治療家の人
むかしむかし、ある村に、癒しの手を持つ治療家が住んでいました。その治療家は、体の痛みだけでなく、心の痛みも癒すことができました。
ある日、足を怪我した少年がやってきました。治療家は少年の足を優しくさすりながら、こう語りかけました。
「痛みは、体が教えてくれるメッセージなのです」
また、悲しみに暮れる老婆がやってきました。治療家は老婆の手を握りながら、ただ静かに話を聞きました。やがて老婆の表情が和らいでいきました。
村人たちは不思議に思って尋ねました。
「どうして、あなたは人の痛みがわかるのですか?」
治療家は答えました。
「私も多くの痛みを経験してきました。だからこそ、人の痛みがわかるのです。治療とは、相手の心に寄り添い、共に歩むこと。それが私の使命なのです」
その言葉は村中に広まり、多くの人々が心と体の癒しを求めてやってくるようになりました。治療家は誰に対しても、変わらぬ優しさで接し続けました。
そして「癒しの心は、最高の薬」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2025年07月28日16時09分に書く無名人インタビュー1134回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】
今回ご参加いただいたのは 内田泰文 さんです!
年齢:50代前半
性別:男
職業:世界を変える治療家
現在:ストレッチやマッサージでは改善しない不調や、原因不明の心身の問題に対して、栄養学・体の使い方・脳科学を組み合わせた独自の8種類の検査で「痛みや不調の原因」を特定。細胞の老化を防ぎ、根本から人の生活を元気にする治療や講演家として活動を行っている。
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今は何をされていらっしゃいますか。
内田泰文:
29才の時に、治療家を目指して学校に行きながら7年間下積み修行しました。その場の痛みを取り除くだけではなく、本当に人を良くするのにはどうしたら良いのか?いろんな治療方法を学んでその後、開業しました。
開業目的っていうのは当時、筋肉を揉んだり関節を整えたりっていう治療方法で、一時的な痛みを和らげるぐらいっていうところがほとんどで…
自分自身は29歳の時に人生を救ってくれた治療家の先生を目指してたんですけど。
その時、105キロあった体重が6ヶ月で35キロ痩せたんですよ。
本当にもう、めちゃめちゃ身体が変わって人生観が変わったんですね。
根本的に人を悩みから救って、健康になって人生の素晴らしさを伝えたいと思って。
そういう整骨院がなかったので、無いなら作ろうかということで開業したんです。
豊中愛整骨院っていう。
治療って【手当て】なんですよね。
手当ての原点は、母親が子供のお腹に触れて、お腹痛いのを治したっていうのが、治療の原点なんです。
ってことは別に、治療技術を勉強したわけでもないし、テクニック知ってるわけじゃなかったけど、手を当てて治ったっていうのが・・・なんで治るんかと思ったらやっぱ、母親の愛情だと思うんですね。
そういったものを大切にしたいと思って豊中市で治療院を開業して。
通常の治療院ではあまり見ない、難治性の症状であるとか、自律神経の問題とか。
病院とか整骨院で改善しないような症状の人たちに対して、栄養学を使ったり、体の使い方、考え方の癖とかそういったものを使って治療をやっています。
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もう一回お聞きしたいのですが、どういったコンセプトで整骨院をされてるんでしたっけ。
内田泰文:
整骨院自体は体が痛い辛いって苦しんでる方たちに対して体の可能性に気づいていただいて。
自分の大切な時間、より良い未来に向けて導いていってあげるっていう。
だからまず、痛みや苦痛を取り除くっていうのが大事で。マイナスからゼロに。
そしてゼロからプラスに向けて、どのようなことをしたいのっていう。
コンセプトとしては・・・自分を救ってくれた師匠が日本に生活習慣病っていうのを提唱された方なんですね。
聖路加病院の日野原先生っていう、地下鉄サリン事件の時にみなさんが運ばれた病院なんですけど。
そのお医者さんとは最初、本との出会いだったんですけど。
その先生って105歳で亡くなられたんですけど最期に「皆さん、今までありがとうございました」って亡くなっていったんですよ。
もう1人、僕の実の父親は小学校1年生で別れてるんですけども、若い時に糖尿病を患って、心臓のバイパスで何回も手術して、で腎臓悪くして膀胱取って、認知症になって、胃がんになって死んでいったんですけど。
最期に「どうか俺を許してくれ」って言ったらしいんですね。
僕にはだから、人生の師匠が2人いて。
