青いさんごしょう~第1回伴想医学講座 転の章~
線が引かれるということ
「あぁー……私の恋は〜……」
さっきまでの少し重たい空気を、
何事もなかったかのように押し流す声が、
部屋の向こうから聞こえてきた。
聖子は、いつも通りの明るさで現れた。
「……あ」
秀樹が思わず顔を上げる。
「なんか、急に景色変わった感じしない?」
「するわね」
由喜子さんは、もう何も言わずに受け入れている。
「自分の歌で入ってくるの、もうデフォルトだと思うことにしたから」
聖子は楽しそうに笑った。
「えー、だって元気出るでしょ?」
「出るわよ」
「動けるし」
「歌えるし」
「……まだね」
由喜子さんの一言に、一瞬だけ、間が落ちた。
その間を破るように、今度は少し違う調子の声が重なる。
「目と目で通じ合う……」
由喜子さんは、ぴたりと顔を上げた。
「……そこは『秋桜』でしょ」
百恵は、きょとんとする。
「え?」
「全然キャラ違うし、しかも工藤静香。紛らわしいわね」
秀樹が吹き出す。
「確かに!」
百恵は少し困ったように微笑んだ。
「でもさ、これも“まだ歌えてる”でしょ?」
「そうね」
由喜子さんは、ゆっくり頷く。
「でも、さっきまでの話を聞いてると……
その“まだ”が、いつまで続くかは分からない」
聖子は、首を傾げる。
「でもさ、動けてるなら、大丈夫じゃない?」
「歌えてるし」
「仕事も行けるし」
秀樹も同調する。
「そうそう。俺なんか、多少無理しても全然平気だったし」
そのとき、由喜子さんが初めて、少しだけ前に出た。
「……ねえ」
全員が、自然とそちらを見る。
「“大丈夫”って、誰が決めてる?」
「え?」
「動けてるから?」
「歌えてるから?」
「生活できてるから?」
百恵が、静かに言った。
「それって……線、引いてないわよね」
由喜子さんは、ゆっくりと頷く。
「そう。ここまでは、誰も線を引いてない」
百恵が、少し低い声で言う。
「でも、医療が動くときは……」
「必ず、線が引かれる」
由喜子さんは、言葉を継いだ。
「それが“診断”」
〈説明①〉
医療が本格的に動き出すのは、診断がついたときである。
診断とは、「まだ持ちこたえている状態」と
「破綻が起きている状態」を分ける線引きだ。
この線が引かれて、はじめて治療という選択肢が立ち上がる。
「じゃあさ」
秀樹が、少し不安そうに聞く。
「その線って、どこに引かれるの?」
「症状?」
「数値?」
「検査結果?」
由喜子さんは、すぐには答えなかった。
「全部、関係ある」
「でも、それだけじゃない」
聖子が、少し真面目な顔になる。
「じゃあ、私が元気そうでも……」
「線が引かれることはある?」
「あるわ」
由喜子さんは、はっきり言った。
「逆もある。つらそうでも、線が引かれないことも」
百恵が、静かに続ける。
「だから……医療って、思ってるより“冷静”なのね」
「冷たい、じゃなくて」
由喜子さんが訂正する。
「“転帰”を見ているの」
秀樹が眉をひそめる。
「転帰?」
「このまま行ったら、どこに向かうか」
「最終的に、命に関わるかどうか」
秀樹が、低く頷く。
「つまり……」
由喜子さんは、言葉を選びながら言った。
「医者の仕事って、“治す”ことじゃなくて」
「死という転帰に至らしめないために、
どこで線を引くかを判断することなのよ」
〈説明②〉
診断は、体の状態が「不可逆的な破綻」に向かっているかどうかを見極める行為である。
そのため、代償が続いているあいだ――まだ破綻に至っていない領域では、
医療的には「何も起きていない」扱いになる。
ここに、多くの人が気づきにくい盲点がある。
聖子は、少し考え込む。
「……じゃあ」
「その線が引かれないうちは、誰も何もしないの?」
由喜子さんは、首を横に振った。
「“医療”は、ね」
「でも」
一呼吸おいて、続ける。
「だからこそ、その手前の時間が、すごく大事になる」
百恵が、静かに頷いた。
「歌えてるうちに、気づけるかどうか」
「そう」
秀樹が、ぽつりと言う。
「……俺、線引かれるまで踊り続けるタイプだな」
由喜子さんは、微笑んだ。
「それに気づいたなら、もう半分は進んでるわ」
そのとき、誰かが小さく鼻歌を始めた。
「君が望むなら…全てをあげてもいい…」
由喜子さんは、思わず顔を上げる。
「……って、あなたジュリーじゃないの。紛らわしいわね」
(つづく・結へ)
