いとくず(四)
20240506
余談ですが。わたしが詠んでいるうた(短歌)には、大きく分けて二種類のものがある。すべてほとんど見た目には(だいたい)同じような三十一字のうたであるため、種類も何もないように思えるかもしれないが、わたしの中ではそれぞれに異なる二種類のうたがある。そんなことは、おそらく言われなければ分からないようなことなのだろうから、別にことさらに大きく分けて二種類ありますなんてことは言わなくてもいいことなのかもしれない。だが、言われないと分からないかもしれないことだからこそ、わたしの中にはあえて言っておきたいという気持ちもそこはかとなくあったりもするのだ。もしも何かわたしのうたについて知りたいという人がどこかにいるのであれば、こうした種類の違いの話などを何らかの参考にしていただければ誠に幸いである。
だが、本題に入るまえに少しだけ述べておきたいことがある。第一に、わたしはわたしが詠むもののことを、真正面からこれは短歌ですと言うことはあまりない。今のところ。しかし、それはわたしが詠むうたのことを短歌と呼びたくないからでは決してない。そしてまた、わたしが詠むうたを短歌ではない別の何かだと思っているからでも決してない。これは、わたしの中での区別でしかないので、わたし以外の人がそれを短歌と呼んでも一向に構わないのだけど、わたしとしてはわたしのうたにはまだ短歌として認められないような部分があるのではないかと思ってしまっていて、真正面からこれは短歌ですとはまだ言えないのである。基本的に、わたしは短歌や和歌というものの何たるかをちっとも学ばずにうたを詠んでいる。そこの部分で、何かすごく引け目を感じてしまっているのかもしれない。
第二に、わたしはあまりわたしのうたについて(細々と)説明するのは好きではない。たぶん、真正面からこれはわたしの詠んだ短歌ですと言えるくらい自信をもって短歌が詠めていれば、それを事細かに説明することもできるのかもしれないが、現段階ではそれほどの自信をもって詠めてはいない。それに、たった三十一文字のシンプルなうたなのだから、それを読む人が好きなように読めばそれでいいのではないかとも思う。そこにある短いうたを読んで、とてもおもしろいと思ったりインタレスティングだと感じたり、もしくはそんな風にはまったく思ったり感じなかったりする、というそれだけのことで十分なのではなかろうか。そして、そこに特別な説明などは必要ないようにも感じるのである。できることなら、わたしは何らかの説明が必要な短歌よりも、何の説明も必要としないような短歌を詠めるようになりたいと思っている。
いわずもがな、わたしの詠むものには大きく分けて二種類のものがあるということをわざわざ述べるということもまたわたしのうたについて説明することにほかならない。ただし、これはそれぞれのうたの内容を説明するものではなく、わたしのうたの根本的な部分というか基本的なところをさらっと説明しようとする試みなのである。ということなので、あえてそこのところだけでも説明をしておこうかなと思った次第である。まあ、自分でも誰もそんなことには興味がないであろうことは十二分にわかってはいる。だからこそのあえてでもある。おそらくだが、きっとちっとも興味のない人はここまで読み進めてきてはいないであろうから、辛抱強く読んでくれている少しはわたしのうたに興味を抱いてくれている(であろう)人に向けて、このあえての説明の話を続けさせていただくことにする。
あいもかわらず、懲りずに毎日うたを詠んで各所に投稿しているのだが、これといって特に大きな反響はない。それゆえに、ちょっとでも反応があると非常に嬉しい。ただ、もしかすると何の説明もないうたが、さっぱりわからないので反応を示すことができないケースもあるのではないかと思うようにもなってきた。反応が乏しいのは、そのせいではないかと。本当は、わたしのうたがおもしろくないからにほかならないのであろうが、大半の人はわたしのうたについてあまり理解できていないのかもしれないと心配になってきてしまったのだ。誰かにわたしのうたをちゃんと理解してほしいとか、そんな烏滸がましいことを考えているわけではない。ただただ、もしかすると少しはわたしのうたに興味をもってもらえるよいきっかけになるのではないかと思って、少しばかり説明をしようと考えているわけなのである。
