろうみたいな、ここにクリエイターの拠点を作っていこうみたいな場所でアルバイトスタッフとして働いています。修行みたいな、自分が何をしたいのかってのを見つめ直すっていうのを1年ずっとやってるかなっていうようなイメージです。。 

ゆり:
メディアのことについてもう少し詳しくお聞かせください。

桑野佑太:
僕は元々ラジオが好きだったので、放送学科という学科に入りました。放送学科っていうのは四つコースがあります。アナウンスコース、声優コース、先端メディアコミュニケーションコース、制作コースっていうこの四つのコースです。僕は元々アナウンサーになりたくて。

話す人になりたくてこの学科に入ったんです。例えばニュースの読み方であったりとか、何か事件が起こったときにどういうふうなアナウンスをしていくかっていうのを実際にやってみたり、ドキュメンタリーを見てそれがどういう裏側があって、どういう人に影響を与えるのかとかを学んでいます。例を挙げると昔あった地下鉄サリン事件とか当時の映像を見ながらこのときの状況はどう だったのかをそのときリポートしたアナウンサーの先生にお話を聞く授業もありました。免許事業としての放送事業っていうものをどうやって取り扱っていくかっていうのをずっとベースに学んでいます。 

ゆり:
なるほど。

桑野佑太:
僕はラジオとかが好きで話し手になりたくて、高校のときも放送部に入っていたんですけど、そこがベースでアナウンサーコースを目指して入って。色々足掻いて。その時に、「表役者じゃないな」ていうのはものすごく感じました。それより裏でいろいろ動かしていく方が面白いなっていうのにちょっとずつ気づいていってアナウンスコースから先端メディアコミュニケーションコースという方に自分の志望を変えました。

そこから授業の実習で、芸大と関西マツダの富田林店さんの産学連携のプロジェクトで、一緒にブランディングのためのコンテンツ制作をしたり、自主制作で友人のバンドのMVを作ったりしました。そういうのを僕が先陣切ってプロデューサーという役割をいただきながら、みんなに手伝ってもらいながら実行していくみたいな、本当に面白いものを作ってそれをどう伝えるか伝わるか、みたいなのをずっと探求してるような

ゆり:
なるほど。桑野さん自体も伝えたいというお気持ちから

桑野佑太:
そうですね。 僕は何か伝える=伝わるじゃないなっていうのはものすごく感じていて。伝えたと思ったことがちゃんと伝わったかっていうのをそこのイコールが繋がってないことを結構実感することが多いです。

例えば僕は元々あまり言葉が得意じゃないというか、吃音っぽかったんです。中学のときにうまく言葉が伝えられない表現できないところから、どうやったらうまく自分の思いとか伝えられるかなっていうのを考えてて、そこでラジオに出会いました。ラジオって顔とか見えないけど、声色だけで温度感、空気感が伝わってくるのいいなと思って、高校で放送部に入りました。そこで伝える=伝わるにするためにどうしていくかを考えまくりました。大会で読むアナウンス原稿が400字なんですけど、この原稿の中にどういう構成を入れていくかを戦略立てていきました。例えば数字を入れたら結構伝わりやすくて強いよねとか、お母さんとのエピソードを入れたら人の心を揺さぶるよねとかっていうの考えていました。過去の入選作を500人分くらい聞いて分析や400字をパート分けして段落分けしながら分析して、どうやったら伝わっていくのかってのは結構探求していって。

その中で、僕は地元が大分なんですけれど、高校1年生のときに九州大会の決勝に進みました。読んだ原稿をもとに、「あの原稿を読んだ人ですよね。めっちゃ感動しました!握手してくださいっ」て言われた体験があって。
「これが自分が伝えたことが人を動かしたっていうことなんだ」っていうのをすごく実感して、これを自分の生きがいにしていきたいっていうのをめっちゃ感じてそこからずっと動いてるっていう感じです。 

ゆり:
学生の今の桑野さんから見て現代のメディアはどうご覧になってますか。

桑野佑太:
そうですね、現代のメディアはどんどん押し付けになってるんじゃないかなっていうのは感じてまして、どっちかっていうと寄り添いが必要な時代になってきてるし、もう少し親近感が必要なんじゃないかなっていうふうに僕は感じてて、それを考えながら作っていっています。

僕は相席食堂とかオモウマい店をよく見ています。芸人さんとか芸能人の方がワイプに出てて、メインで写ってるのは一般の方っていうような番組の形式が増えてきたなっていうのは実感が結構あるんですよね。だからキラキラしたテレビの遠い存在っていうものではなくて、身近なものに触れたいというか、触れていたいっていうのが活性化してるんじゃないかなという感覚がありますね。 

ゆり:
それは、どうしてだと思いますか?

