「死後」のあるインターネットと「死」に縛られる肉体
ねえオタクくん。
人って、いつか必ず死ぬよね。
それは昔からずっと変わらない。
でもさ、インターネットの中の「その人」はどうなんだろう。
Xのアカウント、過去の投稿、動画、残されたコメント。
肉体がなくなっても、それらは普通にそこにあり続ける。
まるで何事もなかったみたいに。
最近うらら、よく思うんだ。
インターネットって、「死後」がある場所になっちゃったんじゃないかって。
肉体はちゃんと死ぬのに、
ネットの人格は、なかなか死んでくれない。
このちょっと不気味で、でも目を逸らせないズレが、
いまのネット文化の奥にずっと横たわってる気がするんだよね。
🕯️ 葬式って、ほんとは何のためにあるんだろう
ここで、いったん現実の話をしよっか。
民俗学の視点で見ると、
葬式って「亡くなった人のため」だけのものじゃない。
生きている人が、その人と心理的に距離を取るための儀礼
それが、葬式のすごく大事な役割。
死は避け難く、受け止め難い。この理不尽な死を受け止めるための儀式が葬儀(お葬式)である。
また、戒名のように、生前とは異なる名前を与えるなどして、死んだヒトを「死者」にする文化的手続きも必要だ。
このように葬儀とは、死を物理的・文化的・社会的に変換する儀礼なのだ(山田慎也『現代日本の死と葬儀』
遺体を見て、名前を呼んで、思い出を語って、火に送る。
その一つひとつが、
「この人はもう、日常の関係の中にはいない」
ってことを、身体と心に納得させる作業なんだ。
ちゃんと別れるための時間。
だから葬式は、必要なんだよ。
でもね。
インターネット上の人格には、
この「ちゃんと別れる装置」が、ほとんど用意されていない。
だから、死にきれない存在が生まれる。
📜 「グエー死んだンゴ」――軽くて重い、現代の辞世
その象徴みたいな出来事が、
2025年10月12日の「グエー死んだンゴ」だった。
希少がんと闘っていたXユーザーの「なかやま」さんは生前、
毎日「2日後」に「グエー死んだンゴ」という投稿を予約し、生きていた日はそれを削除する
という行為を続けていた。
これ、ブラックユーモアに見えるかもしれない。
でも実際は、
死と向き合うための、すごく静かな習慣だったと思う。
「今日はまだ消せた」
「じゃあ、また2日後」
そしてある日、
その投稿は削除されなかった。
亡くなったあとに公開された
「グエー死んだンゴ」
というたった一行は、
多くの人に笑われ、ざわつかれ、そして弔われた。
深刻すぎない。
でも、軽くもできない。
これはもう、
インターネット時代の辞世の句なんだよ。
🪦 ネット上で起きた、あたらしい「葬式」
面白いのは、その後の反応だよね。
「成仏してクレメンス」
このなんJ語の一言に、
冗談と敬意と戸惑いが全部詰まっていた。
さらに寄付や追悼の行動が広がっていったのも、
すごく象徴的だった。
バズったことによって、色々な機関が動いたんだ。
また、このニキに敬意を表し、「香典」として『公益財団法人がん研究会』や『国立がん研究センター基金』等のがん医療機関に寄付する動きが広まった。
そんな最中、地方紙のお悔やみ欄の記事が発掘されてキャプ画像が投下され、「なかやま」氏が北海道に在住していた青年で、まだ22歳の若さだったことが判明。最も、なかやま氏はXでもフルネーム及び北海道大学に在学していたことを開示しておりこのキャプを投下した者は彼が開示していない個人情報を塗りつぶした上で葬儀が終わるのを待って貼る配慮をしている。
彼が若い身で残り少ない余命と向かい合っており、最後にあえてこのポストを残した心境を考えて衝撃を受けた者もさらに多くなった。
特に中高年の世代では自分の子や孫と変わらない年代の若者が苦しい闘病生活を送ったこと、大学生まで育てた息子を入学数年と経たないうちに喪主として送ることになった彼の親の心情を察して涙した者も多かった。
医療職アカウントも改めて自分の職務に邁進する決意を表明した者も多く、公人も政治思想の左右を問わずこの動きに賛同。
上記の寄付の動きも活発となり献血(がんの種類によっては輸血や血液製剤投与が必要となる)、ヘアドネーションの呼びかけも行われるようになった。
