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[掌編]チョコより甘いKISSをあなたに

「先生、モテるんだ――」

僕が抱えているいくつかの包みを見て、彼女はそう言った。

彼女の名はユナ。
現在の韓国皇室のプリンセスであり、僕が英会話を教える教え子のひとりだ。

今日はセント・バレンタインデー。
とはいえ。

僕が講師を務める午前中の職員向け英会話講座が終了し、休憩室で昼食をとっていると、女性の職員が入れ替わり立ち代わり僕のもとにやってきて、置いていったチョコレートの、この山。

確かに、プリンセスといえど、歴とした女子高生JKであるユナが、そこに突っ込みたくなるのはわかる。
……40を過ぎたやもめ男としては、喜ぶべきなのか?

かつてアメリカで、ドットコムバブルの波に乗ったエンジニア起業家としてチヤホヤされていた時代でさえ、これほどモテた記憶はなかった。

ましてや、今は病を得て帰国し、「ただの英語を教える人」として宮廷に仕えるだけの、冴えない立場。

それでも、デブのオタクよりはマシってことか……。
病の副産物とはいえ、自分でも別人かと思うほど、スリムになったからな。

とはいえ、本当のところ、ひとつひとつにどんな、そしてどれほどの意味合いが込められているのかは、まったくわからない。

それを知ろうとするのは、たいそう厳重に梱包されているこれらの中身までたどり着く事と同じくらい億劫な事に思えた。

正直、今の自分はそれどころではない。
病床から社会復帰のチャンスを経てスタートさせた新しい人生が、やっとのことで軌道に乗りかかってきたところなのだから。

それがつい、顔に出てしまったのだと思う。
いいや、その包みをじい、っと見るユナに対して若干の気まずさがあった事も否めない。

「あの、せんせ……」

” Please ask me in English? "

この部屋で質問をするときには英語で、というのが決まり事だった。
彼女の言葉を遮るようにして優しく注意を促すと、彼女は眉間に皺を寄せ、明らかに不愉快そうな顔をした。

「何でもないわ」

“ Yuna……"

“ Nothing "

ユナは僕をまっすぐ見てきっぱりとそう答えた。
そしていつも通りの定位置に腰掛けると、口元で両手を合わせ、黙ったまま上目遣いに僕を見上げて指示を待つ。

……非常に空気が重い。
……ものすごく息苦しい。

ユナが抱く僕に対する気持ちは知っている。

僕は、英会話教師として彼女と接するうちに、心の奥底に隠してあったパンドラの箱を、うっかり空けてしまった。

それからというもの、僕に対して、彼女は長い事そこにしまっていた様々な感情をむき出しにするようになった。

それをすべて受け止める事は到底出来ない僕を、こうして小出しにしては試し、出方をじっと待っているような気すらしてしまう。

僕といえば、いつものらりくらりとはぐらかしてばかりだ。

そうする以外、何ができる?
何もできやしない。

娘ほど年の離れた少女であり、正真正銘、我が国のプリンセスなのだ。
何かしようとしたら、それこそ国家の一大事になってしまう。

"OK. Can we start now ? "

結局、不毛な駆け引きをなかば強制的に中断し、二人してまるで何もなかったかのように普通に授業を始めるのだ。

それの繰り返し。

その日はいつもより会話も弾まず、早めに授業を切り上げて、僕はいそいそと逃げるようにその場を後にした。

胸が、痛む。

何かを言いたげな彼女の瞳に気がつかないフリをきめこんだ。
結局心の中を、後でその眼差しが占領する事はわかりきっているというのに。

頭を冷やすようにして30分ほどてくてくと歩き、明洞の街のメインストリートにさしかかると、さすがに今日はカップルの姿が目立つ。

40を過ぎた、病気でやつれたやもめ男の自分がなんだかとても場違いな気がして、人ひとりやっと通れるくらいの細い路地に身を隠すように入っていく。

なんとも邪魔臭い、両手に小分けにしてぶら下げたチョコレートの山せんりひんを見て、ふと思う。

僕は。

死ぬまでにあと一度くらい、本気で人を愛する事ができるのだろうか。

恋愛という、あの痺れながら堕ちていくような感覚に、もう一度心から身を委ねる日が来るのだろうか、と。

今日、これをくれた女たちの中には、見てくれが好みのタイプの女も、男好きのするボディをした女も、自然と会話が弾む感性の合いそうな女もまったくいないという訳ではなかった。

昔は御法度だった皇室での職場恋愛も、今はわりとオープンになっていると聞く。

前向きに検討してみてはどうだろう?
自分の身の丈にあった、自分にぴったりくる相手を探すのだ。

そうすれば、あのわがままなお姫様もついには諦めて……

「えっ!?」

その時、突然、視界が遮断された。
あの時一度だけ見たユナ姫の泣き顔が、脳裏に浮かんだその瞬間に。

それに気をとられ、駆け寄ってきた足音に気づく事ができなかった。

しかし、ちょっと待て。
僕の両目を背後から覆う、柔らかく、ひどく滑らかな手の平。
生活している事をまったくもって想像させない、絹のようにしっとりとした質感の、この手の持ち主は……