桑野佑太:
SNSが発展していって、芸能人が手の届かない存在から手の届くところまで来たっていうところがあると思ってて、希少価値があんまりなくなったっていうのもありますし、偶像的なものがリアルというか、実態を帯びてきてそこに飽き飽きしてる部分もあると思います。それよりも地に足のついた人間の面白さというか人間味みたいなものを欲してるんじゃないかなっていうか。僕自身がそう欲してるなっていうふうに思っていて、相席食堂とか当時コロナ禍でめっちゃ見てたのはそういうところなのかなっていうふうには思いますね。 

ゆり:
なるほど。学生生活以外について教えてください。

桑野佑太:
今は毎週末東京のクリエイターの発進拠点、渋谷の空き地を作ろう!というプロジェクトでアルバイトスタッフとして働いています。僕はそこでいろんな人と会うのが好きで、色々なクリエイターとかいろんな何かを作ろうとする人と会うために通ってます。大学卒業も、その場所で働くのも今しかできないことだからワガママに動いています。毎週夜行バスで通って滞在も漫画喫茶に泊まって滞在費安くして、なるべく東京にいれるように、なるべく多くの人に会えるようにと思っていて。

東京に行ってる関連で、京都の日本酒のバーでも働き始めまして、そこもクリエイターの方が従業員で結構いて、お客さんもインバウンドの方など多様な人がいます。そこでどうやって会話していくかというところを模索しています。僕はずっと何かを作る、何かを伝えるっていうところが軸になって動いてってるのかな、学校以外でもずっと動いてるし、学校でもずっと動いてるし、なんか止まったら本当に倒れちゃうんじゃないか、逆に止まってる方が自分の中で不具合になるっていうかエラーが起きてる感覚になるぐらいずっと動いてるって感じです。

ゆり:
周りの人から桑野さんの性格について何と言われますか。

桑野佑太:
友達に言われて、ものすごく心に残っててそれを自分のキャッチコピーにしてるのがあって。大学とかの自己紹介でも言ってたんですけど僕「パクチーみたいな人間です」ってよく言うんですよね。 パクチーって結構クセが強くて、好きな人は好きだけど嫌いな人は嫌いじゃないですか。かなり二極化するものかなっていうふうには思っていて。「お前はそうだよ」みたいに言われたとき、俺ってそういう感じなんだっていうか、本当に深くもいけるし、とことんもう無理な人は無理だしっていうような、きっぱりしてる感じってのはよく言われます。 

ゆり:
それを聞いて、ご自分ではどう思っていますか。

桑野佑太:
マジでそうだと思いますね。自他ともに 1回ちょっと苦手になっちゃうと全然駄目だし、自分のポリシーとか何か正義に反するというかあまりそぐわない人とかじゃなくて、ちゃんと自分が心地いい人と関わってってるような21年間だったかなっていうか、そういうコミュニティを増やしていこうとしてるような人生だなというふうには思います。 

ゆり:
なるほど。趣味はありますか。

桑野佑太:
趣味はポッドキャストを1人でやってまして、最近は始めたりやめたりっていうのをずっと繰り返してるんですけど、やっぱり話すのが好きなので、自分の中で話して何か分析して1個答えを出すっていうか、今の自分はこういう感じなんだっていうのをやるのは結構趣味っていうのかわかんないですけど、ずっとやってるし、それが好きだなっていう感じではありますね。 

ゆり:
答えを出すっていうのには問いが必要かなと思うんですけど、どのようにされてるんですか。

桑野佑太:
最近は「自分は何者か」っていうのをテーマにしてますね。 なんか自分は何者であるかなっていうのがずっと自分の中でキーになってるなっていうのはありまして、そこを最近ずっと逡巡してるんですけど、就活というタイミングになったときに、22歳23歳なって社会に出ていくときに名刺って作るじゃないですか。 肩書きっていうものを作らないといけないと思うんですよ。そうなったときに自分って今までいろんなことをしてきたんですよね。

バンドマンやったりとか、イベントのプロデューサーやったりとか、MVの監督とかYouTuberとか、シンガーソングライターとかコピーライターもありましたし、映画館でポップコーン売る人もやってきたし「これを俺は極めていくんだ」みたいなものがいっぱいあったんです、人生の中で。

浅く広くいろんなことをしてきてて。何者であるかを結構嫌ってて、自分を定義しちゃうことで自分の可能性を狭めることがものすごく嫌だったのでそれをしないようにしてきてたんですけど。

1年後の僕は、それを1回定義してないといけないのかなというふうに思ってて、それをどうしていくかってのは最近の問いとしてずっと思ってるし、自分の中で「リトルの桑野」が主観でずっと見てるんですけど、今どう?とか、今どんな感じ?みたいなのを自分の中で問い続けてるっていうか、今の行動どうだった?、今なんでこういうふうにこの人と話してるの?とか、なんでこの人にその秘密を打ち明けたの?っていうのは、中学ぐらいからかなもっと小さいときからかもですけど、ずっと自分の中で1個1個の行動に対して原因とか理由っていうものを求め続けてるっていうふうに思います。

ゆり:
リトル桑野さんは今どういう気持ちですか。

桑野佑太:
今現在はですね、「またおもろいことしてんなっ」て感じですね。
きっかけというか、やっぱ飛び込むっていうのをかなりしてるので。今回応募させていただいたきっかけが、noteを書いたら、いいねしていただいてから気になって見てみてこれやるしかないなと思って今回やらせてもらってます。こう飛び込んでる時は結構わくわくしてるし、これがどういうふうに最終的な自分のルートというか、行きたいところにたどり着いていくのかとか、今僕、たまたま実家に帰ってきてるんですけど、この実家の期間が結構自分の中ではキーになってくるかな、このタイミングで帰ったことに意味があるのかなと思ってるので、こっちにいる1週間でインタビュー後も、どういうふうになっていくのかわくわくしつつ、不安になりつつみたいな感じではありますね。 

ゆり:
不安っていうのは?

