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「オレでも描けそ~」な絵のすごさとは?ーArtとTalk㊸ー

皆さまこんにちは、宇佐江です。
ひさびさに通常回の「ArtとTalk」。学生時代から(ブランクも経て)現在まで美術とともに生きてきた宇佐江が、美術に親しみを持っていただきたい想いで素朴なテーマをゆる~くしていくトークです。(たとえばこんな感じ↓)

さて今回は、美術館で誰かがつぶやいているのをあなたも聞いたことがあるかもしれない、この一言。

「オレでも描けそ~」

について考えてみる回。
え?ご自身がつぶやいたことがある?(笑)そんな方ももちろん是非、このまま読み進めていただけたら嬉しいです。
それでは参りましょう~!

(記事の内容に関しては、すべて宇佐江みつこ個人の見解によるものです。いち美術ファンとして数多ある解釈・感じ方のなかのひとつとして気軽にお楽しみください。)



言われがちな絵

最初に断っておくと、「オレ」と表題しているからってこういう解釈は男性が多い、と申しているわけではありません。ただ何となく、今までの経験上その考えを「声に出しちゃってる」のが圧倒的に男性が(特に、一緒に観ているパートナーに呟いている場面が)多かったなあという印象なだけで。

おそらく性別は関係なく、誰でもそれに近い感想を美術作品に対して抱いたことはあるのではないでしょうか。特に、美術館に初めて来たりしたときに。

美術の世界では、パッとみて何が描かれているのか明快なタイプの作品を具象画ぐしょうがと言い、逆に何が描かれているのかわからない、形も曖昧なタイプの作品を抽象画ちゅうしょうがと呼びますが、「描けそう」と言われがちなのは圧倒的に後者が多いです。

確かに、乱暴な言い方をすれば抽象画は一見するとただの落書きみたいに見える作品もありますし、たとえば画面にスーッと数本の線が描かれているだけで「作品」って、どういうこと???
これだから美術ってワケわからん……。
と、謎に思うのは全然おかしいことではありません。

そもそもなんで、「誰でも描けそう」と思われる絵が美術館に恭しく飾られているのかを知るためには、歴史を少し紐解く必要があります。

美術の歴史

私は研究者ではありませんので本当に、おおまか~な説明でご容赦ください。

皆さんが思い浮かべやすい、ルネサンス期のあたりから始めます。《モナ・リザ》を描いたダ・ヴィンチや、ミケランジェロやラファエロが活躍していた時代は、絵といえば聖書の世界を可視化した宗教画や、権力者が自分の姿を描かせた肖像画が主でした。時代が進むと、過去を伝える歴史画も多く描かれるようになります。

まだ写真がなかった時代。絵画は芸術というより記録媒体の役割が多分に含まれていました。そうなれば、当然誰の目にも「何が描かれているか」伝わらなければ意味がない、マリア様はマリア様らしく、馬は馬らしく、人間の姿は(注文主が喜ぶように)実際よりちょっと美化して…という感じだったと思うのです。
想像してみてください。こんな時代に、先程の「抽象画」なんて描いてたら誰にも買ってもらえませんよね(だし、そのような概念も美術史上まだ存在しなかった)。

その後、時代の流れと共に画風の流行は色々と変化するものの、相変わらず「具象画」が美術の世界では唯一の存在価値でした。それが19世紀に大きく変化するのですが、ひとつの要因は、写真術の登場です。



それまでも、写真の原理に近い方法は実は存在していて画家たちが制作に役立てていた―という話もありますが、それは印刷などの形に残るものではありませんでした。
ところが、この時の写真の発明はちゃんと形に残るのもので、自分の姿を正確にそのまま伝えられるもの。肖像画家として食べていた画家たちにとっては致命的です。それまでの記録媒体としての絵画の存在価値が失われてしまったのですから。

歴史の面白いところで、この頃美術の世界では印象派と呼ばれるグループが台頭していました。それまで低俗なテーマとされていた、名もなき市民や何気ない日常風景を画家たちが好んで描くようになり、当時美術界の中心にいたコテコテの価値観の人たちには馬鹿にされてしまいますが、世間には徐々に受け入れられ、人気を博していきます。

誰かから依頼された作品ではなく、自分の意志で自分の描きたいものを自由に描く。
この考えは現在の美術教育の原点です。「上手に」「まるで本物みたいにリアルに」描くのはあくまで技術論であり、アートの最終目的ではないとこの頃から意識が変化したのだと思います。