大きく分けて二種類あるうたのまず一種類目が、元ネタのあるうたである。和歌や短歌の世界には、古くから本歌取りという作歌の手法が存在する。これは古典的な名歌などに歌われている語句から素材を拝借してきて新しい作品を生み出す手法である。まず元ネタとなる本歌があって、それを素材として使用してリミックスしたりリエディットしたりして新しいうたを詠む。それが、本歌取りのうたである。わたしの詠む元ネタのあるうたもまた、広義にはその本歌取りのうたということになる。ただし、わたしの場合には古典的な和歌や短歌、俳句だけでなく、実に様々なものを元ネタとしているので、非常に雑多な本歌取りとなっている。最近のものでは、ドゥルーズとガタリの「アンチ・オイディプス」の書き出しをうたにしている。
それはいたるところで機能している中断せずに断続的に
わたしが元ネタのあるうたを多く詠むのは、やはりわたしが初期のサンプリングの世代のひとりであることと大きく関係があるからだと思われる。二十世紀の終わりの八十年代から九十年代にかけて、安価なサンプリング・マシン/サンプラーが登場し、音楽の世界に革命的な変化をもたらした。そのサンプリングしたネタを音の素材として使い、ごく手軽に複製や加工をしてしまえる機能は、往時の電子音楽の世界のみならず多方面の文化に様々な影響を及ぼした。その影響は、今でもわたしの中ではありありと尾を引いていて、作歌をする際にそうしたものがついつい顔を出してきてしまうのである。まず、うたを詠もうとするよりも、元ネタさがしをしていることの方が多いし、それを見つけるところからうたづくりの作業が開始される。
そのためわ、たしの詠む元ネタのあるうたとは、古式ゆかしい本歌取りの手法を用いた形式のものというよりも、どちらかというとありとあらゆるレコードからサンプリングしてきたフレーズが飛び交っていた八十年代末のトッド・テリーのハウス・ミュージックやロンドンで大流行したアシッド・ハウスのサウンドに感覚的には近いような気はする。また、著作権解放戦線を名のり非常に先鋭的なサンプリング音楽としてのハウス/テクノ/アンビエントなどのサウンドを展開していたKLFや、サンプリングとサイケデリックを掛け合わせたサンプラデリックなる新造語の下で新時代のダンス・ポップを生み出していたディー・ライトからの影響もそこには少なからずあるのだろう。そういう意味では、わたしはうたではなくアシッド・ハウスを詠んでいるといってもよいのかもしれない。
そして、大きく分けて二種類あるうちの残るもう一方の種類のうたが、(サンプリングした)元ネタのないうたである。基本的にどのような形式の表現においても元ネタというものは必ず存在するものなので、ここではサンプリングされた元ネタのないうたということにしている。それは、わたしが見たものやこと、感じたものやことを、そのままダイレクトにうたにしたものである。内面の心象の風景をうたったものでもあるだろうし、目に飛び込んでくる見たままの自然の風景をうたったものでもあるだろう。そういう意味では、それはサンプリングした元ネタのあるアシッド・ハウスとは志向性の異なる、己という個の内側を深く観ずるディープ・ハウスを詠んでいるようなうたといってもよいのかもしれない。
和歌や短歌についての学習については、ある程度の余裕ができたら、少しずつ始めてゆきたいと思う。だが、今はまだその余裕が残念ながらちっともない。しかし、いつかは和歌や短歌というものについてしっかりと学んで自分が詠んだものを自信をもってこれは短歌ですといえるようになれるといいなと心から思っている。そんな日がいつかはおとずれることをひとえに願ってやまない。
しかしながら、詠んだうたを各所に投稿して公表する際には、いつも短歌のハッシュタッグをつけていたりもするのである。自分ではまだ短歌だと言い切るだけの自信がないにもかかわらず、そのようなハッシュタグをつけてしまうところには、何やら矛盾のようなものも感じるが、これはこれで致し方ないことだと思って目を瞑っている。こんなわたしでも、ひとりでも多くの人に詠んだうたを読んでもらいたいので。いわゆる看板のピンのようなものとして短歌のハッシュタグをつけさせてもらっているというわけである。
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「働き人がその報いを得るのは当然である」キリスト(ルカによる福音書 10:7)
