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【オピニオン】戦前と変わらない文化庁の宗教観ー思考停止ぶりが危険すぎるー

文化庁は本年9月6日から10月5日まで、世界平和統一家庭連合(旧統一教会、以下は家庭連合)の解散を見据えた「指定宗教法人の清算に係る指針(案)」についてパブリックコメントを実施した。

そして、その締切からわずか2週間後(10月20日)に指針を大臣決定した。その内容は指針案と同一だった。

この指針には、驚くべき内容が並んでいる。宗教法人を所管する文化庁が、「信教の自由とは何か」を根本的に理解しておらず、戦前の国家管理的な宗教観から一歩も進んでいないことが露呈している。

問題の根幹にあるのは、宗教法人法が信教の自由の理念を十分に反映していない点であるが、当の文化庁はそんな問題意識に至らなかったようだ。

本指針では、清算人に過大な権限が付与されており、憲法上の信教の自由(憲法20条)を侵害するおそれが極めて濃厚である。以下に、具体的な条項を引用しつつ問題点を検討したい。

1.清算法人の財産の管理・処分における問題

指針「5.清算法人の財産の管理・処分(1)」には次のような記述がある。

清算人は清算法人に帰属する全ての財産を管理・処分する権限を有するところ、財産の資産価値を維持し、公租公課等の支払義務を果たしつつ、清算に必要な範囲で財産を保有し、適切に管理し、必要に応じて適正な価格で処分・換価することが求められる。

家庭連合に帰属する財産の大部分は、東京地裁(鈴木謙也裁判長)が「不法行為」と認定した過去の事案とは無関係な、現役信者による自主的な献金である。

文化庁は、清算人がこれら献金を自由に管理・処分できるとする根拠を宗教法人法においている。しかし、「不法行為」と無関係な現役信者の献金が、本人たちの思いとはまったく別の目的で使用されることについて、良識的に考えれば違和感しかない。

2.信者の施設利用を「許可制」にする危険

次に「5.清算法人の財産の管理・処分(2)」にはこうある。

信者は施設の利用を当然には求めることはできないが、清算人の合理的な判断の下、信者らの宗教上の行為に礼拝施設等を用いる必要性の有無及び程度等も考慮の上、信者らに対して、清算事務に支障のない範囲で、その施設の利用を認めることもできる。

信者の献金によって維持されてきた施設で礼拝を行うことは、信仰実践そのものである。本来、そこに国家権力が介入する余地はない。ところが本指針では、清算人が「礼拝施設の利用を認めるか否か」を裁量的に決定できる仕組みを容認しており、信教の自由を清算人の恣意に従属させる構造を合法化している。

3.「清算事務が信教の自由より上位」という発想

さらに「2.指定宗教法人の清算手続に関する基本的な考え方(1),(4)」には次のような文言がある。

清算人は、(中略)清算事務に支障のない範囲で信教の自由に配慮しつつ、円滑かつ確実に清算が行われるよう、善良な管理者の注意をもって清算事務を遂行することが要請される。


清算人は、清算法人の財産の管理、処分にあたっては、清算事務に支障のない範囲で、(中略)現に存在する宗教団体の信者らの信教の自由に配慮をすることが望まれる。

繰り返しになるが、信教の自由は「国家が干渉してはならない不可侵の権利」であり、行政の都合によって制限される性質のものではない。

しかし、本指針には「清算事務に支障のない範囲で信教の自由に配慮する」とする発想が根本にあり、「信教の自由」が「清算事務の円滑な遂行」に従属している。この根拠も宗教法人法である。同法は、信教の自由が他の行政目的よりも上位に位置づけられるべきという憲法の原理に真っ向から反していると言わざるを得ないのではないか。

4.憲法学者の批判にさえ耳を塞ぐ文化庁

東京地裁が家庭連合に対する解散命令を出した際、憲法学者・小林節氏(慶應大学名誉教授)は、これを「憲法違反」と明確に批判した。

小林氏は「日本国の法廷で進行している旧統一教会解散命令の確定に向けた一連の法手続きは、次の違憲性を帯びている」として、次のように整理した。

信教の自由という優越的人権(憲法20条)を制約するには、事前に法定された「高度な正当理由」と「適正な手続き」が必要である。しかし、今回の法手続きはそれらに欠けている。