29までは本当に僕も自暴自棄なめちゃくちゃな人生歩んでたんですけど。
(そのままだと)やっぱり父親のような身体になっていったと思うんですね。
それが日野原先生っていう最高の死に方をしてくれた人に出逢って・・・やっぱり人って最後、後悔して死ぬのか、ありがとうって言って人生を終えるのかって言った時に、日野原先生みたいに「人生ありがとう」で締め括れるように、患者さんに接してるんです。
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コンセプトを実装するために、具体的な整骨院での内田泰文さんなりの工夫を教えていただけますか。、
内田泰文:
痛みっていうのはなぜ起こるのかっていう、慢性的な不調とか病気っていうのは、実はすべて生活習慣なんですよ。
先天的な遺伝の問題以外は全てその人の生活習にヒントがあるんです。
その生活習慣の、何に問題があるのかっていうところをフォーカスして。
栄養に問題があるんやったら栄養。
身体の使い方に問題があるんやったら、体の使い方。
考え方に問題があるのであれば考え方を変えてあげる。
当然治療もして、その人の不調がないようにっていうふうにサポートしています。
ポンプ:
なるほど。最終的に実施している施術は整骨院ということであってますか。
内田泰文:
そうですね。整骨院なんですけど、だいぶ変わった整骨院なんです。
ただ単にその場に来て楽になったな、でまた来てください、みたいなところが多いと思うんですけど。
うちはその人の人生と向き合って、その人が生涯病気にならないように、その人の人生をサポートし、患者さんとともに年老いていくっていうのが理想で。患者さんと一緒に年老いていきながら、「先生、こんな頃あったな」とか「○○さん、この時こうやったね」って言いながら、その人が生涯寝たきりになったりとか、大変な病気で死んでしまうことのないようにサポートをしたいなと思って治療にあたってます。
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お話をお聞きして、整骨院じゃなくて違う治療のアプローチがいくつかあったと思うんですけど、その中で整骨院を選ばれた理由を教えてもらえますか。
内田泰文:
29歳の時に母親が机の上に一冊の本を置いてたんですね。それが「生きかた上手」っていう本で。日野原先生が表紙で、笑ってる写真なんですよ。
なんやねんと思いながらパラってめくったら。
「生活の習慣に早くから気づいたものは、おそらく人生の実りも多い」って書いてあって。
僕、何の意味かもわからず号泣してしまって。
そこからこの人の本は何なんだろうと読み出したらもう涙が止まんなくて。
その時に母親がずっと診てもらってた先生が整骨院の先生なんです。
地元の先生に母親の治療をしてもらってて。
その時にたまたま整骨院の先生と、人生どうすんねんみたいな話になって。
今まで普通に仕事で働いたことなかったので。
僕自身がおじいちゃんおばあちゃんに育てられてたんで、おじいちゃんおばあちゃん好きなんですね。
それを聞いた先生が、「整骨院の先生はどうや」と話をしてくれるんですね。
その時に僕は、日野原先生みたいに心と体を病んだ人を治してあげれるんだと思って。
で、人を治せる治療家になろうと思って治療家の道を進むんです。これが整骨院を選んだ選択肢です。3年後に日野原先生に会いに行くんです。
人生の再出発ですね。
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先生にお会いできたのは3年後なんですか。
内田泰文:
はい、29歳で整骨院の道に入りまして、そこから3年後に日野原先生に実際会いに行くんだと思って。
で3年間勉強をして専門学校を卒業して、日野原先生に実際お会いして。
日野原先生が「大変な思いをしてきたね。でも、君のような経験をしたものが、これからの日本の医療を支えるから。日本のために頑張りなさい」って言ってくださって。
今まで勉強したことがなかったんですけど(専門学校は)トップで卒業して。
自暴自棄で刹那的な人生を送って、気づけばとんでもない事になっていて、仲間の裏切りや、多額のお金のトラブル、死ぬに死ねない廃人同然の生活になっていた。
そこから人生這い上がって。
日野原氏の言葉が衝撃過ぎて、人生が180°変わって、6か月で35キロも体重が落ちてめちゃめちゃ健康になって学校トップで卒業し、母親と一緒に日野原先生に会いに行ったっていう。
そこからご縁をいただいて、日野原先生がされていた講演活動『命の授業』っていうのを、僕も自分の人生を通してお伝えしています。
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整骨院以外の内田泰文さんって、どんな過ごし方をすることが多いんですか?
