人生主権論|資本主義に人生を明け渡さないために
夜、子どもを寝かしつけたあと、暗い部屋でスマートフォンを見る。
画面の中では、みんなが前に進んでいる。
昇進。
副業。
生成AI。
資産形成。
どれも正しい。
だからこそ、怖い。
正しさは、人を静かに追い詰めることがある。
もっと学んだ方がいい。
もっと稼いだ方がいい。
もっと成長した方がいい。
けれど、正しいものを追いかけ続けるうちに、自分の人生が誰かの採点表の上に置かれているような感覚になることがある。
私はIT企業で十数年働いてきた。
データ活用から、カスタマーサクセス、DX、リスキリング、AI活用まで。
その時々で求められるものに向き合い、新しい役割や技術に追いつこうとしてきた。
それは成長だった。
同時に、自分の人生を、少しずつ外側の物差しに合わせていく時間でもあった。
いつの間にか、人生の大切な時間が、仕事のあとに残った余白のように扱われていく。
その違和感の原点には、もう十年ほど前の夜がある。
二年ぶりに会う大学時代の友人と、二人で飲む約束をしていた。
友人は仕事が終わるのがぎりぎりになるかもしれないと言っていた。
だから私は、彼の職場に近い場所で焼き鳥屋を探して予約した。
十席ほどのカウンターだけの店だった。
隣の席は、しばらく空いたままだった。
店員に「もう一人、あとから来ます」と言った手前、すぐには料理を頼みにくかった。
とりあえずビールだけを頼んだ。
スマートフォンの画面には、「ごめん、仕事終わらなくて一時間くらい遅れそう」と表示されていた。
私は「了解、なるべく早くきて」と返した。
ビールが二杯目になり、三杯目になる頃、隣の席では知らないカップルが楽しそうに話していた。
友人は結局、一時間半ほど遅れてやってきた。
笑いながら、申し訳なさそうに謝ってくれた。
そこからはいつも通り、昔話や仕事の話、共通の知人の近況を話した。
彼は優秀だ。
人の話を真摯に聞いてくれるし、こちらの話にも、いつも「うん、うん」と頷いてくれる。
だから、大切なことがわかっていない人だとは思わない。
むしろ、わかっているのだと思う。
それでも、優しい人ほど仕事に流されていくことがある。
頼まれれば引き受け、期待されれば応え、気づけば自分の時間が仕事に持っていかれている。
その夜、空いた隣の席を見ながら、私はそんなことを考えていた。
その夜の違和感は、友人を責める気持ちではなかった。むしろ、自分も同じ場所に立っているのではないかという怖さだった。
そのとき感じた違和感は、結婚し、子どもが生まれた今になって、別の重さを持つようになった。
子育ての話をしても、保育園の送迎、寝かしつけ、休日の公園、家事分担、育休の話が、どこか噛み合わないことがある。
仕事が生活の中心を占めすぎると、友人と会う時間も、家庭に向き合う時間も、仕事のあとに残った余白になっていく。
けれど本当は、そこにこそ人生の本体があるのではないか。
このまま年齢を重ねた先に、家族とちゃんと向き合ってきたと言える時間は残るのだろうか。
仕事で評価されること。
お金を稼ぐこと。
時代に遅れないこと。
それらは、たしかに大切だ。
でも、それらが人生の中心に入り込みすぎると、私たちはいつの間にか、自分の人生を自分で決めている感覚を失っていく。
資本主義社会で生きることと、資本主義に人生を明け渡すことは違う。
私がここで「人生主権論」と呼びたいのは、お金、仕事、評価、成果を否定する思想ではない。
資本主義社会の中で生きながら、それらに人生の意思決定を委ねないための考え方である。
何を稼ぐか。
どこで働くか。
誰に評価されるか。
それよりも先に、自分は何を大切にして生きたいのかを問い直すこと。
それが、人生の主権を取り戻すということだ。
人生の主権は、少しずつ預けられていく
あの夜のようなことは、特別な事件ではない。
人生の主権は、劇的に奪われるのではない。
少しずつ、もっともらしい理由と一緒に預けられていく。
気づかないうちに、外部の物差しに自分の判断を委ねていく。
その代表的なものが、お金であり、仕事であり、評価である。
お金は必要だ。生活を維持し、家族を支え、将来に備えるために、お金は欠かせない。
けれど、お金は人生のすべてを解決してくれるわけではない。
お金があれば、選択肢は広がる。不安を減らすことも、挑戦しやすくなることもある。
それでも、お金があれば必ず幸せになれるわけではない。
納得できる人生になるわけでも、家族との関係が良くなるわけでもない。
家族を守るためのお金が、家族との時間を削って増えていくことがある。