桑野佑太:
やっぱ変わってしまうことに対する恐怖心ってのはものすごくあるんですよ。
僕は社会に揉まれたくないというか、あまり対立したくないってのがありまして。人とぶつかることで角が削れていくのが怖いんですよ。「人の流れは川の流れのように、人は川を流れる小石のようだ」っていう考え方がずっとあって。生まれたてのとき上流にいるときは角ばった石なのに、だんだん時が経つにつれて石と石がぶつかって丸くなっていくじゃないすか、なんかそういうのが嫌だなと思って。

多分生まれながら持ってた角っていうものを自分の良さとしてたから、それが削れていくのが嫌で、僕は中学高校とあまり学校行けてなかったんですけど、そうなった時、変化する時ってやっぱり何かしらの摩擦とか、何かぶつかるもので、自分の形っていうものが変わっていくと思うんですよ。 それがどういう形になるのかっていうのが見えないっていうところに、ちょっと恐怖心がありますね。

だから今日お話することで新しい自分が生まれて、それが結果として何かいい方向に行くとは思うんですけど、いくように生きていこうとは思うんですけど、それがたどり着くまでに自分の中での歪みになったりとか、悩むきっかけになったりしたらそれはそれで、その過程は苦しそうだなと思って不安という感じになってるって感じです。 

ゆり:
仰っていた石の角っていう部分は、今の桑野さんはどんなところだと思いますか。

桑野佑太:
動き続けてる、考え続けてるところはあると思ってて。「なぜなぜなぜ」をずっと思ってるので、「仕方ないよねっ」ていうことがないんですよね。 東京に行ってるときも何で今僕がここにいるのかってのを考え続けて、この場所に何を提供できて、いただいてる時給に対してどういうふうな報いというか利益を出せるか、人に良い効果を与えているかというところはずっと考えてて。

そこは人と場所かなと思うのでそこは僕の角なのかなっていうふうには思いますね。
だから、探究し続けているというか、何なのかみたいなことを考え続けてるのは、かなり僕の角なのかなっていうのはあります。

その流れで言うと、僕は自分の流れを作ろうとしてるなと思ってて、やっぱり生きづらさがあるなってずっと思ってるんですけど、それは多分自分が下流から上流に向かっていかだを漕いで、どんどん源流というかに戻っていこうとしているあの角だった自分のところに立ち返ろうとしてるなっていう感覚はものすごくあります。流れに逆らってオールを漕いでるという状態ってのはずっとやっぱ苦しいし、流れていってしまえば楽だろうしってのはずっと思ってるなっていうふうには思いますね。 

ゆり:
最近楽しかったことは何ですか。

桑野佑太:
最近楽しかったことは、僕動画編集の仕事を始めまして、元々自主制作で動画編集とか動画の企画っていうものをやってたんですけど、最近、動画編集の仕事を受注していただいてそれを納品してお金をいただくっていう、自分の経験とかスキルってものがお金になったし、時給じゃなくて単価というか、1本何円っていう単価で受注できたのはものすごく良かった、楽しい体験をしたなって思いますね。 

ゆり:
反対に悲しいことは?

桑野佑太:
それも編集にかかってくるんですけど、時代に合ったYouTubeの編集とかって例えば3秒に1回変化をつけるとかテロップはこういう感じで出すとかアニメーションはこうでとか、こういうタイミングでこの動画を出してってやっぱHowtoがいっぱい出てる状態なんですよ。動画編集者っていうのがかなり世の中に溢れてて、もう何かフォーマットされていて。

動画の状態までに行くっていうところとかそれを受注してお金にするっていうところが、僕が感じた編集者なのかなと思って、お金をもらったこととか、どんどん単価っていうものが上がっていくことに対してすごく喜びを覚えてたんですけど、昨日大学入ってからずっとお世話になってる方に話したときに、「桑野さんなんか、あのときのわくわく感失ってない?」って言われて。

僕は元々その動画を作る側じゃなくて動画の設計をする側っていうか動画を、こうプロモーションしたらとか、こういうふうな切り口でやったらもっと動画が面白いものになるよねっていう、受注側というか、受注してくれる制作会社とかクライアントさんに提案する側だったんですよ。

編集っていうツールをうまく使う側だったのに、ツール側になっちゃってないっていう話をされたときに、自分が元々わくわくして持ってたもの僕がしたかったっていうものを、生きて食うために、お金を稼ぐっていう面でやってた編集ってとこもあるんですけどそこで何か結果と過程がなんかごちゃごちゃになってたなっていうのはものすごく今、反省しつつ、何かどういうふうに落としどころをつけていくか考えてるっていうか、あの頃の自分を忘れちゃってたなってのは最近あります。


過去:しっかり自分の定住できる場所っていうか、しっかりと確立して、ここは自分の居場所なんだって言える場所を今も持ち続けられてる。中学2年生の時は良い出会いをしたなっていうふうに思います。

ゆり:
子供の頃の最初の記憶はありますか。

桑野佑太:
僕の小さいときの記憶、覚えてる記憶、あれですね。「長男が嫌だっ」てずっと泣いてたのは覚えてますね。
僕は長男なんですけど、長男であることがものすごく嫌で泣き喚いてたのは覚えてます。常にかっこいい姿であることを求められてというか、僕も年相応のおねだりとかあるじゃないですか。そういうのをしたいけど、下に2人兄弟いるのでかっこよくいろっていうか、背中を見せろみたいな状態を求められてたような感覚とかプレッシャーみたいのはずっと感じてたのかなっていうふうには思いますね。 

