『契約の時代』の死角──内田貴氏は何を見誤ったのか
はじめに
民法学の大家、内田貴氏の著書『契約の時代』(岩波書店 2000年)。 日本の契約法理を論じた名著として知られるが、こと「定期借家権」の導入議論に関しては、私は初めて読んだ当時強烈な違和感を抱いた。
ある書評では内田氏の慎重論に説得力を感じたと記されているが、実務と市場のリアリティを知る人間からすれば、その議論はあまりにナイーブに映る。なぜ法学者は市場の本質を見誤ったのか。 定期借家制度導入から四半世紀が経った今、改めてその論理の「死角」を検証したい。
誤謬①:「オフィス供給」を混同する罪
内田氏は同書の中で、定期借家導入に慎重な姿勢を示し、こう述べている。 「バブル期にオフィス用の賃貸物件の供給が急増したではないか。ゆえに、借地借家法が供給を制約しているという議論は怪しい」と。
このロジックには、致命的な欠陥がある。 それは、「オフィス・単身者」と「ファミリー」の市場特性を同一視している点だ。
借地借家法(特に正当事由制度)が市場を窒息させていたのは、オフィスや単身者向けではない。「ファミリー向け」の借家市場においてである。
企業(オフィス)や学生: 成長、移転、卒業などにより、数年で退去する蓋然性が高い。オーナーにとって「居座りリスク」は低い。
ファミリー: 生活基盤を置くため、一度入居すれば数十年、あるいは代替わりして居座る可能性がある。法による保護も最も手厚い。
オーナーが最も恐れ、供給を躊躇したのは後者だ。 「一度貸したら二度と返ってこない」という恐怖が、良質なファミリー向け賃貸の供給を極端に細らせていた。内田氏が例示したオフィス供給の急増は、借家法のリスクが低いセクターでの出来事に過ぎず、制度導入の必要性を否定する根拠にはなり得ない。
定期借家権は、まさにこの「ファミリー市場のボトルネック」をピンポイントで解消するためにこそ必要だったのだ。
誤謬②:「選択肢」を「強制」と履き違える
また内田氏は、「定期借家の推進者は供給側だけを見て、需要側を見ていない」とも批判した。 「借手が将来の需要を見通せない中では、結局は借家を敬遠し、持ち家を選択するようになるのではないか」という懸念だ。
だが、この批判は経済学的にナンセンスだと言わざるを得ない。
今回導入された定期借家制度は、既存の普通借家を禁止したわけではない。「貸し手が、普通借家か定期借家かを選べるオプション」を追加したに過ぎないからだ。
もし内田氏の言う通り、借主側の「普通借家ニーズ(安心感)」が圧倒的に強いのであれば、市場原理に従って、貸し手はそれに見合った行動(普通借家での募集)をとるだろう。 逆に、定期借家という選択肢が増えたことで、「期間は決まっていてもいいから、安く借りたい」「良質な家に住みたい」という新たな需要が掘り起こされる可能性もある。
「需要側を見ていない」のではない。 多様な需要に応えるために、硬直的な市場に「契約の自由」というツールを持ち込んだだけなのだ。
結論:机上の空論を超えて
内田氏が注釈で懸念した「ファミリー層が持ち家へ逃避する」という指摘も、因果関係が逆だろう。 これまで日本のファミリー層が無理をして持ち家を選んできたのは、定期借家があったからではない。むしろ、借家法による過剰保護の副作用で、まともなファミリー向け賃貸市場が育たなかったから、消去法で「買う」しかなかったのだ。
法学者の緻密な論理も、市場のダイナミズムを見落とせば机上の空論となる。 『契約の時代』におけるこの小さな、しかし重大なボタンの掛け違いは、我々に「現場不在の制度論」の危うさを教えてくれている。