しかし、自由というのは手にしてからが苦悩の始まり。

自分は何を描くべきなのか。
美術とは何か。
美しいとは何か。

それを考えていった先に登場するのがずばり、「抽象画」です。


「わからない」がある意味正解

アカデミズムが唯一無二の美の基準、という束縛から解放された画家たちは、加速度的に変化していきました。

チューブ絵の具が発明され、屋外写生できるようになり「光」の表現を求めた印象派の流れから、より「色」に固執して鮮やかで激しい絵を描いたフォーヴィスム(野獣派)、目に映るものではなく「内なる世界」に目を向けた象徴派などさまざま展開がありますが、やはり美術に親しみがなくても誰でも知っている名といえば、パブロ・ピカソでしょう。

一般の人たちからすると「ピカソはかなりの異端で、彼だけが芸術家の中でも飛びぬけて独自固有の世界観を持っている」と思われているようですが、この頃の19~20世紀の美術史を学ぶと、決してピカソがある日突然現れた特異体質ではないことがわかります(大天才には違いないですが)。
確実に、ピカソが影響を受けていた先人たちの存在がありますし、彼の代名詞とも言える「キュビスム(立体派)」、絵の中のモチーフをカクカクと再構成して描くこの研究は、ジョルジュ・ブラックという画家と共に深めていった絵画革命です。



こうして徐々に徐々に、具象画を構成していた「色」「形」「わかりやすさ」などが解体されて、どれかひとつだけ残ったり、或いはその全てに変わるなにかに変化したりと、絵の中の情報がどんどん削ぎ落されてシンプルかつ混沌とした「抽象画」になっていきました。

例えれば、
具象画は情報がぎっしり詰まったページ数の多い地図付きガイドブック。
抽象画は、旅人が旅のあいだに浮かんだ詩を書き留めた小さなメモ帳。

実際に自分がその場所へ行ったことがない人が読んでも理解・想像しやすいのはもちろん前者で、後者は「これはどういう景色なんだろう?」「何があってこの心情に辿り着いたんだろう?」という、読み手の想像力無くしては楽しめないし、わからない。

つまり具象画をみて「こういう絵ならわかる」。
抽象画をみて「こういう絵ってワケわからない」。
その感覚はすごく、まっとうな感想なのです。


描けそう、という基準では最早ない

抽象画がどういう経緯で誕生したか、ということをかなーーり短く端折って説明してしまいましたが、伝わったでしょうか。(上記の説明は、抽象でなく具象的に努めたつもりです…)

誤解がないように言いますが、リアルに、まるで本物を見ているかのような絵が写真の登場により価値が下がった、というわけでは決してありませんし、今現在、そのジャンルが消滅しているわけでもありません。写真には写真の良さや便利さがあるし、絵画には絵画にしか表現できない領域があります。
それはAIにも到達できない美の世界だと私は信じています。

現在も具象と抽象が共存する美術の世界で、具象的表現は未だに幅広く人気があり、抽象表現も一部からは人気がありつつまだまだ、「オレでも描けそう」と言われる現状。
しかしそれも、時代の流れで変化していくと思います。
だって長い美術の歴史の中で、抽象表現が登場したのってたかだか20世紀、100年ちょっとしか、まだ経っていないんですもの。

美術を観て「描けそう」という発想になるのは、たぶん、アートを技術的な目線で見ているからだと思いますが、今現在のアートは技術より発想、表現方法、考え方などに重きを置いている傾向にあります。現代アートと呼ばれるジャンルはまさにそれで、数限りない手段でもってそれぞれの思うアート、美を模索しています。
それは、もしかしたら絵を一枚も描いたことがない人の手で生まれる可能性すら秘めています。

おれでも描けそう、と思う気持ちを冗談ではなく本気で考えている人は、ぜひ何か、描いたり作ったりしてみるのもいいかもしれません。
「何かをつくろう」と決意して、考えて机に向かって、でも自分には何ひとつ表現したいものが見つからない…と悟った瞬間に初めて

「あ、おれ、やっぱ描けねえわ」


と気づくかもしれませんよ。





今週もお読みいただきありがとうございました。私自身は思いっきり具象表現のタイプなので、抽象についてはまだまだ勉強中でありこんな記事、書いていいのかなとも思いましたが…わからないからこそ、それについて考えたいと思い文章にしました。
抽象についての説明でモンドリアンとか重要な名前を出さないことは気がひけましたが、なるべく分かりやすくネームバリューのある名前を出したかったので、直接の抽象表現の歴史ではなくキュヴィスム(ピカソ)を出しました。お詳しい方々、何卒大目に見てください。

◆次回予告◆
来週も「ArtとTalk㊹」。最近行った美術館の話。



それではまた、次の月曜に。


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