ゆり:
ご両親からは、どういうふうに育てられましたか。

桑野佑太:
普通にものすごくありがたい育てられ方をしていただいたなというふうには思うんですけど、例えば色々な体験をさせてもらったりとか、いろんなところに連れてってもらったり、いろんな人の話を聞くきっかけをもらったりとか、っていうのはあるんですよね。ただなんかその中での「お兄ちゃんでしょう」感は、ぽろっと出たのかなっていうのは思いますけど。

今になって親と話すことって結構あるんですよ。 親と友達みたいな感じで話すことがあるんですけど、特に母と。僕も0歳から20歳まで来たけど、私も親0歳から親20歳まで来たから、やっぱり反省はいっぱいあるよって話をしたときに、今はだいぶ落とし込めたなっていうのがあります。 

ゆり:
幼稚園、保育園の前の桑野さんはどんなお子さんでしたか。

桑野佑太:
幼稚園のときはかなり前に出たがりでしたね。 
結構出たいし、なんて言うんだろう頑張って1軍じゃないですけど、 仮面ライダーごっこするときにメインの仮面ライダーになろうとするような感じでしたね。 

ゆり:
小学校のときは?

桑野佑太:
小学校のときは僕、小学校2年生のときに初めて学校に行けなくなったんですけど。
聴覚過敏を持っていて、耳がよすぎるというかちょっと特定の音に対する苦手意識っていうか、気持ち悪さがあるんですけど。学校の工事が始まった時に学校に行けなくなっちゃって、そこで田舎のおじいちゃん家に逃げると言うか泊まるっていうタイミングがありました。

その時、おじいちゃん農家だったんで朝4時に一緒にピーマンもぎに行っててそれを卸市場に持っていく。その後一緒に豚まん買って、バイト代じゃないけどお小遣いもらってそれで何か買って、川で遊んでみたいな田舎で自分の遊び方を見つけてったなっていうふうには思いますね。

ゆり:
どのくらいそういう期間があったんですか。

桑野佑太:
学校の工事が終わるまでなんで半年間なんですけど。 半年間離れてたってのはかなり自分の中で大きかったなって思いますし、夏休みとかも定期的に行くようになったので、おじいちゃんとの時間ってのはものすごく大切なものだったなっていうふうには思います。

そっから4・5・6年生は、さっきも言ったみたいに1軍みたいなところに頑張って引っかかろうとしていじられ役に回ることが多くて無理してたなっていうふうにはかなり思いますね。

なんかうまくフックとしてそこの場所にいるためにというか、よく言う普通の子じゃない、変な感じだったので、それを悟られないようにというか、それで攻撃を受けないために防御として、一軍みたいなところに頑張って引っかかろうとしてたみたいなのはありますね。 

ゆり:
その「変な」というのは

桑野佑太:
何だろうなんか、年相応のやんちゃっていう意味だと思うんですけど。
僕は自分で言うのはあれですけど、ちょっと大人っぽかったので考え方が。例えば、応援団長した時の応援練習とか運動会の練習するときにそのぐらいの歳だと遊んじゃうじゃないですか、小学生とかってどうしても。

今目の前の楽しさのために友達とふざけ合ったりとかってのが僕どうしても許せなくて、僕はどっちかっていうと、当時からの考え方なんですけど、運動会を10年後20年後の思い出として思い返した時に良かったなって思えるものにしたいから今は我慢しよう、今はしっかりしようよっていうタイプだったんですよね。

 だからそういうところの不和を持ちつつ、でもそれを我慢してうまくそこら辺に順応するようにいじられ役になって変なことしてみるとか、当時流行ったPPAPとかを授業中に踊ってみるとかそういうことをやってました。 

ゆり:
なるほど。中学生の桑野さんは?

桑野佑太:
中学校から激動でしたね。
中学1年生のときは引き続き一軍に引っかかるために動いてたんですけど、初めて僕は生徒会に入ったんですよ。 その年の2月14日に僕がチョコレートケーキを焼いてバレンタインだからって学校に持って行ってみんなに配ったんですよ。これこっそり食べてみたいな。 
前々日にお母さんと一生懸命作ってアルミホイルに1個ずつくるんで配ったのがばれて、2月15日に武道館で謝罪会見をしたことがあって、僕は生徒会役員なのにチョコレートを持ってきました。 反省してます、ごめんなさい。みたいな謝る会があって。僕はチョコレートを持って行きたいとかっていう欲求はものすごくあるんです。

やっぱりみんなに楽しんで欲しいし、喜んでほしいし届いてほしい、そういうので持っていったっていうのがあるんですけど、そこからいじられ役っていうものからしっかりとしたいっていうか、しっかりと残して楽しいものを作りたいっていうような欲求というかまた入れ替わるタイミングだなっていう自分の中でスイッチが入りまして。そっから関わるコミュニティを変えたというか友達を変えたなっていう感じはあります。

そこで関わる友達の層をガラッと変えて、そっから生徒会だったり体育委員っていう全校集会のときに整列させる役とかっていうのをやったり、生徒会選挙に毎年出るとか、挨拶運動めっちゃやるとかっていうようなタイプになってきました。 

ゆり:
中学2年生のときは、どうでしたか?