多くの人は、「お金より大切なものがある」と知っている。
問題は、その先だ。
もっと稼いだ方がいい。
もっと貯めた方がいい。
もっと資産を増やした方がいい。
もっと将来に備えた方がいい。
自分にとって、お金より大切なものは何なのか。
何のために稼ぎ、何のために貯めるのか。
どこまであれば十分なのか。
何を犠牲にしてまで増やすべきなのか。
この問いがないままお金を追い続けると、お金は手段ではなく目的になる。
働く日々の中で問うなら、まずはひとつでいい。
自分にとって、どこまであれば十分なのか。
仕事も同じである。
仕事は生活を支え、社会とつながる大切な営みである。
しかし、仕事が人生の中心に入り込みすぎると、自分が何のために働いているのかが見えにくくなる。
生活のために働いていたはずなのに、仕事のために生活が削られていく。
家族のために働いていたはずなのに、家族との時間が後回しになっていく。
自分の成長のために働いていたはずなのに、成長し続けなければならない不安に追われていく。
誰かの役に立つために働いていたはずなのに、いつの間にか評価されるために働いている。
ここで問題になるのが、評価である。
評価されることは嬉しい。仕事で認められ、自分の努力が報われたように感じる。
しかし、評価されることと、評価されるために生きることは違う。
評価は、本来、自分の人生の目的ではない。
会社における評価は、人を動かすための仕組みでもある。
会社で働く以上、評価から完全に自由になることは難しい。
だからこそ、評価を人生の目的にしてはいけない。
評価されるために働く。
評価されるために学ぶ。
評価されるために自分の時間を差し出す。
評価された先で、自分の時間をどこに戻すのか。
その問いがないまま評価だけを追い続けると、自分の時間は少しずつ他者の物差しに吸い上げられていく。
このとき、評価は仕事を支えるものではなく、人生を支配するものになる。
人が評価に引っ張られるのは、評価がわかりやすいからだ。
自分で自分の人生を判断するのは難しい。
自分はこれでいいのか。この働き方でいいのか。
そういう問いには、簡単な答えがない。
一方で、評価はわかりやすい。数字がある。肩書きがある。給与がある。順位がある。市場価値がある。SNSの反応がある。
そうした評価は、自分が正しい道を進んでいるような感覚を与えてくれる。
けれど、そのわかりやすさの代わりに、私たちは人生の主権を差し出しているのかもしれない。
人生は、社会に回収されていく
人生の主権を失ったとき、私たちの営みは、少しずつ社会や会社の論理に組み込まれていく。
ここでいう「回収」とは、本来は人生のためにあったものが、別の言葉に置き換えられていくことだ。
成果、収益、効率、市場価値、生産性、競争力。
そうした言葉に翻訳されていくことである。
仕事も、健康も、AIも、子育ても、本来は人間の人生を支えるためにある。
しかし、それらはいつの間にか、「役に立つか」「成果につながるか」「市場価値があるか」という言葉で測られるようになる。
たとえば、仕事を効率化する。
本来、効率化は、余白をつくるためにも使える。
早く仕事を終え、家族と過ごす。休む。趣味をする。ぼんやりする。自分の体と心を整える。
しかし多くの場合、空いた時間には次の仕事が入る。
効率化によって生まれた時間は、自分の人生に戻ってくるのではなく、さらなる成果のために使われる。
だから、効率化で生まれた時間を何に戻すのかを、先に決めておく必要がある。
生成AIの時代には、この構造がさらに強くなる。
AIを使えば、文章を書く時間が短くなる。資料作成が早くなる。調べものが楽になる。
分析も、要約も、アイデア出しも効率化される。
けれど、AIによって効率化された時間は、本当に自分の人生に戻ってくるのだろうか。
AIで早く仕事を終えた分、家族との時間が増えるのか。
自分の体を休める時間が増えるのか。
何もしない余白が増えるのか。
それとも、もっと多くの仕事をこなすために使われるのか。
本来問うべきなのは、AIを使うかどうかではない。
AIによって生まれた時間を、何に返すのかである。
この問いがないままAI活用だけが進むと、AIは「人生を豊かにする道具」ではなく、「さらに働くための道具」になっていく。
健康も同じだ。
健康は、自分の人生を生きるためにある。朝起きて、体が動く。ご飯がおいしい。子どもと外を歩ける。大切な人と長く過ごせる。
けれど、健康までもが「パフォーマンス」「成果」「生産性」の言葉に翻訳されることがある。
生産性を高めるために眠り、成果を出すために運動する。
