宝塚歌劇と吉本興業の類似性【令和ロマンの娯楽がたり】
令和ロマンの娯楽がたり感想文
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興行の目的
スポーツが台本のない勝負を見せるエンタメであるのに対し、舞台芸術は意図してつくられた台本を見せるエンタメだ。観戦と鑑賞である。そして、そのどちらにも物語がある。作られた物語も、観客が勝手に見出す物語性も、すべてをエンタメとして消化し、熱中することで日常から離れたり、笑いや感動、刺激を得ることで気分転換になったりする。人々が熱中するから興行になる。興行主は人が何に熱中するのか頭を捻り企画を打つ。
阪急電鉄の実質的な創業者である小林一三は、沿線に人を集めるために宝塚歌劇団と阪急ブレーブスをつくった。百貨店経営や宅地開発に留まらず、である。宝塚歌劇団とは、「清く 正しく 美しく」でお馴染みの、奇抜とも取れる華美な化粧をして、女性が男装をして、豪華な舞台で冗長な台詞を歌うあの劇団のことである。
宝塚歌劇と吉本興業のつながり
宝塚歌劇の幕開きは1914年。そして、吉本興業の創業は1912年とされている。吉本吉兵衛・せい夫婦が始めた寄席経営が、吉本興業の始まりである。大正時代からの長い歴史を持つ2つの組織は、いくつか共通点を持つ。
まず、どちらも自前の劇場を持ち、大衆に向けて、一年中興行を行う団体である。
同時期に関西で創業し、同時期に成長し、早くに東京進出を果たし、1930年代にはそれぞれおよそ300名の団員、専属漫才師を擁した。機関誌の先駆け、映画製作、欧米の舞台芸術を取り入れたショーなど、黎明期を見比べると似たような言葉が並ぶ。
宝塚歌劇で日本初のレビュー『吾が巴里よ<モン・パリ>』が上演されたのが1927年、しゃべくり漫才を発明した吉本興業の横山エンタツ・花菱アチャコがコンビを結成したのは1930年のことである。
時期は大きく異なるが、1919年に開校した「宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)」と、1982年に開校した「吉本総合芸能学院(NSC)」という養成所をそれぞれ備えていることも特徴である。年齢ではなく芸歴を重視し、先輩後輩の上下関係がはっきりしていて、所属する団員、芸人同士のつながりが強いことも共通点と言えそうだ。
また、小林一三は、1932年に演劇と映画の興行を事業の主目的として(株)東京宝塚劇場を設立しており、これが現在の東宝(株)である。吉本興業は寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社として、戦前は松竹、東宝と並び三大興行資本と称され、この時代から東宝と提携していた。1939年、大阪吉本を率いていた林正之助(吉本せいの実弟)が、一三に乞われて東宝の取締役に就任する。1950年に吉本せいが亡くなった後には、吉本家の遺族と林兄弟との間に揉め事が生じ、小林一三がその仲裁役になる等、創業者同士のつながりもあった。
そして、小林一三が野球に目をつけ阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)を創設したほか、(株)後楽園スタヂアム(現:(株)東京ドーム)の設立発起人に名を連ねるなど、野球界にも貢献したのと同様に、吉本興業もまた、日本初のプロ球団として設立された「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」に資本参加するなど、日本プロ野球の草創期に関わっている。
応援の先の考察
令和ロマンの娯楽がたりで触れられていた通り、野球もこの時代に始まった主要な興行である。少なくとも、小林一三が大切にした歌劇と野球は、応援して楽しむこと(ファンになってもらうこと)を前提に設計された興行だと思う。