桑野佑太:
中学2年生のときは、やっぱ変化があったんで、中1の時ふざけてたやつが急に真面目になるっていうところで、周りとの衝突ってものすごくあったし、関わるコミュニティが変わったんで、そこにどうやって順応していくかってのはものすごく悩んでいましたね。

自分の居場所というか拠り所のために無理してたのかって言われたら多分無理してて、頑張ってサッカー部のコミュニティに入って友達みんなサッカー部みたいな感じでいたなって。 中学2年生の後半に僕の今も親友の大阪から来た友達がいて、彼が僕と全く同じ感性で、大阪から環境を変えるために引っ越してきたみたいな感じで。そこで僕らは出会ったんです。そいつのおばあちゃんの家が近くて、僕らはそのおばあちゃんのことを「ファンキー」って呼んで慕っていました。

ファンキーの家に集まってそこの家を起点にして、コミュニティが広がっていったんですよね。そこで出会ったやつが、今も関わってるし今もアイドルのライブ一緒に行くとか、一緒にポッドキャスト録ってる相方とか、今度一緒にM1出ようよって言ってる人がいるんすけど。

いつもファンキーの家で集まった人、僕の友達を起点にしてどんどん世界が広がってたし、今までコミュニティというか関わるところがどんどん転々としてたし、コミュニティに僕が存在できるのが本当1年が賞味期限だったんですけど、中学2年生でそのファンキーの家で会った友達を起点にしたところから、コミュニティっていうのがしっかり自分の定住できる場所っていうか、しっかりと確立して、ここは自分の居場所なんだって言える場所を今も持ち続けられてる。中学2年生の時は良い出会いをしたなってふうに思います。

ゆり:
そのときはどんな気持ちだったんですか。

桑野佑太:
最初は何か、出会っちゃったなみたいな。 僕が学級委員長やってたんで転校生の案内役してたみたいな感じだったんですよ。 だから一緒に歩いたりとか、ずっとしていく中で、この人なんか、言語化できてない部分で何かを共有できてるなって感覚がものすごくあって、それがものすごく居心地が良かったですね。
当時あんまり中学校行けてなかったし、あんまり馴染めないんで、行きたくないってのはあったんですけど、学校終わったら帰り道にファンキー家に行けば、みんなでゲームできるし、たまにファンキーが作ってくれたご飯食べれるし、そこにいれば違う友達ができるし。家に帰っても電話繋ぎながらずっと遊んでるみたいな、その環境が居場所を見つけたなっていうか、ここだなっていうのがあります。

ゆり:
中学3年生の時は?

桑野佑太:
中学3年生はおもろいです。また応援団長をやりました。あと友達の家で集まったメンバーにラジオを教えてもらったんですよSchooll of Lockっていう。そこから聞くようになって。

でもラジオを教えてくれたやつが学校に来なくなったんですよ、急に。あと授業を抜け出して校庭で叫んでるとか、先生に追いかけられてるって状況が続いたんですよ。 どんどん自分が生きてる場所が変わっていくっていう感覚があって、やつと関わり続けてるし連絡も取り合ってるけど、どんどん落ち込んでいく、メンタル的におかしくなって横で見てて。

僕もちょうど高専目指して猛勉強して、1年で偏差値30ぐらい上げる程頑張って勉強して学年ビリだったのがトップ10に入るぐらいに自分がやりたいことのために動いていった中で、やつが変わってっちゃって。
自分も無理してるし、さっき言った目の前の楽しさじゃなく長期的な楽しさを求めるっていうところと、周りが中学最後だから今ふざけたいよねっていう衝突がものすごくあって。
僕卒業式の指揮者を立候補してやったんですけど、目の前で合唱練習をちゃんとしない人たちが許せないのと、高専って私立や公立の高校より試験が早くあるんでみんなより早く合否が分かるんですけど、僕が高専落ちちゃって。

みんなが受験や最後だから楽しくやってる学校生活の中、自分は落ちちゃって、でも合唱でいいものを残したいから歌詞の分析とか、どう動いたらみんな歌いやすいとかを積み上げていってる中でそれを受け取ってくれない、全員として思い出が完成できないことが苦しくて、僕は指揮者なのに卒業式練習を脱走して、逃げ回って。やつと同じことをして、僕の保健室登校がそこから始まったんです。

皆と一緒にいれない。その空間で皆が笑ってるのが許せないし、苦しいから授業抜け出してベランダで先生に光合成してるんで話しかけないでくださいとか言ってみたり、お昼ご飯の時皆がわちゃわちゃしてんの許せないからお昼は保健室に行って食べて、終わったら何気ない顔で授業を受けて保健室に行ってみたいな状態が続いたり。当時から、出来上がった空間に入るってのが怖いんですよ。例えば、朝遅めに登校するとある程度クラスの教室の温度って出来上がってるじゃないですか。昨日のテレビの話をしたり今日この授業あるよねとか、わちゃわちゃした感じに入っていくのがものすごく怖かった。だからやつとラジオの話をしてたもう1人の仲良いやつと朝4時に集まって、そっから登校して、開いてない校門の前に座って、昨日のラジオの話をして朝7時ぐらいに教頭先生が来るんで、それで一番乗りで学校に入る。自分たちが教室の温度が出来上がる前に教室にいることで、何とか耐性をつけるっていうのをずっとやってました。 

ゆり:
なるほど。

桑野佑太:
毎日朝4時の登校を許してくれたのは当時の教頭先生が、僕たちのために朝5時とかに来て校門開けてくれてたんすよ。今思えばなにかを感じとってくれたのかなと思います。 そういうのもすごくありがたかったしすし、当時の僕の代の学年の先生たちはみんな僕たちのことを理解してくれたので「つらいよな」って話聞いてくれたりとか、雨の中、傘も差さずに泣きながら帰っていたら相合傘して帰ってくれるとか、助けられまくりました。っていう中3です。

ゆり:
その期間は、3ヶ月ぐらいですか?

