新田次郎『聖職の碑』(1976年)

1976年3月24日に講談社から刊行された、新田次郎の書き下ろし作品『聖職の碑(いしぶみ)』。手元にあるのは1978年8月28日発行の第20刷である。『八甲田山』で監督を務めた森谷司郎が同じく監督する、映画『聖職の碑』の公開が1978年9月23日のため、それに合わせて帯も映画仕様になっている。
『聖職の碑』は、1913年8月26日~27日に中箕輪尋常高等小学校の登山行事で木曽駒ヶ岳で教員および生徒38人が遭難し、そのうち11人が死亡した木曽駒ヶ岳大量遭難事故をモデルにした作品である。新田次郎自身が長野県諏訪郡(現在の諏訪市)の出身で、子供の時から木曽駒ヶ岳が手の届きそうなところで暮らしておりこの悲惨な遭難事故の話は昔から聞いていたそうで、山岳小説を書くようになってからは小説にするかどうかはともかく、この事故について一度腰を据えて調べたいと思っていたそうだ。本作は全部で300ページほどなのだが、そのうち約50ページが「取材記・筆を執るまで」に費やされており、実際に木曽駒ヶ岳を登るなど、いかに新田が綿密に取材をしていたかが良く分かる。
大正当時の長野の学校教育は、明治から続く実践主義教育と、新しく広まり始めていた理想主義教育の「白樺派」との間に軋轢が生じており、それはこの中箕輪尋常高等小学校でも例外ではなかった。実践主義者であった赤羽長重校長は登山の教育的価値を掲げ、登山は危険だとして反対する白樺派の教師たちを説得してなんとか今回の木曽駒ヶ岳の登山を始めるのだが、登山中に台風による暴風雨のため、生徒と教師たちは粗末な山小屋に避難することを余儀なくされる。その後、生徒たちが低体温症で次々と命を落としていくことになり、最終的には赤羽校長自らも命を落とすことになってしまう。そして、無謀な登山を強行して子供たちを死亡させたとして赤羽校長や学校側は厳しい非難を受けることになるのだが、最初は対立していた有賀喜一をはじめとする白樺派教師たちは、赤羽校長が自分の命を犠牲にして生徒たちを守ろうとした真相と、この悲惨な事故を風化させないため、将棊頭山の山頂に「遭難記念碑」を建立するのである。
新田はあくまで資料に基づいて客観的に話を書いており、これほどの規模の遭難事故が起こった原因が何かについてはっきり決めつけることはしていない。すなわち、赤羽校長の責任だとも、実践主義派と白樺派の対立が原因だともしていない。例年はこの登山は地元の案内人に同行してもらっていたのだが、この年は予算の関係で案内人がいなかったのが原因の一つくらいだろうとしている。また、映画『八甲田山』の公開が1977年6月4日で、この『聖職の碑』の刊行はそれよりも前のため、新田は『聖職の碑』は映像化ありきで書いていたわけではないだろう。なお1978年9月23日公開の映画『聖職の碑』では赤羽校長(鶴田浩二)が完全な主人公で、有賀喜一(北大路欣也)らの白樺派教師との思想の対立を強調しながら、遭難そのものをとにかくドラマチックにしただけの、なんだか安っぽいお涙頂戴の作品になってしまっている。wikiによると映画『八甲田山』の興行収入が約25億円なのに対し、映画『聖職の碑』は5億3700万円と、商業的にも振るわなかったようだ。
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