「ユナ――?」

そして次の瞬間、片方の手によって視界を遮断されたまま、口元に何かが触れた。

されるがままに口に入れるととふわり、と上品な甘さがひろがり、上顎でそっと押さえると、舌の上でとろりととける。

「美味しい?」
「ああ」
「もうひとつ、欲しい?」

視覚という機能が働いてないせいだろうか。
ユナの囁き声と、チョコの甘さの誘惑に勝てず、魔法にかかったようにぼうっとなって素直に口を半開きにすると、さっきと同じ丸い形状のものが入り口を通過した。

(アッ……)

次の瞬間、まったく別の質感が自分の唇に触れる。

温かく、固いようでいて、柔らかい。

その衝撃に呆然としていると、溶け出したチョコレートの甘さを絡めるように、彼女の舌が動き始めた。

感電したみたいに、息が止まる。
気がつけば、彼女の細いからだをぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
歓喜のうねりに抱かれて、心さえも溶け出しそうだ。

いつの間にかフリーになっていた瞼をそっと開ける。
血色のいい唇が視界に入り、それは小さくため息をついた。

「……甘い」
「そうだな」
「嫌いなのかと思った」
「何を?」
「チョコレート」
「いいや、大好物だよ」

ユナが、そうか、良かった、といいながらにっこりと笑う。
それを見ると、どういうわけか、酷く切ない気分になる。
それでいて、何とも言いがたい幸福感が全身を駆けずりまわるのだ。

摩訶不思議な感情が入り交じる。

「残りはあといくつ?」
「何が?」
「トリュフ」
「ああ、5個入りだからあと3個かな」

彼女が小さい箱から残っているうちのひとつを親指と人差し指でつまんで見せる。

僕はそれを指ごとパクリと口に含み、すぐさまもうひとつの甘いたべものに食らいついた。

吐息を交わしながら甘さを分け合うと、美味快感に今にもどうにかなりそうだ。

やってしまった。
ユナの捨て身の悪戯いたずらに、嵌ってしまった。

やばい。
これは癖になる。

……止められない。

堕ちていく。
甘さの闇に、痺れながら落下する。

……あと2回、か。

◇◇◇

全面窓の大きなガラス越しに黒塗りのハイヤーがウインカーを瞬かせながら目の前の通りに横付けするのが見えた。

ドアの隙間から、彼女自慢の美脚がチラリとのぞく。
それを見ただけで、僕には誰だかすぐわかる。

膝が少し見えるくらいの丈の、シンプルなプリンセスラインのブラックドレスは、これ以上ないという程に優雅な身のこなしを引き立たせる。
それはわずかな距離であっても、通行く人の視線を釘付けにする。

(なんせ、皇室じこみだからな)

そして、その美しい女性はこの店の扉を潜り、僕に向かってゆっくりと近づいてくる。

「先生」

結婚して、ここカルフォルニアに移り住んで、15年。
僕らは一年に一度、こうして夫婦水入らずで出かけ、バレンタインディナーを楽しむ。

子供たちは、もちろん家で留守番だ。

僕はあまりハイセンスな場所は得意ではないのだが、こういう機会にはセレブリティたちのファッションチェックも兼ねて、その時々の一番ホットな店で、こうしてわざわざ落ち合う約束をする。

そういったささやかな努力もあってからか、たったふたりで始めたオンライン専用のアパレルブランドも、今やバリ、NY、東京、ソウルにショップを構える程の盛況ぶり。

いや、当然のことながら、僕らは同じ門をくぐり、出かけるのだが……。

映画のヒロインのように男が待つ店に少し遅れて登場したい、という妻の希望を叶える、ささやかな演出だ。

「待った?」

それが決め台詞。

「今日はわたしから、プレゼントがあるの」

滑るようにさし出された小さな箱を開けて、僕は思わず歓声をあげた。

「ああ!」

それは、あのとき二人でとことん味わった、円形状の一口大のトリュフだ。

「こ、これ、どこで?」

僕はこれを、人知れずずっと探していた。
あの至福の味がどうしても忘れられなかったからだ。
そして未だに見つける事が出来ないでいた。

「あら、言ってなかったっけ。 これ、実は私の手作りなのよ」

盲点だった。

「なるほど、そうか。探しても売ってないわけだ……」
「え? 探してたの?」

いやだ、聞けば答えるのに、とユナが笑う。
そんなに気に入っていたならば、早く言ってよ、と。

あの日、チョコに釣られてプリンセスに堕ちた。
40過ぎた中年男にしては、悪くない転落だったと思う。
しかし、あの日の自分の行動を思い起こすと、行動全てがエロじじいそのもので、自分で自分が許せないのだ。

とてもじゃないけれど、妻に自分から聞けはしなかった。

「じゃ、遠慮なくいただきます」

間髪入れずに手を出そうとすると、ユナの手が僕のそれに重なった。

「まだよ」
「え」
「自信がないの。だからオマケを付けたいの」

お菓子なんて滅多に作った事ないもの、と彼女が言う。

「あのときだって、そうしたでしょう?」

あれは……。
あの大胆なくちづけは、悪戯ではなく、このトリュフのオマケだったのか。

「いいや、これ、相当美味いよ」

妻があの時のように、にっこりと笑う。

「だったら尚更、後で二人で……ね?」

おっと。
痺れながら落下する。

2月14日、バレンタインデー。

それは僕らが、蕩けるような初めてのキッスを交わした、記念すべき日でもある。

[おわり]

お、思いっきり季節外れですが、許して下さーい。

ここでの空白の期間を連載中です。


読んでいただいてありがとございました。



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