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太宰治「人間失格」と、優しさという名の自己愛

近頃、居酒屋で一人でビールを飲んでいると、ふと周りの笑い声がすべて「自分をあざ笑う声」のように聞こえる瞬間がある。40歳にもなって何を自意識過剰な、と自分でも苦笑するんだが、人間という存在の得体の知れなさに、急に背筋が寒くなるんだ。

そんな夜に読み返したくなるのが、太宰治の『人間失格』だ。

前回は宮沢賢治の「自己犠牲」について語ったけれど、今回はその対極、いや、ある意味では裏表の関係にある「肥大化した自己愛と他者への恐怖」について考えてみたい。この作品を「単なるメンヘラの自己憐憫」と片付けるのは簡単だが、そこには僕たちが日常で必死に隠している「道化」の心理が、あまりにも生々しく描かれているんだ。

作品のあらすじ 


大庭葉蔵という男の生涯は、幼少期からすでに「他者への恐怖」に支配されていた。

東北の裕福な実家に生まれた葉蔵にとって、人間という存在は理解しがたい、恐るべき怪物だった。飯を食わねば生きていけないという事実すら、不気味な義務に思えた。彼は、その恐怖から身を守るために、ひとつの生存戦略を思いつく。それが「道化(おどけ)」だった。

「お父さん、何が欲しいね?」
上京する父親からそう問われた時、葉蔵は本当は本が欲しかった。しかし、父親の望む「おもちゃの獅子舞」を欲しがる子供を演じるため、夜中にそっと父親の手帳に「ししまい」と書き込む。翌朝、父親がそれを見て嬉しそうに笑うのを見て、葉蔵は胸をなでおろす。他者を騙し、笑わせることで、彼は辛うじて世界との繋がりを保っていたのだ。

高校生になった葉蔵は、画塾の友・竹一から、その「仮面」を見破られることになる。
体操の時間、鉄棒からわざと無様に落ちて周囲を笑わせた葉蔵に、竹一がぼそりと囁いた。

「ワザ、ワザ」

その一言は、葉蔵の心臓を凍りつかせた。自分の本性を見透かされた恐怖。彼は竹一に必死に媚び、親友のフリをして口封じを図る。その竹一から言われた「お前は、女に惚れられるよ」「偉い絵描きになるよ」という二つの予言が、後の彼の運命を呪うように縛り付けることになる。

東京での大学生活。葉蔵は悪友の堀木と出会い、酒と女、そして左翼運動という「非合法なもの」のなかに安らぎを見出す。世間から見捨てられた日陰者同士の連帯だけが、彼の恐怖を和らげたのだ。

しかし、金が尽き、精神的に追い詰められた葉蔵は、鎌倉のカフェの女給・恒子と出会う。彼女もまた、生活の貧しさと孤独に疲れ果てた女だった。
「ねえ、一緒に死のうか」
冷たい冬の海。二人は心中を図る。しかし、死んだのは恒子だけだった。生き残ってしまった葉蔵には、「自殺幇助」の罪と、消えない罪悪感だけが残された。

実家からの仕送りを絶たれ、日陰者となった葉蔵は、いくつかの女性の家を転々とする。
子持ちの未亡人・シゲ子との同居生活。ある日、シゲ子の幼い娘が「本当のお父さんが欲しい」と無邪気に神様にお祈りしている姿を見てしまう。自分が彼女たちの幸福を汚しているという罪悪感に耐えかね、葉蔵はまたしても逃げ出した。

そんな彼が最後に辿り着いたのが、タバコ屋の娘・ヨシ子だった。
彼女は「他者を疑うことを知らない」無垢な少女だった。ヨシ子の純真さに救われ、ようやく人間らしい穏やかな生活を手に入れたかに見えた葉蔵。しかし、運命はどこまでも残酷だった。

ある夜、ヨシ子は出入りの商人に乱暴されてしまう。
その現場を、葉蔵はただ天井裏から見つめることしかできなかった。彼を絶望させたのは、ヨシ子が犯されたことそのものよりも、彼女の「無垢な信頼」という美徳が、他者によって無残に踏みにじられたという事実だった。

「純真無垢は、罪なのか」

ヨシ子の疑惑に満ちた目を見ることに耐えられなくなった葉蔵は、睡眠薬を大量に煽り、狂乱していく。やがてアルコールとモルヒネに溺れ、身も心もボロボロになった彼は、最終的に、かつての悪友・堀木と身内の手によって、精神病院へと強制入院させられることになる。

「狂人」の烙印を押された鉄格子の部屋で、葉蔵は窓の外を眺めながら、ぽつりと呟く。

「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました」

数年後、二十七歳の若さでありながら、白髪に覆われ、四十過ぎに見える葉蔵は、地方の寂れた温泉宿で、ただ静かに死を待つような日々を送るのだった。

川上の独り言 


どうだっただろうか。この息苦しいまでの転落劇。

よく「葉蔵は純粋すぎて傷ついた」とか「周囲の悪意に潰された」なんて同情的な意見を聞くけれど、僕は少し違う見方をしているんだ。葉蔵の悲劇の本質は、彼の「底なしの自己愛」にあるんじゃないかと思う。

彼は他者を恐れていると言いながら、実は「傷つく自分」を何よりも愛している。道化を演じるのも、嫌われる恐怖から逃げるためだし、女性たちを渡り歩くのも、自分が傷つかずに愛される温室を求めているからだ。彼は徹底的に「被害者」のポジションに居座り続けることで、自分のエゴを守ろうとした。

ヨシ子が犯された時、彼はなぜ助けに入らなかったのか。怒りや悲しみよりも先に、「信頼という美徳が汚された」という哲学的なショックに逃げ込んだ。要するに、目の前の妻の痛みよりも、自分の「美意識」が傷ついたことの方が重大だったんだよ。これほど残酷な自己愛が他にあるだろうか。

だけど、僕たちは彼を笑えないはずだ。
SNSで「いい人」を演じ、他人の顔色を伺って道化を演じ、傷つくことを極端に恐れて殻に閉じこもる。僕たちの日常は、葉蔵が編み出した「道化の技術」で溢れていると思わないか?

「人間失格」とは、社会から排除された人間の烙印ではない。むしろ、他者と傷つけ合う覚悟を持てず、自分を守るために仮面を貼り付け続けた人間が、自ら下す「究極の自己弁護」の言葉なんじゃないか。

君はどう思う?
僕たちは、葉蔵のように仮面が剥がれるのを恐れて生きる道化なのか、それとも、他者の深淵に飛び込む勇気を持っているだろうか。今度、じっくり酒でも飲みながら、この「ずる賢い孤独」について語り合おうじゃないか。



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