これは、憲法31条(法定適正手続きの保障)、32条(公正な裁判の保障)、82条(公開・対審の保障)に違反している。さらに、国際人権B規約18条1項(宗教の自由)および14条1項(公正な裁判を受ける権利)すなわち憲法98条2項(条約順守義務)にも違反している。

従って、この「一連の手続き」は違憲で、無効である(憲法81条[違憲審査権]、98条1項[最高法規])。

小林氏の論考は、国際的な宗教ニースサイト『BITTER WINTER』に「日本における宗教法人の解散:憲法上の問題5.結論」として、2025年7月26日付で掲載された。これは、パブリックコメントの募集が開始される1ヶ月以上前のことである。

それにもかかわらず、文化庁はこうした学術的批判に耳を傾ける姿勢をまったく示していない。

※小林氏の具体的な批判内容は末尾に【参考資料】で掲載

5.信教の自由への「二次被害」

仮に東京高裁が地裁の判断を追認すれば、家庭連合の法人解散手続が開始される。

現役信者は法人格の喪失という一次的な制約に加え、本指針によって「宗教活動が清算人の裁量に左右される」という二重の制約を受けることになる。これは、信教の自由に対する深刻な「二次被害」と言わざるを得ない。

6.「宗教の自由後進国」でいいのか?

9月上旬に登場した「とんでも指針案」は1ヶ月のパブリックコメント募集を経たのち、約2週間後には「とんでも指針」として確定した。

これは宗教行政の根幹を担う文科省(文化庁)自らが作成したものである。国家が信仰実践にまで介入しようとする姿勢は、戦前の国家神道的発想を彷彿とさせるものであることを、文科省は自覚すべきである。さらに、この指針は、日本が「宗教の自由後進国」であることを自ら宣言するような内容でもある。

本来は、「現行の宗教法人法は、憲法が保障する信教の自由の理念と矛盾していないか」という問題意識のもとで、建設的な議論を重ね、社会の理解と制度の成熟を図るべきである。これこそが、成熟した民主主義の姿であろう。

誤解を恐れずに言えば、文化庁の発想は近代以前の中世的行政、あるいは権威主義国家の発想と本質的に変わらないと言わざるを得ない。宗教への無理解が、再び国家による精神統制の道を開くことがあってはならない。

最後に、二人の識者の文章を引用したい。

ヨーロッパの近代以降の良識では、国家権力は個人の世界に権力の手を差し込むことを遠慮しなければならないことになっている。ただ、社会秩序を安定的に保つために、特別に、犯罪に対して、あるいは、その他のことで国家権力が個人の世界に入ることが許される場合がある。しかしそのときでも、つねに「なんらかの注意」が必要とされる。つまり国家権力が社会の視点で個人の世界に入ることの妥当性については、常に十分な吟味がなされなければならない。

八木雄二(哲学者)、『キリスト教を哲学する』


宗教の自由においては単に信仰を持つ自由にとどまらず、宗教者や宗教団体が外部からの強制をうけることなく自ら宗教を定義し、実践できる権利を持つことが重要である。特に、国家が宗教と非宗教の境界を独占的に定義し、自由な宗教生活を制限することがあってはならない。