内田泰文:
格闘技が好きで観たりとか。
スポーツトレーナーをやってたので。
もともとグレた原因も運動音痴で勉強もできないし、吃音だったんで言葉も喋れなかったんですね。
だから、引っ越しをしたときに揶揄われるわけですよ。こいつ緊張してやがるみたいな。
喋れないから結局、力でねじ伏せるみたいになった経験があって。
そこから、この業界入って体の勉強したら運動音痴ってないんだって。
体の使い方を小さい頃知ってたら・・・スポーツにもっと打ち込んだりしてたなぁと思って。
ポンプ:
スポーツトレーナーは整骨院の前ってことですか。
内田泰文:
整骨院しながらスポーツトレーナーをします。
ポンプ:
それは今もされているんですか?
内田泰文:
そうですね。
子どもたちに体の使い方を教えてあげたり。足の重要性を伝えたり姿勢や体の軸を整える事で、スポーツができる様になるだけでなく、内面が整うことで自己肯定感にも繋がるんですね。これが、大切だと思ってます。
競技は格闘技とか球技で、それ以外も教えてます。
どんな競技でも「体の使い方」自分のカラダの扱い方が最も大切なので。
基本は古武術をベースにした、身体のパフォーマンスを上げる方法なんです。
自分はいろんなスポーツを教えられるんですけど運動音痴なんで・・・。
好きな人と付き合うみたいな話で格闘技のトレーナーをやってます。
あと日野原先生が残してくれた命の授業っていう・・・自分の仕事以外に、子どもたちに命の授業を伝えたいと思って。
僕は日野原先生に自分の命を救ってもらったので命の授業を全国で講演していきたいなっていうのが仕事以外の活動ですね。
ドロップアウトした子とか。
人生につまずいてる子とか。
自分なんてって思っている子とか。
将来、好きなことが見つからないと思っている子達に、命の授業を通して。
29歳で一回終わっている人生が本との出会いで変わって。
今好きな仕事で人に喜んでもらえて。
自分を諦めるんではなくて。希望の光を僕はもらったんで。
それを今度は僕が縁あった人たちへ返していくのが自分のミッションかなと思ってます。
過去:食べるものがなく、梅酒の梅を食べて急性アルコール中毒に
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ちっちゃい頃ってどんなお子さんだったんですか
内田泰文:
父親は事業をしていまして母親と父親に育ててもらったんですけど小学校1年生の時に離婚しまして。
当時母親が「今日からお父さんしばらく忙しいから、みんなで見送ろう」と、姉と母親で、父親が大きな荷物を持っていく姿を見送ったんですけど。
おかしいなと思いながら母親には聞けなくて。
小学校1年生から3年生の記憶がないんですよ。気づいたらその3年生の時に引っ越しをしてたんです。引っ越しをして大阪の方に行ったんですけど、大阪に引っ越してきて最初、川西っていうとこに住んでたんですけど。
母親が女手一つで僕と姉を育ててくれました。
しかも、父親が裁判所にも出てこなかったらしいんで養育費も一切もらえず、完全に捨てられた状態でした。
僕はそれを教えてもらえない、恐ろしくて聞くに聞けない状態でした。
母親は仕事で遅くに帰ってくる。僕と姉は家で待ってる。でも姉ちゃんの帰りも遅い時も。
とすると僕一人なわけですよ。
そうすると小学校3年生でお腹すいてたりとかすると、煮干しとか食べるんですが、食べる物が何もなく、気づいたらお腹減ってティッシュペーパーを食べたりしてたんですね。
山の中やったんで、山に生えてる草みたいなのを食べたりとか。
ある日、食べ物が本当になくてお腹が空いてて、家の中いろいろ探したら梅酒があったんです。
中の梅を食べようと思って。
で食べてたんですよね、そしたら急性アルコール中毒になって。
母親が帰ってきたら真っ青になって倒れてる僕がいるわけですよ。
それを見た時に母親が、もうアカンみたいになって。
それでおじいちゃんおばあちゃんに頼んで同居させてくださいってことになって。食べるものに困らないんで。
そこから三国っていう大阪のおじいちゃん、おばあちゃんの家に引っ越すわけなんですね。
小学校3年生がおじいちゃん、おばあちゃんと生活を始めるんですけど。
当時、吃音でね、すごい赤面症やったんで言葉が喋れないわけなんですよ。そしたらバカにされるわけじゃないですか。
そこでどうなったかっていったら、笑ってくるやつをしばいたらこいつ強いとなり、ヒーローになったんで、力でねじ伏せたらバカにされないと、単純に思ってケンカで強くなりました(笑)
