2024年7月3日 創作小説「私は魚でありません」
今日は雨が上がりました。
その分、ひどく湿度が高く、
気温がさほど上がっていないのかもしれませんが、ひどく蒸し暑く感じます。
夕方になっても、そして夜の帳が下りても、
地下鉄の駅から出てきても、
熱気は消えず、空気は澱んでいます。
ぬるいプールのようです。
水の入れ替えがされておらず、塩素消毒もされていない、不衛生な水の溜まり場。
常温かそれ以上に温められ、雑菌が繁殖しつつある場所。
呼吸をしても、酸素が入ってこないような気がします。
肺の中に入ってくるのは緩い、固まったような何かで、それが身体に酸素をもたらしてくれるような感じがしないのです。
べたつく肌は自分のものではないようで、
哺乳類より爬虫類や両生類、水性類であってもおかしくないのかも…などと思います。
この澱んだ空気は水で、自分は何かの水性類として、水中や水底を漂っているのだと考えてみます。
このぬらぬらとした湿気は水そのもので、
時折、僅かに吹く風は波、
空を見上げて浮かぶ雲は白波、月や星は水上の光です。
ここが水の中ならば、この息苦しさも大したことがないような気がしてきます。
湿気も、ぬるい水をかいて、進んでいる感覚だと思うと、気にならなくなってきました。
ここが水の中だとしたら、
水面まではひどく遠く、自力では浮かび上がれそうにはありません。
きっと、途中で息が切れてしまうのでしょう。
もしくは、何かの力で、地面に押し返されてしまうでしょう。
挑戦したことはないけれど、きっとそうなのだろうと何故か知っています。
かすかに尾鰭を動かしてみたものの、恥ずかしくなってやめました。わ
雲のような白波は何か光るものを隠しており、
とても美しいけれど怖いような気がします。
あの向こうには、違う世界があると聞くけれど、本当でしょうか。
暗がりで行き交う相手が、思ったよりも多く、当たらぬように、避けて泳ぎます。
幾人かは違う姿をしているのに、同じ群れのようで、何かを渡そうとしてきます。
穏やかに、でも力強く何かを訴えているようです。
でもその訴えを受け止めるよりも、
白波の向こう、ぼんやりとした光るものの世界に行けたら良いのにとか
もう少しだけでも、水面に近いところまで泳げれば良いのにとか
そう言うことを考える方が楽なのです。
その群れは、自分の群れではないような気がしました。
白い斑点が出てきている尾鰭、
欠けが目立つ鱗、
えらにできている埃のような何か、
そんなものを見られないようにと考えると、
渡されたものを手に取ることもできなかったのです。
ゆらゆらと水が揺れる中を出来るだけ身を縮めて、目立たないような泳ぎきり、
自分の小さな巣穴に戻ることだけを考えます。
水面へ向かってにょっきりと立っている柱の影に隠れるようにして泳ぎます。
あの巣穴も、この巣穴も、自分の巣穴よりは大きく、
そして、家族があるようなのが、急にひどく腹ただしくなってきました。
仕事へ出掛けて巣穴に戻ることを繰り返しているのだけなのに、
どうしてこんなにひどい有様になったのだろう、
どうして自分の巣穴はこれほど小さいのだろう、
そして何よりどうして一匹だけでいるのだろう、と思うのです。
道すがらも、巣穴に戻ってからも、
なけなしで手に入れた夜光貝のかけらを眺めていました。
夜光貝のかけらのはすべすべに磨かれていて、虹色に光ります。
その虹色は、白波の向こうの何かわからない光のようでもあり、いつまで眺めていても飽きが来ないのでした。
それどころか、虹色の光を眺めていると、
自分の尾鰭や鱗、そして巣穴の小ささや家族がないことは、
今日見かけた何かわからぬ群れや
タコやウツボのせいだと言うことがわかってくるのでした。
小さな夜光貝を何度も鰭で磨き、その中を覗き込みます。
「うばわれてしまったのだやつらからほんとうはてにはいるはずのものがみなものむこうのひかりやみなものむこうのせかいまでも」
夜光貝の光を見ていると、目がぐるぐるして、体が大きくなったような気がします。
身体のどこにも、かけがあるような、白い斑点があるような自分には思えなくなるのでした。
夜光貝の言うことが、きっと正しいのです。
夜光貝の言うような世界が来るまで、夜光貝を磨き、夜光貝がいうものたちを糾弾しなくてはなりません。
この水底は、あまりに水面に遠すぎます。
現実は、仕事の帰りに、
とぼとぼと帰路に向かっているだけです。
それだけです。
ここは地上で、私は魚でありません。
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