アン・ヨンヒ(韓国宗教学会理事)、『世界平和研究』240号



【参考資料】
東京地裁(鈴木謙也裁判長)の家庭連合解散命令に対する小林節氏の批判内容は以下のとおり。

地球上の生物の中で宗教を持っているのは人類だけである。
古来、宗教は国家権力を超えた主体への帰依をその本質とするために、国家権力との対立を招くことが多く、その故に、信教の自由は「あらゆる人権の先駆け」になったと言われてきた。
当人の人格の本質と尊厳に関わる宗教活動は、「その故に犯罪を行わない限り公権力による介入は許されない」という憲法原則が、自由民主主義諸国では確立されている。
今回、不可解な安倍晋三元首相の暗殺事件をきっかけに高まった「反・統一教会」という世論に押されるように、岸田首相(当時)は同教会の解散命令を裁判所に請求し、東京地裁は本年3月25日に解散命令を決定した。教会は現在、東京高等裁判所に抗告中である。
それにしても、この過程で、国家による多くの違憲な決定が重ねられてきた。
まず、自由民主主義諸国で等しく確立されている憲法理論として、信教の自由はいわゆる「優越的人権」で、それを国家が規制せざるを得ない場合には、「重大な公益に対する侵害(要するに「犯罪」)を行ったという事実」があり、その害悪を除去するために「最も弾圧的でない手段」しか行使してはならない…という「厳格違憲審査」の原則がある。
この点で、旧統一教会は、無差別殺人を実行して解散を命じられたオウム真理教とは異なり犯罪は行っておらず、献金を巡るトラブルで、かつて32件の民事訴訟で敗訴して既に責任を取っている。それに加えて、プロの脱会指導業者の下で訴えてきた元信者の心の平和を考えて返金した事例まで合わせて、『法令に違反して著しく公共の福祉を害した』と認定されて解散を命じられてしまった。しかし、これは明らかに「過剰(overbroad)な規制」である。和解に応じて解決済みの事実についてまでさらに法的責任を取らされるとは、一体どういう理論的根拠があるのか?が示されていない。
宗教法人法81条1項には、「『法令』に違反して著しく公共の福祉を害した」場合には解散を命じることができる…と書かれているが、これでは、条文上、「違法」になる行為の概念が広すぎてまるで国家が作った「落とし穴」のようで、典型的な「過度に広範な規制」である。これは条文自体が違憲ないわゆる「法令違憲」である。
さらに、この条文の『法令』という文言を『刑法』と狭く読む解釈・運用もできるはずであるが、あえてそれをしなかった岸田内閣による「有権解釈の変更」とそれに従った司法府の決定は、明らかにいわゆる「適用違憲」である。
加えて、この宗教法人の解散を決定する手続きには、構造上の重大な欠陥がある。
宗教法人法81条7項は、この手続きは「非訟事件手続法」で行うと規定している。これは、要するに、宗教法人の解散命令は、離婚に伴う婚姻費用の分担の決定等のように、国家による「後見的監督」(つまり、後ろ盾になり『保護』する行政作用)により紛争を予防・解消する手続きが相応しい…という立法政策によるものである。
しかし、今回の宗教法人解散命令の決定過程は、その本質において「後見」などというものではない。つまり、各自の良心に従い、犯罪も行わずに信仰生活を続けてきた旧統一教会の会員にとっては、自分たちの人生の基盤そのものである教会が、今回、国家により「取り潰される」に等しい状況に追い込まれている。その結果、解散になれば、信徒たちは、社会的なレッテルを貼られ、教会の財産(礼拝堂や活動資金等)は国家が任命した清算人の管理下に入ることになる。つまり、信者たちの生活の土台が国家の管理下で解体される手続きが今、進行しているのである。
この関係は、非訟事件手続の本質である国家による「後見的監督」などではない。まさに、教会と信者にとっては、己の良心の故に国家から「疑われ」「追いつめられ」「生き方の変更までを強いられている」わけで、この状況は、「国家からいわば『襲われた』国民による国家を相手にした人権闘争」そのもので、法的紛争(典型的な『法律上の争訟』つまり「訴訟」)である。だから、これは「非訟事件」などではない。
そうであるならば、教会側としては、憲法32条が全ての人に保障している「公正な裁判を受ける権利」を正当に行使すべき時である。それはまず、32条の総則である31条が保障する「法定適正手続」が保障されたものでなければならない。つまり、予め法律で定められた「正当な理由」と「公正な手続」なしに人権は奪われない…という保障である。
さらに、その「公正な裁判」とは、憲法76条3項で独立性が保障された裁判官による、憲法82条が保障する『公開』法廷における『対審』のことである。
現に、今回の非公開手続きの具体的な弊害として、解散命令を求める国側(文科省)から旧統一教会の悪質性を立証する証拠として提出された複数の陳述書が捏造されたという抗議が、教会側弁護士から出ている。それは、非公開の法廷における反対尋問で明らかにされた事実であるが、そのような重大な事実も、非公開で主権者国民による監視が届かない密室内で、無視されたまま、国家による教団解体の手続きが進んでいる。
このような違憲な手続きによる国家権力の行使は、日本国憲法の下では、旧統一教会に限らず、「だれに対してであれ」許されてはならないはずである。

小林節、「日本における宗教法人の解散:憲法上の問題5.結論」BITTER WINTER



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