それはどこか、本末転倒ではないか。
健康は会社の成果のためだけにあるのではない。
自分の人生のためにある。
子育てもまた、社会に回収されやすい。
子どもには幸せになってほしい。選択肢を持ってほしい。困らないで生きてほしい。そう願うのは自然なことだ。
だから、教育を考える。習い事を考える。進路を考える。将来に役立つ経験を与えたいと思う。
ここまでは、親として自然な願いだ。
けれど、気づかないうちに、子育てが社会の競争に組み込まれていくことがある。
どの学校に行けるか。
どんなスキルを身につけるか。
どんな経験を積ませるか。
将来どれだけ有利になるか。
子どもの幸せを願っていたはずなのに、いつの間にか、社会で勝ち残るための準備ばかりを考えている。
子どもの将来を考える時間を、子どもの現在に返せているのか。
子ども自身が何を感じているのか。
今、どんな時間を過ごしているのか。
何に安心し、何に喜び、何に傷ついているのか。
そういうものが後ろに下がってしまう。
子どもの将来を考えることは大切だ。
けれど、子どもの人生もまた、社会の物差しだけで測ってはいけない。
仕事も、健康も、AIも、子育ても、すべて同じ構造を持っている。
本来は人生を支えるためにあったものが、いつの間にか社会の言葉に翻訳されていく。
ここで必要なのは、社会の言葉を捨てることではない。
社会の言葉に翻訳される前の、自分の言葉を持っておくことだ。
市場価値にならない学び。
生産性につながらない休息。
成果に直結しない家族の時間。
評価されない趣味。
投資対効果で測れない子育て。
何も生み出さない余白。
そうしたものが、価値の低いもののように見えてくる。
しかし、人生の大切な部分は、必ずしも資本主義の言葉に翻訳できるとは限らない。
むしろ、翻訳できないものの中に、人生の納得感は宿っているのではないか。
人生主権を取り戻す
では、人生主権を取り戻すとはどういうことだろうか。
それは、資本主義から完全に降りることではない。
お金を捨てることでも、仕事をやめることでも、評価を無視することでもない。
AIを使わないことでも、子どもの教育を考えないことでもない。
私たちは、資本主義社会の外側で生きているわけではない。
お金も必要だし、仕事も必要だ。評価と無関係に働くことも難しい。
AIのような新しい技術を使わずに生きることも、現実的ではない。子どもの将来を考えない親でいることもできない。
だから、人生主権を取り戻すとは、社会から離れることではない。
社会の中で生きながら、何を主人にするのかを取り戻すことだ。
人生の道具を、人生の主人にしない。
お金は大切だ。しかし、お金に人生を決めさせてはいけない。
仕事は大切だ。しかし、仕事に人生全体を回収させてはいけない。
評価は大切だ。しかし、評価に自分の価値を決めさせてはいけない。
AIは便利だ。しかし、AIで生まれた時間を、さらに働くためだけに差し出してはいけない。
子どもの将来は大切だ。しかし、子どもの今を、将来のための材料だけにしてはいけない。
人生主権を取り戻すために、まず必要なのは、自分にとっての「十分」を決めることだ。
どれくらい稼げば十分なのか。
どれくらい働けば十分なのか。
どこまで成長すれば十分なのか。
どれくらい評価されれば十分なのか。
何を持てば十分なのか。
何を手放せば、むしろ豊かになるのか。
この「十分」は、他人から与えられるものではない。
会社は「十分」を決めてくれない。
市場も「十分」を決めてくれない。
SNSも「十分」を決めてくれない。
世間も「十分」を決めてくれない。
外側の物差しに従っている限り、十分はいつまでも先に伸びていく。
もっと上がある。
もっと稼げる。
もっと評価される。
もっと効率化できる。
もっと有利な選択がある。
その声に従い続けると、人生はいつまでも「まだ足りないもの」として扱われる。
だから、自分で決める必要がある。
自分にとって守りたいものは何か。
これ以上は差し出したくない時間は何か。
どんな働き方なら、胸を張って続けられるのか。
どんな生活なら、派手ではなくても納得できるのか。
これを決めておかないと、仕事の判断はいつも外側の基準に引っ張られる。
引き受けるべき仕事なのか。
断るべき依頼なのか。
学ぶべき技術なのか。
手放していい役割なのか。
その判断を、会社の評価や市場価値だけに預けない。
たとえば、予定を入れるとき、依頼を引き受けるとき、新しい技術を学ぶとき。
その選択が何を増やし、何を削るのかを一度立ち止まって見る。
評価が増えるのか。
収入が増えるのか。