桑野佑太:
そうですね。保健室登校が3ヶ月ぐらいです。 学校に自分が持ってる一番高価なものをわざと置いて帰ってそれが盗られてないか確認するために学校に行くとかもやってました。僕は当時Will Uを買ってもらったのを学校に隠して置いて帰って、次の日の朝誰にも盗られてないっていうのを確認するために学校行くとか自分の中で学校に行かないといけない理由を作ってましたね。 

ゆり:
高校生の桑野さんは?

桑野佑太:
高専と同じくらいの偏差値の高校に入りまして、そこで放送部に入りました。アナウンスメントをしながらいろんなことをやってました。そこで伝えるとか伝わるとか、自分がラジオはしたい、人と話したいっていうものが活性化されたようなタイミングだったかなとは思うんですけど。

頭がいい学校に行った理由があって、小中学校というのは地域で同年代が集まったコミュニティだけど、高校は自分と同じようなレベル感で自分が行きたいこと、自分がしたいこと、嗜好性に合ったコミュニティができあがると思っていて、頭いいとこに行けば自分が生きやすい空間になるのでは?っていうふうに思ってたんですよ。 

でも入学したら、さっき言ったみたいに角を削っていくような同一化していく教育を目の当たりにしまして、家庭科の授業で将来の夢書きなさいって言われて「スーツ着たくない」って書いたんだすよ。スーツを着ない大人になりたいですって言ったら、それじゃ点数付けられないから公務員でも医者でもいいから冗談でも何でも嘘でもいいから書けって言われて怒られて、呼び出しくらったっていうのがあった時、僕はこの学校はあまり向いてないなっていうふうに思ったっていうのが高校1年生ですね。 

ゆり:
その後は。

桑野佑太:
その後コロナになるんですよ。僕は自主休校っていう選択肢を取って学校に行かないっていう選択をしました。県知事とか偉い人が学校行くな、外出するなって当時言ってたと思うんですけど、同世代の心には響かないなっていうのがあったんで、自分がみんなが楽しめるコンテンツとか居場所ってものを作ろうと思って毎日自分のインスタのアカウントで6時間ぐらいインスタライブして毎日企画考えて大喜利とかクイズ企画とゲーム実況やってみるとかって、入ってくれたの4人とか3人とかだったんですけど、毎日それをやることでみんなの拠り所になりたいなっていうのをずっとやってたのが高校1年と2年生ですかね。 

ゆり:
それは出席にならないってことですか。

桑野佑太:
自主休校なんで、コロナっていうこともあったんで、欠席じゃなくて公欠みたいな扱いなんですね。
僕はアナウンスメントの部活が大切で、部活のために行ってたんで勉強とかはもう本当にしたくなかったんで、学校で部活ができないなら、あんまり行く意味ないなとか他に人間関係で色々ごたついたんで、通信制のN高等学校に転校したというのが高校2年生です。
転校するまで、不登校の期間があったのでそこで出会った学校に行かない選択をしたひとのための支援事業、居場所コミュニティを作ってる方と出会って、その方が今から事業立ち上げするって言ってたからそれをお手伝いするとかってのやってました。その関わりでずっと一緒に動きました。そこで全国の学校行けない子供たちのためのオンライン文化祭っていうのを企画して、司会進行とか制作進行やったりしました。
あとは放送部の大会が復活したので、当時の顧問に掛け合ってもらって、特別な枠で出場して、県で1位になるとかってのはありましたね。 

ゆり:
冒頭で言っていた?

桑野佑太:
冒頭で言ってた九州大会じゃなくて、もう1個NコンってNHKが主催してる大会で1位を頂きました。結構それに向けて準備しましたしN高の先生にもお願いしてましたね。 それが今に繋がっていて、自分の軸にはなってるなっていうふうには思います。

ゆり:
高校3年生の進路の葛藤とかはありましたか。

桑野佑太:
僕が芸大に行きたかった理由は、高校は頭がいいとこ来たから次は頭おかしいとこに行こうと思って芸大を選んだんですよ。 ラジオもできるしっていうので選んだんですけど。
僕やっぱ長男だから、学費160万かかるんですよ、 芸大って毎年。それって大変だから特待生を取ろうと思って、めちゃくちゃ勉強しました。
点数が高いと特別措置みたいなものがもらえるんです。 だからAO試験で入学が決まったけど、それから半年間めちゃくちゃ勉強して9割とったら4年間授業料免除で8割5部とったら、1年間免除みたいのがあったんで、それをもらうために必死に勉強しました。自分がしたいこと、理想のために現実でちゃんとしっかり勉強するみたいなことをやったり。

あとは通信制の学校ですごく苦しいってのもありましたね。 周りのライフステージとして文化祭とか卒業式とかをやってる中で、自分はずっと当時映画館でバイトしてて、みんなが登下校してる姿を私服で見てるっていう、みんなの進路っていうのと自分の進路がだいぶ違うので自分がしてることが少数派であることにものすごく苦しさを受けてました。 


