【短編小説】風の恐竜
風が吹くと、町の真ん中に現れた首の長い恐竜が、くすぐったそうに揺れるのが好き。まるで本当に生きているみたいに長い首を揺らすのは、暖かくなり始めた三月の風。花のような甘い香り。
アパートのニ階の窓からは、屋根をいくつか超えたところに大きなクレーンの頭が見える。数週間前にやってきた恐竜だ。
「閉めて」
後ろで彼が言う。
「風が気持ちいいのに」と抗議をすると、くしゃみをしながら「花粉が」と言うので慌てて閉めた。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫」
こう聞くと大丈夫しか言わないことを思い出す。窓の外へ目線を戻せばクレーンが、ぴたりとその場に止まっている。動かないクレーンはちっとも恐竜には見えない。
彼が鼻を啜る音。よく分からない本を読んでばかりいないで、一緒に外を見ようよ。本当は並んで散歩をしながら、風が運ぶ甘い香りの正体を突き止めたりなんてしたいけど、雨上がりの今日は特につらいのだろう。マスクをする彼には匂いも届かないかもしれない。
なんとなくクレーンを眺め続ける。時折風に吹かれる恐竜。もっと近づいたら、どんなふうに見えるだろう。恐竜も匂いを感じるだろうか。
ふと、コーヒーの匂いがする。いつの間にか二つのカップを持ってすぐ後ろにいた彼が言う。
「クレーンっていいよね。大きい恐竜がいたら、こんな感じなのかなって思う」
それが無性に嬉しかったのに、感情を正しく伝える言葉が見つからずわたしはただ、カップを受け取りながらえへへぇと笑った。花の匂いを探すようにゆらりゆらりと首をふる恐竜の向こう、どこかの家のベランダで、洗濯物が揺れている。
2026.4.1
「風が吹く」から始まる
