もうひとりの自分
昔の話をする。
小学生の頃のお風呂あがり。洗面台の方へと顔を向け、自分の顔が鏡に映ったそのときに、ふと「私は誰?」という思いが湧く日が、時々あった。洗面台には朝にも対面していたけれど、これが起こるのは決まってお風呂上がりだった。
毎度毎度、「私は誰?」という思いが浮かんだ瞬間、次の質問へと移行する。「では今“私は誰”と思ったのは誰?」。わからない。「え、私って何?何なんだろう」。無限ループ。たとえるならば、自分が他人のように思える、という感覚といえばわかりやすいかもしれない。私を動かし、私に感情を起こさせ、私を喋らせている「何者か」が、“私”の中に他にいるのではないか、というような気分になってくる。当時は、普段、学校に通って友達と遊んで家族と話して、というような、目の前にあらわれる生活を、自分のことを自分とも思わずやっている。けれど、一旦「私って何」のループにとらわれると、その得体の知れない、自分から一歩引いたような目線の存在が心地悪く、“自分”に関する感覚のすべてが不思議でしょうがなくなる。段々と、考えても考えても答えがわからないどころか「私って何?」という言葉が返ってくるだけの状況が、気持ち悪くなってくる。
結局気がついたらその“ゾーン”から抜けているのだけれど、怖いような、どこか現実に足がつかないような感じが残る。最後には、その感覚を振りきろうとするかのように洗面所を出て、家族のいる部屋に向かう、というのが毎回のパターン。
そして高校生のとき。倫理の授業で、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉が紹介された。「これだ」と衝撃を受けた。小学生の頃時々迷い込んでいたあの「私って何」ループの、答えのような感じがした。
小学生の頃といえばもうひとつ。当時繰り返し見た夢があった。
自宅の1階と2階をむすぶ階段の踊り場から飛び降りる、という夢。時刻は夜。飛び降りる前の私は、パジャマを着て踊り場に立ち、明かりのついた1階の床を見つめている。立ち幅跳びをするみたいに、膝を曲げて、腕を前後に揺り動かして、飛ぶための勢いをつける。そして前に向かってジャンプした瞬間、場面が切り替わる。2階にある、普段寝ている部屋に、私が上からふわっと降りてくるのだ。“お腹の中の赤ちゃん”みたいな姿勢で、背中を少し丸めて、背中から。落ちるというより、ゆっくりと、浮かぶように降りる。そして、身体が優しくベッドに着地した瞬間、現実の自分の目が覚める。またこの夢だ、と思った瞬間、再び眠りにつく。
普段の夢の中の視界は、子供の頃から「自分から見た景色」のものばかりだったと記憶しているけれど、繰り返し見たこの夢だけは、自分の姿を外から見ていた。
「私って何」も、飛ぶ夢も、いつしか起きなくなった。
昔は、今よりずっと、疑問の解決方法や解決手段がわからなくて、好きな世界への理解力も追いついていなかった。見える世界の狭さゆえに苦しかったこともたくさんある。けれど、今振り返ると、その何も知らない状態のときに浮かんだ感覚こそ、自分の根底にある大切なもののように思える。あの頃より「知らない」状態にはもうなれないことが、少しだけ寂しいような気もする。
今は、昔よりもたくさんのことを知っていて、もっとたくさんの選択肢が見えて、より自由に選択することができる。自分以外の人の考えや見方を昔よりも多く取り込んでいて、世界が広くなって、楽になった部分は多い。それでも先が行き止まりみたいに思えることや、知識が増えたがゆえに迷うこともたくさんある。
最近は、自分の操縦がもう少しうまくなったらいいな、と思いながら、乗りこなすための練習をしている。小学生の頃は、自分の中から出てきた、どこか当事者でないような視点にちょっと困っていたけれど、今こそ、そんな見方も必要なのかもしれない。
先日、心に悪く作用するような言葉がどっと流れ込んできて、頭の中に渦巻いていた。このままだと飲み込まれる、と気がつき、必死で追い出そうとした。追い出すための方法を取った結果、ひとまず別のことで頭をうめることができた。これまでなら追い出そうとせずそのまま渦に飲み込まれていたところだと思う。ちょっとだけ自分の操縦がうまくなったかも、と嬉しくなった。