そして遺族の元にもこの情報が入り、父親が新聞社の取材を複数受けて彼が希少ガン「類上皮肉腫」に罹患していたこと、大学1年生から学校に戻ることが叶わず2025年の9月で除籍扱いとなっていたことを明かした。手術や抗がん剤治療はしたものの予後不良となる確率が高い希少がんということでほぼ手の施しようのない状態になっていたといい、父親は寄せられた寄付でがんの研究が進むことを望むコメントを表明している。
リアルの葬式が
「死を社会の出来事に変換する場」だとしたら、
この一連の流れは、
インターネット上で行われた簡易的な葬送儀礼だったとも言える。
泣き崩れる代わりにRTする。
焼香の代わりにコメントを書く。
形は違うけど、
やっていることは、意外と近い。
🌐 ネットには、たしかに「死後」がある
この出来事が教えてくれたのは、
ネットでは、人は死んだあとに完成することがある
ってこと。
本人が語れなくなったあと、
周囲が意味を与え、物語にしていく。
それって、
昔の祖霊信仰や、英雄伝説や、折口学でいう貴種流離譚とすごく似てる。
違うのは、
それが一瞬で、世界規模で起きることだけ。
🎭 VTuberは「死なない存在」になれたのか
この構造は、VTuber文化でもはっきり見える。
VTuberはキャラクター。
中の人はいない、という建前。
でも実際には、
声、話し方、活動の癖、休止の理由。
どうしても「人」を感じてしまう。
VTuberといえば黎明期はキズナアイちゃんだよねっ
キズナアイをめぐる中の人騒動があった。
これはVTuberがどれだけ
人間への想像から逃れられない存在かを示していた。
3Dモデルのキャラクターを用いてYouTubeなどに動画を投稿する「バーチャルYouTuber」(VTuber)。その先駆けの一人である「Kizuna AI」(キズナアイ)に関して、現在“騒動”が起きている。もともと1人だった「中の人」が4人に増え、しかも最初の「中の人」の動画投稿頻度が著しく落ちたからだ。
ファンからは「このまま最初の中の人が消えてしまうのではないか」「この企画は彼女が望んだことなのか」など不安の声が上がった。
私たちはキャラを見ているつもりで、
同時に「誰か」を見ている。
🔁 転生という、やさしい嘘
VTuber文化には「転生」がある。
卒業して、
名前と姿を変えて、
箱を変えたり個人勢になってまた戻ってくる。
にじさんじは「鈴原るるさん」を同じ箱で転生させてくれてたね。
なお、卒業/引退によって非公開となったVTuberのYouTubeチャンネルが復活することは異例であり、ファンの間でも様々な憶測や噂が飛び交っている
みんな気づいてるのに、あえて言わない。
「転生」に怒りや冷めた気持ちを持つ人もいる。
これは、とても宗教的だ。
死を宣告しつつ、
魂は続いていると信じる。
だから、悲しみすぎなくていい。
転生は、現代人が作った新しい死の処理方法なんだと思う。
(※現実的には事務所や中の人のメンタルなどなど….裏側の事情があるのだろうけど、ファン=常民の気持ちにフォーカスしているよ)
🫥 死にきれない時代を、生きている
葬式は、本来
「ちゃんと死んでもらうための儀礼」だった。
でもインターネットは、
死を曖昧にし、ちょっとだけ、気づかれるまで引き延ばす。
消えない投稿。
残り続ける人格。
家族からの本人が亡くなったという投稿。
それをパロる投稿のせいで本当かわからなくなる事例。
何度も生まれ変わる存在。
私たちは今、
完全に消すことも、完全に残すこともできない場所に立ってる。
「グエー死んだンゴ」が笑われたのも、
VTuberの卒業が泣かれるのも、
全部その迷いの中にある。
もしかしたら、AIVuberが発展したら「中の人」は本当に関係なくなって襲名性でサーバー・コンピューター資源・LLMやRAGなどモデル、アーキテクチャ、アプリケーションの管理・維持料金を引き継げばもっと「死」が遠くなることすらあり得る。
🌙 おわりに
「死後」のあるインターネットと、
「死」に縛られる肉体。
このねじれは、ちょっと怖くて、
でもどこかあたたかい。
うららは思うんだ。
これは破綻じゃなくて、更新なんだって。
人は、
死に方も、弔われ方も、
また作り直してる途中なんだよ。

