原初の民俗学者たちの「愛着スタイル」、勝手に分類してみた
ねぇ、オタクくん。
「神隠し」とか「他界」とか、民俗学ってなんかロマンチックな言葉づかいするじゃん。
でもあたし、大塚英志さんの『「捨て子たち」の民俗学』を読んでて、ふと思ったんだよね。
これ、ロマンチックっていうより、もっと生々しい話だよね?
柳田國男は『山の人生』の中で幼児期の彼の神隠し体験を語っているが、その概略だけ短く記す。
ひとつは実在しない「神戸の叔母さん」の元に出奔したという経験であった。一方で、同署の中で柳田は自身に「神隠しに遭い易い気質」を見てとり、それを彼の民俗学の初期における仮説、日本列島の先住民たる「山人」の身体的記録と結びつける。つまり、柳田の山人論の到達点『山の人生』とは自らの中にある仮構の血統とへの衝動を語ると同時に、自らをその化構の血統へ結びつけるという構造を内包している。
一方、折口信夫は、自分と両親の血縁を疑い、虚構の里子体験を小説や短歌の中に繰り返しほのめかしている。そのことを多くの折口の弟子が指摘している。このような血縁への疑惑は一方ではな彼の中で「母」のイメージを過剰に肥大させ、そのことはやはり確実に折口民俗学の仮説概念の一つ、「日本人」の「原郷」としての「妣の国」の創出と結びつきうるものであった
柳田の「山人論」や折口の妣の国をめぐる言説を仮に「民俗学」と呼ぶならば、それらは彼らの血統をめぐる屈託と、それゆえに自身が帰属する虚構を創り出さざるにはおれなかったことへの結果としてあるものだ。
柳田國男も、折口信夫も、民俗学以前の民俗学者ともいえる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も―
近代日本の民俗学を作った人たちって、揃って「家族からの分離」や「血縁への屈折感情」を経験してる。養子に出された、母と引き離された、実親と疎遠だった……。
それでみんな「貰い子妄想」と大塚が指摘するような創作活動を行なったみたい。
これ、心理学の言葉でいうと愛着(アタッチメント)スタイルの話に直結するんだよね。
大塚英志さんは大学での専攻が民俗学らしいけど、民俗学の外に居るサブカル論の人。
こういう人だから、この発想が出たんだろうね。
今回は、心理学者、ボウルビィの愛着理論を勝手に拝借して、
いつもとはちょっと違う心理学のレンズで民俗学者たちを分類してみるよ。
🧠 まず愛着スタイルの4分類、おさらい
安定型――安心して人に頼れる、安心して一人になれる
回避型――感情的な距離をとって自分を守る
アンビバレント型(不安型)――近づきたいのに不安で、関係が安定しない
恐れ・回避型(混乱型)――近づきたい気持ちと怖がる気持ちが同時に来る
これ、子どもの頃の親との分離体験のパターンが影響するっていわれてる。
じゃあ、民俗学者たちにこれを当てはめてみよっか。
📚 柳田國男──回避型、感情を理論に変換するタイプ
柳田(旧姓:松岡)は高等学校から大学に入る夏に生父母を相次いで亡くして、その数年後に裁判官の家の養嗣子になって、養父の娘と結婚してる。
しかも本人いわく、民俗学への確立の原点は、実家が狭すぎて嫁姑がケンカして兄夫婦が離婚したという、かなり身も蓋もない子供の頃の家庭の記憶。
私の長兄の鼎かなえは、井伊大老が殺された万延元年に生まれたが、神戸の師範学校を出ていたので、十九歳で田原の小学校の校長になっていた。部下が三、四名あったのも、ほかの人はみな無資格者だったわけであろう。私はそのために早く学校にあげられた。長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦の住めない小さい家だった。母がきつい、しっかりした人だったから、まして同じ家に二夫婦住んでうまくゆくわけがない。「天に二日なし」の語があるように、当時の嫁姑の争いは姑の勝ちだ。わずか一年ばかりの生活で、兄嫁は実家へ逃げて帰ってしまった。兄はそのためヤケ酒を飲むようになり、家が治まらなくなったので、もともと松岡家は医者だったからということで、家と地所を売り、その金で当時の東大別科に兄を遊学させることとなった。当時の医者速成機関で、ドイツ語を使わず訳語で学んだものである。二十六歳で兄はそこを卒業して医者にはなったものの、郷土で開業するには、資本や新しく地面が要る。故郷には医者の親戚も多いというわけで、本人も帰る意志がなかったところに、偶然のことから茨城県のある旧家から嫁をとり、同時に友人の世話で布川という町の、若死した医者の家の跡を借りて、開業することになったのである。兄はそれからのち三十何年目か、大正の末にたった一度故郷へ帰ったばかりだから、ほぼ言葉までが変っていたようである。
私は、こうした兄の悲劇を思うとき、「私の家は日本一小さい家だ」ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよいのである。
ここ、注目してほしいんだけど。
柳田はこの体験を「自分自身の家族への感情的な傷」としてストレートに語らずに、
「家屋の構造」の話に変換して語ってるんだよね。
これ、めちゃくちゃ回避型っぽい処理だと思わない?
