ハリーポッターという北極星 ~孤独な私を救った魔法~
人は孤独で弱い。
しかし、生きなければならない。
弱った時、救いの光を見出さなければならない。
皆さんにとってのその光はなんだろうか。
私はある物語だった。
私は自分の小学生時代を“暗黒の時代”と呼んでいる。
正直楽しい思い出は少ない。
幼稚園から仲良しだった子が小学3年生の頃に転校したことがきっかけである。
その子とは幼稚園から帰る時、途中にある公園で遊ぶことが日課になっており、お互いの家に遊びに行ったりお泊りしにいく仲であった。
同じ地元の公立小学校に進学し、クラスは離れていても休み時間はほぼその子と一緒に過ごた。
そして突如、その子が大学付属の小学校へ転校する日がやってくる。
親御さんの転勤とかではなく引越しはしないので、違う小学校に通うにしても放課後会えると考えると寂しさはなく、今までと変わらないだろうと思っていた。
しかしこの時、私は大きな落とし穴に気付いていなかった。
私はそれまで、その子と仲が良ければ良いと極端な考えをもっており、これからもずっと一緒だろうと思っていたので“その子以外の子と仲良くする”ということが想像できなかった。
放課後はその子と会えるにしても日中の大部分は小学校で過ごす。
『あれ?学校では誰と過ごせばいいんだろう。』
私はこの時に彼女の存在が大きかったことに気づいた。
そして小学生高学年にもなってくると、いわゆる“仲良しグループ”が構築されていった。
『このままだとボッチになってしまう。』
当時ボッチになることを避けたかった私は、どこかしらのグループに入らなければという危機感はあったので、手当たり次第話しかけてみた。
幸い、皆が優しかったので話しかければ話し返してくれた。
しかし、どこか上辺だけの会話だなと感じていた。
あの子との会話のような楽しさが見出せなかった。
それからというもの、徐々に休み時間中は教室ではなく図書館で一人で過ごす日が増えていった。
休み時間の教室から私一人いなくなっても、誰も気に留めやしないと思っていた。
孤独を感じていた。
毎日、早く下校の時間にならないかなと思いながら過ごしていた。
ただ、学校という呪縛から解放された後の家での時間は心地よく過ごせていた。
放課後の家での時間、私は毎週金曜日の夜が楽しみであった。
その楽しみとは、毎週欠かさずに観ていた金曜ロードショーである。
映画を家族と一緒になって観ることで学校での孤独感を癒していた。
でも、学校に行けば映画も家族もいない。孤独の私に元通りである。
そしてとある金曜日、ハリーポッターが放映された。
私は最初、ただのSF映画だと思いながら観るつもりだった。
しかし、観ていくうちにその重厚な世界へ着実に誘われた。
ハリーポッターの世界観は、完全に魔法界だけでの話ではなく、“マグル”である人間界も舞台にした話であり、話の観客に魔法はあるのかもしれないと、どこか現実味を持たせる。
そして、当時孤独を感じていた私はハリー、ロン、ハーマイオニーの三人の絆にひどく憧れた。
一緒に笑い、泣き、時にすれ違いはあっても絶対的な味方であるとそれぞれが信頼しあっているあの関係。
学校での上辺だけの関係ではなく、かつての転校してしまったあの子との間に在った、三人のような揺るぎない友情が私の求めていたものだと気づかされたのだ。
お陰様で、私は本気でホグワーツ魔法魔術学校は実在するものだと信じ、魔法界へ入ることで孤独でなくなると信じていた。
自分にも、もしかしたらフクロウ便が来てしまうかもしれないと期待しながら、家のポストを気にしてみたり、ほうきに向かって『飛べ!』と言ってみたりするなど、今となっては完全に厨二病の行動だなと思うことを親に咎められても行っていた。異常である。
だが、そのハリーポッターが私に罹らせたいきすぎた厨二病によって、私は救われることになる。
周りの子が友達と楽しそうに学校生活を送っている姿を見ても、もう孤独感を感じることはなかった。
『周りはマグル(魔力を持たない人間)。私には魔法界という楽しい世界が別にあるんだから。』
もちろん、魔力なんて微塵も持っていない。
しかし、この謎理論を信じ込むことによって、孤独感から当時の自分の尊厳を守り抜くことができたのだ。
その意味ではあの時、自ら自分に本物の魔法をかけていたのだろう。
私にとってハリーポッターという物語は、単に孤独から救い出してくれた魔法ではなく、いつまでもあの頃の私を救い出してくれた静寂だが力強く光り続けている北極星である。
私は今までも、そして今後もこの物語は見るたびに、当時の私を抱きしめたくなるとともに美化されていくのだろう。