番組中で、「ID野球」が今の「考察」ブームと同じではないかという意見があったが、「ID野球」と対比されるのは、自分の戦略的な行動を自ら説明する「裏側」ブームや、髙比良くるまの「漫才過剰考察」であって、アイドルを推して誰がセンターになるのかを予想するのは、野球でどの球団が勝つか予想するというまっすぐな楽しみ方と一致しているのではないだろうか。この点が、話し手が演者自身であることもあり、わかりづらくなっていたように感じる。ただ、演者側が分析しているという前提や、考察の答え合わせがあることが、観客側の考察や予想を過熱させる側面もあるので難しい。
ここはわからない部分だが、冷める考察というのは、作り手や演者側が考察されることを求めていない部分について、的外れな論評をしたり、自分の願望を交えた勝手な解釈をする場合を指すのであって、演者の技術や作品の内容について観客が論じることはただの感想か批評ではないか。でも書いている本人はその違いを自覚できないので難しい。
そして野球を通じて気づかされるのは、応援と考察はつながっているということだ。応援の対象と一緒に戦っている気持ちになって、「もっとこうすればいいのに」「あいつはダメだ」「彼は良い監督だ」などと批評し、「次はここが勝つ」「あの選手が来る」などと予想し、その過程で、各球団や選手の情報や、興行自体の仕組みを知って考察を深めるものも出てくる。これはあらゆるエンタメにおいてそうである。
「歌劇」と「お笑い」
そう考えると、前述の宝塚歌劇と吉本興業は、その興行の内容にも類似点があるかもしれない。
スポーツの興行がそもそも応援されることを前提としているのに対し、少なくとも今の舞台芸術はしていない。つまり、舞台芸術を観る人間はただ作品を楽しむために足を運ぶだけで、熱中して大量のお金を落としたりはしない。しかしながら、現代の大衆芸能の中でも特に、宝塚歌劇やお笑い芸人には、スポーツ、そしてアイドルと同様に「応援する」という楽しみ方が用意されている。
一概に「応援する」と言っても、スポーツの応援とアイドルの応援では、その応援が報われるかどうかに大きな差があると思う。どちらも応援する対象と自分を重ね合わせ、勝ち負けに一喜一憂するが、スポーツの勝敗は試合によって明確に決まり、結果は基本的に監督、選手次第で、自分の行動が与える影響はわかりにくい。一方アイドルの勝敗を決める試合はない。「勝ち」が「人気になること」になってしまったら、ファンはお金をつぎ込んで推しが応援されていることを運営にアピールし、ファンの数を増やすために布教をする。
宝塚歌劇では、宝塚音楽学校を卒業した将来のスター候補たちを毎年盛大にお披露目し、彼女らの成長過程を見せてくれる。ファンクラブに入って熱心に活動すればスターと近い距離で会うこともできる。
贔屓が周りの生徒と切磋琢磨しながらトップスター・トップ娘役という明確なピラミッドの頂点に近づいていく過程はまさに勝負の連続であり、技術的な面が重視されることを含め、スポーツにも似ている。ファンは「スターになる子をいち早く見極めて追いたい」「この役に抜擢されるということは近いうちにトップかしら」などと考える。だから考察や予想が捗る。
スケールの大きな舞台、芝居とショーの内容、団員の美しさと磨かれた技術を楽しむのがもちろんまっすぐな楽しみ方で、これは舞台芸術としての側面である。作品全体を評価し劇団を応援するファンは多いだろう。しかし、おそらくよりお金を落とすのは「自分が応援して彼女をトップにしたい」というような、特定の組や団員を応援し追いかけ何度も劇場に通う非常に熱心なファンであり、劇団もそれを想定しているため、このアイドル的な応援の仕方もまた、まっすぐな楽しみ方である。
では、吉本興業ではどうだろうか。「お笑い」は、舞台に立つものに絞れば、ほとんどが台本のある演芸だと思う。しかしながら、コントや新喜劇が芝居であるのに対し、漫才は台本のある会話である。そのためか、舞台芸術という言葉に感じるような敷居の高さはない。
そして、そもそも応援されることを前提とした設計なのかわからない。寄席はそもそもはテレビもなかった時代にできた催しなのだから、人と遊びに行く場所の一つ、多くの観客にとっては、「あー面白かった」と言って終わりの気晴らしという想定なのだろうか。それがまっすぐな楽しみ方であるはずではある。
