「ごはんをつくる、ごはんを食べる」ということ。
ごはん、ちゃんと食べたい。精神的なアレやコレやが絡んでくると、ごはんを食べずに行動するような人です。
ほんとうなら、心身ともに めんどくさーい って思ったときこそ、ごはんをつくって食べるべきなんですよね。
我が家は事情があって、家族が揃っていても個食であることがほとんどです。ほら、ファミレスがいい例じゃないですか。好きなものをオーダーできる。あんな感じになっていて、同じ食卓を囲んでも「同じもの」を食べることってほとんどないんです。
塩分濃度を気にする母に合わせてごはんをつくると薄味になるし、逆に自分が食べたいと思うものをつくると、気にする母に申し訳ないし、私も気にして食べられなくなってしまう。
あ、これ、うちだけじゃないかもしれない。家族がいるのに、ちょっと寂しくごはんを食べる人は、知らないだけで意外と多いのかも。
全員分の材料を揃えて、ばーってつくれる人はほんとうにすごい。お子さんがいる家庭だとたいへんですよね。調理するパパやママ、おじいちゃんおばあちゃん、その他「ごはんをつくる」に従事している方々。めちゃくちゃ尊敬します。
こどものころから「食べること」は好きであっても、「食べられればなんでもいいや」のいい加減な性格でした。
食べたくても我慢せざるを得ない状況っていうんですか? 「やったら怒られるかも」「失敗したら怖い」とか、自分で抑制していたのも原因かもしれませんけど。家庭的な事情で下手なことができなかったっていうのもあるかもしれませんが。
これをこうしたらおいしいかもしれない。頭の中では思っていても、それが表に出ることはなくて。目玉焼きとか、魚を焼くだけとか、そのものに火を通す工程しか挟まない料理ですらつくったことがなかったこども時代ですからね。どれだけ台所に立たなかったことか。
心と体に余裕があると、こういうことを考えないから心配する必要もなかったんじゃないかな。
私の知らない大人の事情は、私が台所に立つより前に起こったことで、それもひとつの原因だったのかな。
社会人になって、仕事に追われて、ごはんに気を配るのを忘れて……疲れが溜まりすぎていたのか、食べなくても動けるからいいやとか、そもそも「あとでまとめて食べるから、今はいいや」の気持ちでも働いたのか、職場で熱中症と同時に貧血みたいなものを起こして倒れたことがありまして。職場でアイスをお腹に突っ込んだけど解決しなくて、結局、かかりつけ医で点滴。当然、先生には怒られました。
「あのねえ、うるらさん、食べないのダメよ」
「食べないのはダメ」って怒ってくれたのは先生がはじめてだったかも。
ようやっと「食べること」の重大さに気づいて、焼きそばをつくってみたんですけど、盛大に焦がして半分くらいダメにしました。そういうこともあったから、余計に台所に立てなくなったというか。
うわ、そんなちっちゃいことで避けていたの! って言われるかもしれないけど、当時は「うまくできない」理由がさっぱりわかりませんでした。言われた通りに油をひいたのにとか、水を入れなきゃダメだったの? とか。口をへの字にしながら、半分に減った焼きそばをもそもそ食べました。
二度と立ってやるもんか。お皿とお箸とフライパンを洗いながら、文句をたれました。
やっていけば要領もわかるでしょ、って言われたんですけど、一向にわかりませんでした。どうすれば焦がさないとか、どのくらい火を通せばいいとか、初歩的なこともわからなかったんです。ロジックをやっているみたいで、余計に混乱しました。
それでも一応、焼きそばはつくれるようになりました。でも、またつくることから離れていって。
転職してから野菜炒めをつくってみて(焼きそばの麺がないだけだし)、つくるの楽しいかな、と思い始めたのはそこからでしょうか。ずいぶん長かったけど、私の中では大事な一歩だったようです。
つくるの楽しいかな、とは書いたけど、調理に関する知識とか技量とけはない。自分自身が余裕をもってふるまうとかできないタイプの人ですから、焼く前にタレに漬け込むとか切れ目入れるとかはできるけど、途中で工程に関することを言われると手元が狂います。
母は母で呑気。助言というほどの助言もあんまりしませんでした。もう社会人なんだから助言しなくてもつくれるでしょ、と放置プレイ。逆に放置してくれたからこそ、やりやすかったというのはあります。
慣れるまでは大皿料理ばっかりでした。野菜炒めとか回鍋肉とか、各人が取り分けられるやつ。そのころは小分けにするのが億劫で、とりあえずつくっておけばいいや、みたいな感覚でした。
さすがに大皿ばっかりだと偏りが激しいから、最近はちいさなフライパンを使っています。それでもまだハードルは高いまま。思ったようにテキパキ動けないと判明してからまだ2年くらいしか経っていないから、余計にそう感じていました。
「じゃあ、それでつくってみなよ」
母、言うだけ言って放置。ほか、言及もツッコミもなし。

自分が食べる分だけだからと、量を気にせずつくることに。食べたくないときは軽く、食べたいときはそれなりの量で。
「うるらさん、食べないのダメよ」
食べる。生きるためには避けて通れない必要なこと。
材料を切ります、ならべます、水を入れます、ふたをします、3〜4分待ちます。
おいしそうな、鮮やかな色。きれいだけど、ちょっと目が痛い。ちょうど心と体がへたっていたときだったから、その色合いが余計に、妙に美しくて。
切ってならべて、水を入れてふたをする。単純な工程だからそれほど迷わないし、焦らなくてすみます。
これならできる。あ、これでよかったんだ。

「ごはんをつくる」ことのハードルが一気に下がって、だいぶ楽になったような気がしました。でもまだめんどくささは残っていて、フライパンでつくった「おかず兼主食(?)」だけですませることも多いです。
口の近くに運びさえすれば、本能的に動いて、ちゃんとお腹には入るそうですね。

食べるの楽しいかな、と思ったことは正直なかったのかもしれません。こどものころは「食べられればなんでもいいや」だったし、選り好みするような性格でもなかったし。
今は食べたいものを選ぶ権利があります。量も選べます。あのときの先生の言葉が刺さったままだから、食べたくなくても、とりあえず食べものは買うし、とりあえず台所には向かいます。
つくるのに体力がいるのはわかっていたけど、食べるのにも体力がいるんですね。箸やらスプーンやらを動かして口に運ぶだけの単調作業なのに、心と体が疲れきっているとできないのって、どうしてなんでしょうかね。
ただ「食べる」だけならお店で買ったものでもかまわないのに、それだと十分に回復したとは思えないのって、どうしてなんでしょうね。
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