自由な時間が増えるのか。
家族と向き合う時間が減るのか。
自分の体力が削られるのか。
その収支を見ないまま「正しい選択」だけを積み重ねると、人生は少しずつ自分の手を離れていく。
私自身、仕事をもっと頑張れば、もう少し評価や昇進につながったかもしれないと思うことはある。
育休を取った時期にも、全社のプロジェクト表彰を受けるくらいには成果を出していた。
それでも、評価はごく普通だった。
理由を断定するつもりはない。
ただ、残業を重ね、いつでも仕事に応えられる人の方が、組織の中では評価しやすいのだろうと思った。
仕事ができる人ほど仕事は集まる。頼られ、期待され、さらに成果を求められる。
けれど私は、そこで意識的に少しブレーキをかけてきた。
家庭を、仕事の余白に置きたくなかった。
子どもと遊ぶ時間や、家族で過ごす時間を、仕事の余白にしたくなかったからだ。
その線を引くことは、簡単ではない。
外側の正解に従う方が楽なこともある。評価される道を選ぶ方が安心なこともある。多数派に合わせる方が孤独ではないこともある。
けれど、自分の人生を自分のものとして生きるためには、どこかで自分の言葉で決めなければならない。
評価されない時間を取り戻すことも、その一つだ。
誰にも評価されない時間。
子どもとただ歩く時間。
何の成果にもならない本を読む時間。
目的もなく散歩する時間。
家族とご飯を食べる時間。
ぼんやり空を見る時間。
ただ疲れて眠る時間。
そういう時間は、履歴書には書けない。会社の評価にもつながらない。市場価値にもならない。SNSに投稿しなければ、誰にも見えない。
でも、そういう時間が人生を支えている。
評価されない時間を無価値だと思い始めたとき、人生は危うくなる。
誰にも評価されない時間を大切にできるかどうか。
そこに、人生主権を守る鍵がある。
仕事の成果を上げることと、自分の判断軸を持つことは矛盾しない。
むしろ、自分の判断軸があるからこそ、何に力を注ぎ、何から距離を取るのかを選べるようになる。
「自分の人生だった」と思える幸福へ
では、人生主権を取り戻した先にある幸福とは何だろうか。
私はそれを、「勝った人生」ではなく、「自分の人生だった」と思える人生だと考えている。
幸福とは、資本主義のゲームに勝つことではない。
お金があることは幸せにつながる。
仕事で評価されることも、人生を豊かにする。
良い家に住むことも、好きなものを買うことも、旅行に行くことも、子どもに教育の機会を与えることも、幸福の一部になりうる。
それらを否定する必要はない。
しかし、それらをすべて手に入れても、「これは自分の人生だった」と思えなければ、どこかで虚しさが残るのではないか。
反対に、外から見れば大きな成功には見えなくても、自分の価値観に沿って選び、自分が守りたいものを守る。
自分が納得できる時間を積み重ねているなら、その人生には確かな幸福があるのではないか。
毎日が理想通りでなくてもいい。
迷ってもいい。揺れてもいい。お金に悩んでもいい。評価が気になってもいい。仕事に追われる日があってもいい。
それでも、自分の人生を自分のものとして取り戻そうとする姿勢がある限り、人は完全には流されない。
私は、そこに幸福の本質があると思う。
「勝った人生」ではなく、「自分の人生だった」と思える人生。
そのためには、問い続けるしかない。
これは、自分の人生のための選択なのか。
それとも、資本主義に人生を明け渡す選択なのか。
この問いを持ち続けることが、人生の主権を支えてくれる。
資本主義社会で生きることと、資本主義に人生を明け渡すことは違う。
私たちは、お金を稼いでいい。
評価されていい。
成果を出していい。
成長していい。
社会の中で懸命に働いていい。
けれど、そのすべての先に、自分の人生を失ってはいけない。
人生の主権は、会社にも、市場にも、世間にも、SNSにも、資本主義にも、本来は渡さなくていい。
夜、子どもが眠ったあと、またスマートフォンを見る。
明日の予定がある。未読のチャットがある。新しい技術の記事がある。誰かの成功談がある。
相変わらず世界は、もっと前へ、もっと上へ、もっと速く、と急かしてくる。
それでも、画面を閉じて、暗い部屋の中で子どもの寝息を聞く。
この時間は、何の成果にもならない。
誰にも評価されない。
市場価値にもならない。
でも、私の人生には必要な時間だ。
これは、仕事の余白ではない。
そう思える感覚を、手放したくない。
自分の人生を、自分のものとして生きること。
それが、資本主義社会を生きる私たちにとって、もっとも根本的な幸福なのだと思う。