そっから暴力に走るんですけど。
当時はビーバップハイスクールとか湘南爆走族とかそういうヤンキーというのが流行った時代なんですけど、僕変わってて。
二つ上に姉がいたんでマーガレットとかそういう少女漫画を見てみると、少女漫画のヒーローってーお昼は生徒会長で晩は暴走族の身になるっていう設定なんですよ。
それ、女性にモテるしかっこいいなと思って。
そこから、そういうような生活になって暴力に走ったりとか、人にモテたりとかして。
中学校の時とかは地元で有名になり、人にちやほやされ、モテるようになったんですね。
自分の中学以外の周りの中学校にも自分のファンクラブがあるというくらいモテる時代があったんですよ。
で当時、強くなってチヤホヤされたりモテたらすごい幸せなんじゃないかなと思ってたんですが、逆に心の中にある穴は全然埋まらなくて、なんかずっと虚しくて。人生ってこんなもんなんかと。人は何のために生きてるんやろって考える様になりました。
友達にも、好きになった人にも本音が言えないのと、鎧をかぶった生き方をしてたんですね。でも原因がわからなくて結局お金に走ったんですよ。ネオン街。
飛ばしちゃったんですけど、母親が離婚してるから子供にだけは幸せになって欲しいと、めちゃくちゃ教育ママになったんですよ。良くあるパターンですよね(笑)
通わされてた塾では、必勝ってハチマキ付けて、先生に竹刀で叩かれるんですね。遅刻したら階段から引き落とされるしね。
勉強ついていけないって言ったら、母親は頑張りなさいって言うわけです。
でも勉強おもんないし母親の言うことも聞けないんで。当時、離婚してる片親の家庭が学年で3人だけやったんで、父親がいないっていうことが恥ずかしくて。
グレるけど・・・別に不幸で、勉強についていけずで落ちこぼれでヤンキーなったんじゃない。自分は違うと思いながら生きてて、でもずっと心が虚しくて。
で、どうなったかって言ったら、ネオン街がすごい眩しく見えて。
とことんお金に走っていくんですね。多額の借金を被せられるようになったりとか。
どうせ人ってヨボヨボに死んでいくんやから、若い時に好きなことして死んでったらいいやと思ってたんですけど、ずっと心の中の虚しさが消えずにいて。
その時、さらわれたり、いつ自分が狙われる立場になるか、警察にもたてついてとか、いろいろあり過ぎて、もう人生どうしたらいいのかわかんなくて。目標もなかったし目的もなかったから死んでもいいわっていうふうに思ってたんですけど。
ただ唯一、母親がすごく真面目な人やったんで、自殺するにできないし。
ほんまに死んだら母親はずっと後悔するだろうなと思ってたんですよね。
でも、まともに働いたこともない、この先、どうしていいのかわからないし。
その状況でほんまにどん底見ているときに日野原先生の本が・・・母親が机に置いてたんですね。
それで初めて、「もしかして、自分の生き方が間違えてたんじゃないかな」ってことに目を向けるようになったんですよ。前までは社会がおもんないとか社会や人が悪いって思ってたけど、日野原先生って当時94歳で「毎朝、今日、人のために何ができるかと思うとワクワクして飛び起きるんです」って書いてあったんですよ。
忙しすぎるから毎週金曜日には徹夜してたみたいですが、それで、毎日ワクワクして生きてる。
俺は人生しんどいつらいって言って好きなことやってきて、生きるのがしんどいって。
この人は94歳で人のために生きてワクワクしている。
いや、人生ってヨボヨボになって死んでいくんちゃうんかと思ってたのが、このおじいちゃんって何なんだって。
もうすごい衝撃で。人生がひっくり返ったんですよね。
それが過去ですね。それから6ヶ月間断食して35キロ落ちて。
未来:これからは苦しんでる子とか、そういう人たちにメッセージを投げる活動、講演会をしたりとか、刑務所に行ったりとかして、自分の人生を話していきたい
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内田泰文さんの未来なんですが現在50歳ということで例えば60歳とか、こんな風になっていたらいいなみたいなイメージって何かありますか。
内田泰文:
はい。明確にありまして。
今回(インタビューに)応募させてもらった理由もそうなんですけど。
治療家としていろんな人を治してあげるんだけど本当のミッションって、「人には無限の可能性があるんだよ」っていうことを伝えたいなと。
絶対諦めるな、絶対に大丈夫だからって伝えてあげたいなと。