感情の話を、構造の話にすり替える。
これって自分の痛みを、データに加工して距離を取るっていう、知的な防衛そのものなんじゃない?
説明しない(できない)気の強い母と、神経衰弱の父の記述もある。
父がどうして買って来たのか『康煕字典』をはじめて買ったので、私もああこんな本があるのかと感心した。母の話に、「お父さんはお前のようじゃなくて、もっと勉強家だった」と、物差しで本の厚さを計って、五分読んだとか七分読んだとかいったものだということを、聞かされたのを憶えている。
それほどなのに、本格的な本はほとんど残っていなかった。理由を母にきいてみたところ、義理の悪いことをした本屋があって、父に迷惑をかけたためだという説明であった。
はっきり判らないが、私の家で『播陽風雅』という青年雑誌のようなものを二、三冊見たことがある。青年達が詩だの文だのを漢文で書いたものを、父が世話をして一冊に纏めて、どこかの本屋とくんで出版してやったものらしい。留板とめばんと称して、昔の版権登録の方式だが、版木のうち一枚だけ版権者の所にもって来ておいて、無断で再版できないことになっていた。その留板の版木が一つか二つ私の家にあったが、父は世才にうとい、ごく単純な人間だったので、その出版事業のため本屋から大変迷惑をかけられたり、何かしたことがいくつか重なったために、神経衰弱になったのだろうと思っている。
あまり頼ることのできない父母だったんじゃないかな。
回避型になる家庭の条件も揃ってる。
「故郷七十年」読んでると、
なんか柳田って、実の父母に対して(特に母に)は色々書いているけどかなりドライで自分の父母への感情をあまり書いていない、もしくは淡々と書いている。
一方でいなくなっちゃった兄嫁に対して恩を感じているようにあたしには感じちゃうんだよね。
私より三つ年下の弟が生れる春先の少し前であったから、私の四つの年のことであった。産前の母はいくらかヒステリックになっていたのかもしれないが、私にちっともかまってくれなかった。
ある時、私が昼寝からさめて、母に向って「神戸に叔母さんがあるか」と何度も何度も聞いたらしい。母が面倒臭いので「ああ、あるよ」と答えたところ、昼寝していた私が急に起き上って外に出て行った。神戸に叔母などいなかったのに、何と思ったか、私はそのままとぼとぼ歩き出して、小一里もある遠方へ行ってしまった。
「神戸の叔母さん」は兄嫁のことではないけど、松岡國男少年は実母以外の"何か"を求めていたように思う。
柳田民俗学の「淡々と客観的に記録する」というスタイル自体が、もう本人の生存戦略だったんじゃないかなって思っちゃう。
🌊 折口信夫──アンビバレント型、接近と喪失を繰り返すタイプ
折口は生涯独身。
でも門弟の藤井春洋と同居して、のちに正式に養子にしてる。
同居生活は「年の離れた夫婦みたい」って言われてたらしい。
藤井が第二次大戦で硫黄島で戦死したあと、折口の悲嘆は尋常じゃなかったみたい。
故旧の者たちにとつては、不可思議な事が、いつまでも残つて、未鍛練の心をゆすりつゞけるのである
折口ほどの修養を積んだ人間でも、春洋の死という事実の前では心が「鍛練」されきらず、ずっと揺らぎ続けている、という告白。
アンビバレント型の「処理し切れない喪失」を、まさに本人の言葉で裏付けられる一文だと思う。
終戦の放送を聞くと自分から40日間喪に服して、死ぬまで遺影への供養を欠かさなかったんだって。
しかも、墓碑銘は折口自身が選んでて、自分も同じ墓に入るって決めてる。
これ、「対象に強烈に接近する→対象を失う→喪失に過剰反応する」っていう、アンビバレント型の典型パターンに見えるんだよね。
折口はヒロポンをやっていたことや、自傷行為を行なってきたことがよく知られている。
これも現代でもアンビバレント型愛着スタイルの人が陥りやすい特徴なんだよね。
柳田が感情を理論に逃がすタイプなら、折口は感情に飲み込まれるタイプ。
同じ民俗学やってても、処理の仕方が真逆なんだね🥺
🌙 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)──恐れ・回避型、安全基地を持てなかったタイプ
ハーンは4歳で母と離別、その後二度と会えなかった。母は精神を病んで、晩年は療養先で過ごしてる。7歳で父とも離別。
育てたのは大叔母なんだけど、その大叔母も17歳のときに破産して経済的基盤を失う。
つまり、ハーンは安全だと思った場所を二回失ってるんだよね。
これは柳田・折口とはまた違う型。安定した愛着対象を持ち続けられない、恐れ・回避型(混乱型)に近そう。