基本的には芸を評価されたいというのが芸人の昔ながらの考え方だと思われるが、その上で、スポーツ的な応援もアイドル的な応援も受けるのが芸人だと思う。ここしばらくの吉本興業で若手芸人を待ち構えるのはバトルライブであり、ネタの内容、もしくは観客の投票で勝ち上がれるという構造は、スポーツにもアイドルにも似ている。
M-1をはじめとした賞レースは特にスポーツの要素が強い。基本的に生放送で臨場感があり、勝敗がつき、勝者はメディアでの露出が増えて「売れる」。結果だけでなく、そこに至るまでの過程まで物語にして提供される。かなりスポーツ的な楽しみ方、応援の仕方になっているのではなかろうか。
そしてまた、裏側を語りすぎた結果、再生数を伸ばさなければ、イベントに行かなければ、お金を落とさなければコンテンツが継続されないという仕組みを知らされ、そこに推し活ブームとやらが重なり、そこに向こうが商機を見出したからなのか、アイドル的な応援の仕方にも拍車がかかっている。
ただしこれは若手芸人の活動における話で、先輩方が中心に活動する寄席についてはわからない。以前と変わらずまっすぐな楽しみ方をされているのではないかと想像するが、THE SECONDが存在する今、芸人皆選手、芸人皆アイドルなのだろうか。
上記の通り、宝塚歌劇と吉本興業の演芸は少し似ている。脈々と続く歴史の中で、先輩後輩同期とともに舞台に立ち続け技術を磨き、競い、その姿を、宝塚歌劇では初期から、吉本興業の演芸においては近年になって、スポーツのように、アイドルのように応援される。人気が続くのも納得の素晴らしい商売である。人は夢中になれるものを求めている。
どちらのファンも、演者それぞれの人間性や人間関係に強い興味を持ち、仲良しを見てよろこぶのは最近の大きな特徴かもしれない。とにかく夢中になりたい。組織の歴史や他人の人生に物語性を見出して、人々の関係性を創作されたキャラクターのように勝手な解釈も交え消費して、どうしても夢中になりたい。一度好きになった人をずっと好きでいるために人は幻想を抱く。演者のファンアートは、生身の人間に夢中になるための二次創作で願望だと、娯楽がたりは気付かせてくれる。
2つの興行の相違点
宝塚歌劇は夢の世界であり、お笑いは日常の中にある。
吉本興業の芸人は多くがテレビやラジオ等に出演し、そこで売れることを目指す。ネタもテレビで放送されている。対して宝塚歌劇はそれほどテレビでの放送はされていないし、劇団員の外部メディア露出はほとんどない。お笑い芸人が多くの人の目にさらされて、そのネタの内容も社会の中で変化してきたのに対して、宝塚歌劇は比較的閉じた環境の中で、伝統を引き継ぎながら数々の新しい作品を生み出し、お笑いよりも先に伝統芸能に近づいた。
情報があふれる中、各々が自分の好きなものを選び取って観る時代には、吉本興業がつくった演芸も、コアなファンだけが増え続け、伝統芸能になっていくのだろうか。
すべて伝統芸能になるのか
明治・大正に普及し発展したあらゆるエンタメは、その多くがとうの昔に隆盛期を迎え、コアなファンだけを残したまま古典になりつつある。
我々は将来、何をみて興奮するのだろうか。サッカーを観て盛り上がっていた若者は中高年になり、休日に野球中継を観る父親の姿は、一昔前の日本の象徴にすらなっているのではないか。しかし、野球やサッカーに続くほどの国民的なスポーツはなく、大勢が観戦して勝敗に一喜一憂する催しなんて他に、M-1グランプリかアイドルオーディション番組くらいしかない。数十年後には、「上の世代の人はM-1好きだよねえ」と呆れられながら、数少ない伝統の生放送番組で漫才師たちの勝負を楽しむのだろうか。「今時オーディション番組って古くない?」と言われながら、高校野球に熱中するみたいに練習生を応援するのだろうか。
こんな風に論拠も提示せず暴論を振りかざすと気持ちが良いが、多分に誤った情報や解釈を述べて、過去の議論を確認すらしない駄目考察は読むに値しない。素人の思いつきをつまらない言葉で一生懸命まとめ、思考を整理し、ありきたりな内容だと確認できて満足した。大学サボってこんなことしている場合ではない。
漫才が伝統芸能になるのか、この先も日本を代表する最先端の大衆芸能として発展を続けるのか、髙比良くるま先生の漫才界への貢献が教科書に載るのか、楽しみです。