未来:僕が40歳で有名になったときに、丸い写真に自分のアーティスト写真、宣材写真があって下に200文字程度の紹介文があるとしたら、何書かれてたら面白いかなっていう考え方で生きてて、

ゆり:
未来のことを聞いていこうと思うんですけど、想像していただいて、5年後10年後桑野さんが死ぬときまでを想像してもらって、未来にどういったイメージを持ちますか。

桑野佑太:
20歳までに持ってたイメージっていうものと20歳から持ってるイメージっていうものがまず違うってところがあって、20歳までは、僕は27で死ぬと思ってたんすよ。 なんか天才って27歳で死ぬっていう伝説があるじゃないですか。自分を天才だと信じてやまなかったので、死ぬまで結構生き急いでたんですよ。 大学2年生とかプロジェクト30個ぐらい同時進行で、芸大の中でいろんな人とバラエティー作ったりCM作ったり、コピーライトの大会書に出てみたりMV作ったり何かのプロデュースしたりSNS始めたりみたいにやってたんすけど、
20歳なった瞬間に、「あ、これは死なんな」と思ったんすよ。  俺生きるなと思ってそうなったときに僕20歳までの人生を振り返って、色々あったけど、結果的によかったなと思って大泣きしたんですよね。気づいた瞬間に。
だから20歳からは未来に対して、次20年後、40年後、20年スパンなのか10年スパンなのかわかんないですけど、節目節目でこの人生よかったなって号泣できるような人生を生きていこうっていうふうに思ったっていう。

こういう仕事に就いていたいとかっていうのはまだ明確にはないし、何者であるかってのは明確にはないんですけど、タイミングタイミングで自分に対して良かったって思って泣けるぐらいよかったって思えるような人生を送りたいなっていうのは、自分の中であります。

ゆり:
そのときはどんな気持ちなんでしょう。

桑野佑太:
泣いてた時はですね、本当にそこで初めて自分を認められたっていう感覚はありますね。 ちゃんと生きたっていう感覚。生きてこられたことへの肯定ができたっていうことだと思うんですよ。 だから、それが引き続きできるような人生でありたいと思うし。
僕、心理学用語で先駆的決意性っていうんですかねっていう、死ぬときから逆算して自分の人生を決めていくっていう考え方をしてるんですよ。
もうちょっと柔らかくして例えば僕が40歳で有名になったときに、丸い写真に自分のアーティスト写真、宣材写真があって下に200文字程度の紹介文があるとしたら、何書かれてたら面白いかなっていう考え方で生きてて、今だったら「大阪芸大通いながらも東京に行き、そこで出会った人たちと色んなものを作ってイベントプロデューサーをした」っていうのが多分自分のプロフィール文になると思うんですけど、そこに何が付いてたら面白いのかをずっと考えていながら生きてるんでそういうところに通ずるものを作りたいと考えてるってのはあると思います。 

ゆり:
これをするまで死ねないということはありますか。

桑野佑太:
僕はファンキーの家で集まったやつらと最終的には遊んで暮らしたいとは思っています。
そいつらもかなり僕と似たような境遇を持ってるっていうか、僕より苦しい思いをしてるって知ってるので、そいつらと一緒に何かをしたいっていうのはあるんですよずっと。
今、1人は就職して色々と過酷な環境でもう手が動かなくなっちゃって1回仕事辞めて働けなくなっちゃってるとか、そういうのがあったりして。
そういう人たちを集めて、ベースとして地元を盛り上げたいってのもあるので地元でそいつらと集まって、自分ができるクリエイティブというか、創作活動、そいつらと一緒に世の中をわくわくさせたいなってのはずっと思ってますね。 

ゆり:
もしも100万円あったとしたら、未来は何をしたいですか。

桑野佑太:
100万円あったとしたら、僕は一瞬で使っちゃうと思いますね。自己投資しますね。
例えばパソコンを買うとか、旅行に行くとかっていうような体験にものすごくお金を払うなと思います。

多分今持つ100万円と、1年後も100万円の価値ってものすごく違うと思ってて、今しか体験できないことにしていくのかなっていうのは思います。
今の僕だったらものすごくいいものを作りたいし、これから何かのためにパソコンは絶対買いますし、社会人になるタイミングでこれから友達とかと会えなくなってくと思うと、みんなと旅行行くのにお金を使うってとこになるのかなとは思います。 体験にお金を払う。

ゆり:
体験は今旅行っていうのが出ましたが、その他はありますか。

桑野佑太:
めっちゃ美味しいもん食べるとかですかね。
この前、僕が辞めた高校で唯一仲良い男組で1泊3万ぐらいする旅館に泊まったんですけど、そのとき食べた、料亭のフルコースみたいのがものすごく良くて、1個1個味わいながら「これ美味しいね」とか、「食べるの勿体ないよね」って言いながら食べるっていう出てきたものの素材とかの価格ではなくて、それを食べながらでできる会話っていうものに面白さを見いだして、いい体験だったなとは思ったんでそういうことするかもしれないです。 

ゆり:
未来の桑野さんはどんな気持ちだと思いますか。

桑野佑太:
どんな気持ち・・・
僕はあの頃、ちゃんと生きて、今に繋げてよかったなって思ってくれてたら嬉しいし、そういうふうに思える、思う人生を歩んでいこうかなというふうに思っております。