どんな今苦しいかもわからないし、信じれないかもしれないし、人生ってつまんないと思ってるかもしれないんですけど。
これが体の痛みだろうが心の痛みだろうが、絶対に諦めないでって言いたいですね。
僕は恩師に出逢って人生が変わった、今度は僕が、それを人に、少しでもお返ししていくことが役割りだと思っています。
だから先生からいただいた言葉を、そして自分が経験したことを通して、人に勇気を与えたい。その活動をやってこなかったなと思って。
講演会とかね、たまにやったりしてるんですよ、人前でプレゼンとかあったんですけど。
僕はやっぱりもっともっと苦しんでる人たちに寄り添ってメッセージをあげたい。
今50なんで、これから5年、10年と考えたときに、これからはそういうふうに苦しんでる子とかそういう人たちに講演会したりとか。刑務所行ったりとかして自分の人生を話していきたい。
自分がやることで「こいつでできたんやったらまだ俺いけんじゃねえか」っていうぐらいに思ってもらえたら嬉しいなと。それが先生に教えていただいた事を人や社会に還元していくことじゃないかなって。そういう活動していきたいっていうのが未来ですね。
ポンプ:
その29歳の転換点というところで、それまでのネガティブな内田さんのことを現在の内田泰文さんはどう見てらっしゃるんですか。
内田泰文:
決して否定はしてないんですよ。単に、幸せになりたかったけど、方法が分からず、暗闇でもがき苦しんでいた。僕には必要な通ってきた道。でも、出来るだけ人には苦しまず、諦めず早く気付いて欲しいなと。
だからどうしていいかがわからないから、やり方も手法もわからんし。かといって目標もないわけやし。でも恐喝とか、お金に溺れて、人に裏切られたり、そういうことがいろいろ起きるわけじゃないですか。
どうせ年取ってヨボヨボなって死んでいく。でも人生の意味なんて考えてもわかんないと。
なんの意味があんねんって思ってたけど、心の中ではずっとそれを求めてたんです。
だから苦しかったと思うんですけど。
ポンプ:
今の内田泰文さんは、その生きる意味みたいなものを何か形だったりとか手触りだったりとかみたいな感じで、何かしら実感値として持ってらっしゃるんですか。
内田泰文:
そうですね。日野原先生に出会って、やっぱ一番救われたところっていうのはその意味が見出せたことだと思いますね。
日野原先生の本に何回も出てくるチルチルミチルの幸せの青い鳥、ご存知ですか。
ポンプ:
名前だけ知っています。
内田泰文:
端的に言うと、飼っていた幸せの青い鳥がどっか行くんですよ。どこかに行ってしまって、あらゆる所を探しに行くんですよ。幸せの青い鳥はどこに行ったの?って言って。
根負けして悩んで、落ち込んで。どこにもいないんです。もうめっちゃ落ち込んで家に帰ってみたら、幸せの青い鳥は籠の中に最初からいたっていう話なんですね。
これ僕、聞いたことあったんですけど。
いやもう、そういう話やろうみたいな。幸せは最初から自分の中にあったんやろと。
僕ね、もう一回読んでみようかなと思って、本屋さんの絵本コーナー行って。そしたら絵本見ながら最後に号泣してたんですよ。
これに通じるところがあるかもわからないんですけど、ヴィクトール・E、フランクルという『夜と霧』という本がありまして。
これはナチスの毒ガス室に送られた人の本なんですよ。現代精神医療の元を作った人の本なんですけど。
自分(主人公)がユダヤ人なんで、毒ガス室に放り込まれるんですね。自分の奥さんと娘は別の収容所に入れられて自分も毒ガス室に入れられるんですよ。これ実話なんですけど。
で、もう死体がゴロゴロじゃないですか。自分もいつ死ぬかもしれないんで。
で娘と奥さんが毒ガス室に入れられて死んだって報告を受けるわけです。普通絶望じゃないですか。
ヴィクトール・E・フランクルってどういったかっていったら、それでも希望を失わなかった。
僕はこの状況を脱したら、これを世に伝えに行くんだ、それでも僕は希望を失わず、幸せだ。誰も、どんな過酷な状況も、人からそれを奪う事は出来ない。それが僕にとってすごく大きなきっかけで。
人生の29歳まで人生の目的をずっと追いかけてたんですね。何の意味があんねんと。どうせヨボヨボなって死んでいくんやないかと。
楽しいことあっても、それが大きいか小さいかの差で・・・ビール1本で酔うてたんがビール10本で酔うみたいなもんで。その後は虚しいと。
何やねんと思ったんですけど。