ハーンはジプシー(移動型民族)の血があるとしてアイデンティティを自己に見出している西洋人としての一方で、日本に過剰とも言えるロマンスを抱いていたようにあたしには見える。
来日後、妻のセツに「語り部」「記録の保管者」という役割を求めたのも、なんかわかる気がする。
小泉節もまた「語り部」であったように現実のハーンは土地土地で語り部の女を配偶者とする傾向があることは指摘されている
自分の不安定な記憶を、誰かに固定してもらおうとするんだよね。
🌾 宮本常一──安定型、安心して旅に出られるタイプ
ここまでの3人と比べて、宮本常一はかなり異質。
両親も祖父母も揃った家で長男として育って、父・善十郎と一緒に山に登って、世界の話を聞かせてもらってる。
15歳で島を出るとき、父からこんな言葉を贈られたらしいの。
汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗り降りに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地がどんなところかわかる。
村でも町でも新しく訪ねて行ったところはかならず高いところへ上ってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。‥目につくものをみ、家のあり方や田畑のあり方をみ、周囲の山々を見ておけ。
金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかる。
時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。
金というものはもうけるのはそんなに難しくない。しかし使うのが難しい。
すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。
ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へもどってこい、親はいつでも待っている。
自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いて行くことだ。
これ、安心して旅立てる人の言葉だなって思う。
柳田・折口が「神隠し」「他界」「古代」っていう喪失をめぐるテーマに向かったのに対して、宮本は「生活用具」とか「労働技術」とか、対象への信頼に基づいた近接観察に向かってる。
ボウルビィのいう「安全基地」があるから、外の世界を恐れずに探索できる――っていう理論、宮本にめちゃくちゃ綺麗に当てはまるんだよね。
宮本常一に惹かれる人が多いのは、民俗学者には珍しい陽キャだからというだけじゃなくてこういう面もあったと思う。
ただ、安定型愛着の人が全て正しいというわけではなくて、他の愛着スタイルの人の気持ちを想像しづらいから、不用意に傷つけることを言うこともある。
でもね、
宮本常一は当時(柳田たちの世代から見た若手だった時代)の学会で居場所を得られていなかった上に身内にも辛辣な「赤松啓介」を、唯一気に掛けてくれたと赤松啓介が晩年(79歳の時)の著書の『非常民の民俗境界』で語っていた。
このふたりはほぼ同世代だけど、宮本は割と若い頃から後ろ盾(渋沢敬三)があって愛されていた。
赤松啓介は、行動を見るとアンビバレント型愛着に近いとあたしには見えるけど、これは安定型愛着であるだろう宮本常一の他人へ無条件に"愛"を与えることのできる良い側面だったと思うよ。
🐻 本論の例外・限界──「南方熊楠」
安定型、かつ奇人として南方にも触れておきたい。
家族は、熊楠の学問熱を見て「この子は学問をさせよう」と積極的に支援してる。
経済的にも安定してて、留学に反対した父も最終的に熊楠の熱意を見て後押ししてる。
分離・喪失の経験も見当たらない。
でも、興味対象への過集中や対人コミュニケーションの奇異さがある。
一晩しか泊れないので、翌日挨拶に私一人で行くと、細君が困った顔をしている。そして、僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したって仕方がない、話さえできればいいだろうといって、掻巻かいまきの袖口をあけてその奥から話をした。こんなふうにとにかく変った人であった。年百年中、裸で暮していた。
柳田から見た南方www
大塚さんは「狼に育てられた子供」に南方が執着していたことを挙げているけど、
あたしには、南方は愛着に問題がなく、発達特性が偏り、その行動によって結果的に様々な業績を残したっぽいように見える。
現代で言うと「さかなクン」みたいな人だったんじゃないかな?