ゆり:
もしもラジオがなかったら、コンテンツがなかったら、どんな人生になっていたと思いますか。

桑野佑太:
ラジオがなかったら、普通に話せてなかったと思います。話すということを、こんなに楽しいと思えなかったと思います。
繋がるっていうことで、音楽っていう表現方法を取ってたんじゃないかなって思います。
自分の感情を発露するための音楽も好きで、コピーバンドやってたりとか、シンガーソングライターやってたりとか歌詞書いたりするとかする時があったんで、その表現方法を変えて伝える伝わるってとこにいってたんじゃないかなっていうふうに思います。 

ゆり:
音楽ではなく、なんでラジオだったんですかね。

桑野佑太:
それは僕が本物を見ちゃったからですね。僕がMV作った友達がいるんですけど、そいつらに出会ったときに、こいつら本当に売れるやつらで、自分は趣味っていうか、こいつらの方向性で勝つことはないっていう衝撃を受けたんですよ。 今芸人さんとか芸能人の方が方は趣味でバンドやってますとかってあるじゃないですか、もうああいうのすらできないなって思っちゃったっていう、衝撃を受けたんですよね。だからこの軸で戦っていくことは無理だっていうなんか、鮮烈な体験をしたっていう。

自分の考え方の転換として、そういう人たちをいっぱいプロデュースしたりとか、盛り上げることで、輝かせる方が楽しませる人の母数として多くなるなっていうような感じですかね。 結果として音楽を伝えるためのツールとして使っていくMVというものをプロデュースをするっていうところが自分の領域かなとおもいます。。結局伝わっていかなかったら音楽も、ただの音じゃないですか。 廃れていくものというか別に有象無象になっていくわけじゃないですかこの人たちの創るものはこういうものだよっていうのを伝えられるのは僕しかいないかなと思ったんで。

ゆり:
裏方っていう言葉を使ってましたけど、そういうきっかけにもなりましたか。

桑野佑太:
そうですね。 芸大で「クリエイティビティの分配」っていう誰が言ってたかわかんないけど、ものすごく覚えていて。
僕が持ってるのはプロデュース力なのかなっていうふうには思っています。人のいいところを見つけて、パラメータゲームで五角形パラメータとかチャートみたいなものを作ったときに、カラオケで言うと拳がよかったとかメロディーがとかって出るじゃないですか。
そういうギザギザは、芸大とか僕みたいな人間って、一点突破した鋭角なものばっかりだと思うんですよ。 でもその人の角度がどこかっていうのを見極めて、それを集めていって最強のグラフというか最強の図形を作れるのは僕しかいないかなっていう芸大で感じた体験はありました。 

ゆり:
未来を想像して、桑野さんはどんな人をプロデュースしてると思いますか。

桑野佑太:
どんな人をプロデュースしてるか・・・本当にあの頃の僕みたいな人ですかね。 生き方がわかんない人たちに何か一つ点というか、灯を示せるような存在っていう。そういう存在になるために自己プロデュースしていくし、それができるキーとしていろんなジャンルとか、わくわくするものをプロデュースしていくんじゃないかなっていうふうに思います。

ゆり:
自分のプロデュースはどんなふうにやっていくイメージがありますか。

桑野佑太:
例えば、AIと会話するポッドキャストを始めてみたりとか、AIにどんどんプロンプト流したり、自分が足掻いている姿を発信するってのを積極的にやってるんですよ。
なんか自分ここつまずいてますとか、自分の失敗すらもコンテンツにして発信するってことは結構してて。
だからそういうところを見せられるプロデュースというか、過程というか、最初の最近のテレビのメディアの親近感みたいなところを見せられるような存在でありたいなっていうふうに思ってます。

ゆり:
最後に言い残したこととか、27歳で死ぬと思っていたっていうことで、そのときに考えてた遺言などは。

桑野佑太:
決めてたとかじゃないけど、なんか今ぱっと浮かんだしどこで聞いたかわかんないですけど「この人生一遍の悔いなし」って言いたいなとは思いますね。 

ゆり:
読者や、インタビューしてきた自分に対して何かありますか。

桑野佑太:
「今はあがくタイミングだろうな」っていうのは自分に対して思いましたね。 リトルとそういう会話をしてる感じがします。
「もうちょっと足掻いてていいよ」っていうのは、自分に言い聞かせたいし独り言として受け取って頂きたいなと思います。もしこれを読んでくれてる方や僕が話したことが伝わっていく方に対しては、僕は何かしらずっと発信してくと思うんで、きっかけがあれば拠り所というか、こういう、おもろい変な、めっちゃあがいてる大学生もいるんだなと思ってもらえたら嬉しいなっていうふうに思います。 

あとがき

自分の居場所はどこにあるんだろう、自分の拠り所となる場所はどこなのだろう。と考えたことがありました。足掻いて足掻いて周りと衝突しながら見つけた場所で、自分の石の角となる、鋭角な部分を見つめる瞬間を、仲間と笑い合う瞬間を、日常に取り入れる。
動き続けるためには足掻きが必要で、それぞれの人生に足掻きがあるからこそ、人生は山あり谷あり。そんな凸凹道を進み続けるのだなと思うのでした。
私は今、どんな道をどんな石で進んでいるのだろう。もうちょっと足掻いてみよう。
【インタビュー・編集・あとがき:ゆり】


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