『人生に意味なんてない』と。人は、ただ単に生まれて死んでいく。それだけ。でも、人生にどんな意味をつけるのかは、人や環境なんて関係ない。自分でできるっていうことを、僕は教えていただいたんです。
人生に、どんな意味をつけて自分は生きたいんだっていうことを教えてくれ。どうせ生まれてきたならば、どうせ死ぬならばどんな意味を自分に持たせて。人生良かったって思えるか?それは自分で決めれるっていうことを教えていただいて。それがやっぱ一番大きかったですね。
ポンプ:
改めて死っていう未来に対して、何か思うことありますか。
内田泰文:
そうですね。僕は自分が死んだ時にもう一回、日野原先生に会いたいなと思ってるんですね。
会いに行って、「先生お久しぶりです。あの時の若者ですよ」って。
それで、先生から、その後、どんなことをしてきたんだって言われた時に、僕は先生に助けていただいたおかげでこんなことをしてきましたって、胸を張って言える自分でありたいなと。
それが大きい小さいではなくて、僕は先生に人生助けてもらって、先生から言われた「日本の医療のためにがんばりなさいと言ってくださった」この言葉を果たすため、がんばってきましたと。
困ってる人、悲しんでる人、苦しんでいる人たち、諦めている人たちに対して、以前の自分だったような人たちに、僕は多く伝えていこうと思って、こういう活動をやってきましたよっていうふうに言いたいんです。
ポンプ:
小学校1年生で離れてしまったお父さんには何か話したいことありますか。
内田泰文:
いま、僕は父親に僕はめちゃめちゃ感謝してるんですよ。
昔は死ぬほど恨んでましたし。殺したいと思ったし。お前のせいでグレたんやって思ってましたし。
でも今僕、父親にすごい感謝してるのは何なのかって言ったら、こんな風になるなよっていう反面教師を父親はやってくれたと思ってるんですね。
お前はこんな生き方をすんなよっていう風に教えてくれたと思ってて。
僕には人生の師匠が二人いて、最高の死に方をして29歳の時に人生を助けてくれた恩師。そして、別れた実の父親。
その二人の師匠のおかげで今の自分がいるので、父親にもめちゃめちゃ感謝します。
ポンプ:
先生と父親に無事、話しかけられたとすると、そのあとってどうなるんですか。
内田泰文:
死んでから?
死んでからは想像したことがなかったですけど、やっぱり僕はメッセージをずっと投げ続けてると思うんですね。
日野原先生って死んでないと思ってるんですよ。
亡くなってるけど、いまだに先生の言葉は、僕を励まし続けてくれて、僕の人生を燃え立たせてくれるっていうことは僕の中で生きてるんですよ、ずっと。なにも変わらずに。
だから僕も死んだ後、そうだと思うし。
もし僕の話を聞いて人生が立ち直りましたとか、しんどかったのが直りましたって言ってくれたら、僕はずっとその人の中で生きてるんじゃないかなと。
ポンプ:
最後に、言い残しもしくは感想をお伺いできればと思いますけども、いかがでしょうか。
内田泰文:
本当にしんどいと苦しい人とか人生に絶望したり裏切られたり悲しいこととかあって、心折れる瞬間とか。
もしくはずっとその状態にいて、しんどいとか。
もしくは人生こんなもんじゃないと思いながら、なかなか前に進めないという人もたくさんいると思ってて。
でもどんな状況であったとしても、絶対諦めないでほしいっていうのと、絶対に大丈夫だからっていうことを僕はお伝えしたいんですね。
で、それを切り開いてくれるのは、出会いだと思ってるんですよ。だから、人との出会いとか言葉とか本との出会い。
もう一個が新たな自分との出会いなんです。
だから、人にはすでに無限の可能性ってめちゃくちゃあって。でも、自分ってこんなもんだとか、こういう人だと決めつけずにいて欲しい。人に会ったりとか、本読んでみたりとかして経験を増やして、
人生が変わるんだっていうことを期待してほしいと思いますね。
あとがき
内田泰文さんありがとうございました。
もしも自分が内田泰文さんの人生だったら、どこかでギブアップしていたかもしれません。
そらでも諦めるなというメッセージを伝えたいと語る内田さんに、強い生命力を感じます。
ところどころで号泣するエピソードがありましたが、編集していて僕も思わず釣られたシーンがいくつかあり、まるでドラマを観ているような感覚を覚えました。
そんなハードボイルドな過去をとても気さくに語る内田さんでした。
【インタビュー・あとがき・編集:ポンプ】
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