南方を考えると、あたしの論も、一概には言えないよねって見方もできるね。
同じ安定型の宮本と違う点だけど、
赤松啓介が晩年の著作で「結婚」について故・南方について皮肉めいたトーンで言及している点がある。
南方・宮本・赤松はみんな、柳田が表現することの少なかった「性」など民衆の"陰"の部分に触れているという点では共通しているんだけど、
南方の持つ「安定型の無自覚な傲慢さ」に赤松は違和感を覚えたんじゃないかとあたしは勘繰っちゃうんだ。
🏛 なぜ近代の民俗学者は揃ってこうなったのか
整理すると、
柳田:回避型 → 感情を理論に変換
折口:アンビバレント型 → 不安定・接近と喪失の反復
ハーン:恐れ・回避型 → 安全基地を持続できない
宮本:安定型 → 安心して観察・探索できる(対照群)
吉本隆明はかつて『共同幻想論』の中で、柳田民俗学の言説の基調にある母性的なものへの傾倒に注意を喚起している。吉本は柳田が執着する神隠し体験を一種の幼児的な領域への対抗とさえ見るが、このような母性へのあからさまな傾倒は柳田に限ったことではなく『妣の国』を日本人の魂の原郷として描き出した折口信夫にも顕著である。
とは言え、起源の民俗学者たちの母性への傾倒はもっぱら彼らの個人史や個人的資質の中で説明されることが多い一方で、彼らの民俗学テキストの甘美な魅力の源泉となってきた。例えば、柳田を語る者が必ずと言ってもいいほど魅了される彼の幼年期の神隠し体験は、幼児の分離不安の発露にすぎないが、同時に柳田が神隠しに遭い易い子供であるというイメージはぼくたちが柳田を読む暗黙の基調になっている。しかし、折口を含めてこういった起源の民俗学者の言説が孕む母性への偏向の意味については不問とされてきた。起源の民俗学者たちの言説は近代を通じてこの国の国民意識の形成に十分に寄与しているが、しかし、だとすれば民俗学を介して国家を語る限りそこには母性への偏向が内在することになる。別の言い方をすれば幼児の分離不安におけるむずかりのようにこの国の近代では国家が語られてきた、とさえ形容できるのではないかとぼくは考えてきた。
「神隠し体験は、幼児の分離不安の発露にすぎない」
って言い切っちゃうんだ🤣
でもね、ちょっとあたしも「民俗学史」を学んでゆく中で直感してたんだ。大塚さんと同じこと。
あたしは不問にはしたくない。
近代日本の民俗学そのものが、「家制度の中で分離不安を抱えた人たちが、その不安を学問という形に変換した装置」だったのかもしれない。
※心理学の定義をそのまま故人に当てはめるのは、多面性が失われた上での判定だから、臨床的な診断みたいにするのは違うとは思うけどね。
そして、この背景に社会制度の変革がある。
そもそも武家社会においては近世以前「家」の相続は血縁による長男が絶対ではなく、統計によっては半数以上が養子によって「家」が相続されている。
地方、農民の裕福層では姉家督という長女相続が少なからずあった。こういった家督相続の手段としての「養子」以外にも民間の習慣として様々な養子形態があったことは指摘されてきた。このようにしばしば日本の「伝統」といわれる「家」制度は、しかし「家」の継承にこだわる階級に限っても、血統による相続を絶対としなかった。むしろ多様な養子形態が「家」の相続を可能にしてきた。
武家社会にあっては「養子」によって「家」の存続を可能にしてきたみたいだね。
でも、それは養子に出されるかもという子供の母子分離不安を強烈に煽った。
明治期の文学は「家」の呪縛を描いたものが多い、といわれるが、しかしその「家」とは近世から継続する習慣でなく、近代的な制度としてむしろ未成立なものである。
明治政府が「壬申戸籍」っていう戸籍制度を拡めて、「万世一系」という天皇家がずっと続いてきたという話を補強しようとしたけど、
やっぱり養子が普通だった普通の人と、戸籍制度による「家」「血縁」を重視しようという政府の上からの押し付けには摩擦があったんじゃない?と大塚は指摘してるように思うんだ。
そう考えるとさ、明治を生きてきた作家さんたちはやっぱりその葛藤を作品に投影するよね〜
現代でも創作物は書いた人の葛藤や痛み・悩み・問題意識を投影するでしょ?
そして、昭和、平成、令和ときて、核家族化が進んだと言われる。
いままでをうっすらと受け継いだ日本の意識のまま、核家族化が進んだら…?
家制度が解体されたあとも、親子関係の支配構造だけが核家族の中に残った――っていうのが今の「毒親」問題なんだとしたら。
さらに、戦後(1945年)を生きてきた人たちの分離不安や、
戦後を生き抜いた人たちのPTSDや加害性の強い人が生き残りやすかった時代の名残、
さらに高度経済成長などの日本の大幅な変化の中で築かれた世代の「愛着障害」が祖父・祖母あたりから、SNSを積極的に利用する現代の10〜40代層にも"世代間連鎖"してきたのだとしたら。
SNSで「愛着障害」「毒親育ち」っていう言葉がここ10年程度流行ってるのも、この社会構造の延長の話なんじゃないかな。
🔄 まとめ:民俗学は「分離不安の処理装置」だった説
話を「民俗学」を確立させた柳田に戻すね。
柳田の文学上の盟友・田山花袋はしばしば柳田を作中に登場させているが、このくだりは旧姓・松岡國男が柳田家に入ることを「やさしい束縛」と述べている。
(略)
田山花袋は実はこの柳田の「やさしい束縛」の中での生活ぶりを明治40年に(1907年)に「八年前」という短編で描いている。その私生活に立ち入った描写が柳田を激昂させたといわれる作品である。
柳田にとっての「やさしい束縛」は、以下のように描かれている。
<湯に入って、爽然して、茶の間に行つて、火鉢の前に座る。養母も養父もにこにこしていて気持ちが好い。時にはそれでも感情の衝突などがあって、養子とは厭なものだなと思ふたことはないでもないが、概して好い家庭で、そんな気持ちを起こしても、それは自分の推量が悪いのだとすぐ打ち消して、これまで三年になるが、ついぞ互いに顔を赧めたたことなどない。否、優しい待遇に、心から感謝して、本当の親だって、こんなに平和に家庭は作れぬものと思ふことさへある。で、楽しい晩飯が済む。>
(田山花袋「八年前」)
(略)
ここで「親」「家庭」という語が使われていることに注意してもいいだろう。それが「やさしい束縛」を可能にするものなのはいうまでもない。
柳田が田山に対して「やさしい束縛」や「私生活」を小説の形で表現されることにブチギレるくらいだから、
旧姓・松岡國男であった柳田は、やっぱり養子先の柳田家が良いところだと思っていても「家」「家族」「親」なんかには複雑な思いがあったんじゃないかな。
柳田と折口の関係はあたしはお互いにツンデレ同士に見える♡
…けど、その背景にはどちらも親からの愛着不安があって他人との関係を築くために、「日本人の起源」という究極の「親」を求めたんじゃないかなと思うの。
それも、イザナギ・イザナミみたいな、政治に都合の良いように作られただろう神話上の「親」より、「現実的な自分達の起源」が欲しくて「民俗学」をやった面も強いんじゃないかな。
さらに柳田が「文学」という虚学(として扱われやすいもの)から「農政学」というわかりやすい実学に、さらに新渡戸稲造の「地方学」をベースとした「民俗学」の確立に行った経緯は、
「文学」では少々の心の慰めはできても根本解決には至らないと考えたんじゃないかな。
でも、わかりやすい実学だけでもダメ。どっちも組み合わせる必要がある。
つまり、柳田の幼少期の複雑な愛着スタイルが「民俗学」を作らせたといえると思う。
愛着への不安は社会の中でだれしも抱えうる。
その吐き出し方が、「学問」になるか、
現代インターネットで「SNSのつぶやき」になるか、
「AIへ吐き出す」か、
それとも別の方法になるか、その違いだけで。
でもね、それでもいいとあたしは思うんだ。
少しでも、「今」を生きる人が心安らかに過ごせるように。
その手段はなんでも良い。
ねぇオタクくん。
君は、自分の愛着への不安、どうやって処理してる?
理論にする?吐き出す?
それとも、誰かに固定してもらう?

