カフカ『変身』に学ぶ、私たちが「虫」になる日
どうも、川上だ。
最近、ふと考えることがあるんだ。もし明日、私が突然大きな病気にかかって、全く働けなくなったらどうなるだろう、と。40歳、独身。研究者崩れの私には、養うべき家族もいなければ、私を無条件で介護してくれる伴侶もいない。おそらく、社会的なつながりは一瞬で切れ、私はただの「部屋の隅の厄介者」になる。
そんなことを考えていたら、無性にあの男に会いたくなった。そう、ある朝目覚めたら巨大な虫になっていた、グレゴール・ザムザだ。
フランツ・カフカの『変身』。あまりにも有名なこの作品を、単なる不条理文学として片付けるのは簡単だ。だが、この年になって読み返すと、これはファンタジーなどではなく、極めてリアルで冷酷な「家族と労働」のドキュメンタリーに見えてくる。
今回は、この冷たい傑作を、少し斜めから、だけど本質を突く形で語り合おうじゃないか。
作品のあらすじ
ある朝、旅行販売員のグレゴール・ザムザが不穏な夢から目を覚ますと、自分がベッドの中で、一匹の巨大な毒虫に変わっていることに気がついた。
「どうしたことだ、これは?」
彼は自分の体を凝視した。甲羅のように硬い背中。少し頭を持ち上げると、茶色い、アーチ状の節に分かれた腹部が見える。その上には、体全体の割に情けないほど細い何本もの脚が、彼の意思とは無関係に、頼りなくばたばたと蠢いていた。
夢ではない。窓の外では、雨がトタン板に打ち付ける寂しい音がしている。グレゴールは、とりあえずもう一度眠って、この馬鹿げた妄想を忘れてしまおうとした。だが、彼はいつも右側を下に寝る癖があったのだが、今の丸まった硬い背中のせいで、どうしてもその姿勢を取ることができない。
「ああ、なんて過酷な職業を選んでしまったんだろう」
グレゴールは思った。毎日の早起き、絶え間ない電車の乗り換え、不規則で不味い食事。そして、決して親密にはなれない、その場限りの人間関係。
彼はザムザ家の稼ぎ頭だった。父親が事業に失敗して作った莫大な借金を返済するため、そして最愛の妹グレーテを音楽学校に行かせるために、彼は嫌悪感に耐えながら、この辛い仕事を一人で支えていたのだ。
時計を見ると、すでに朝の6時半を回っている。予定していた5時の列車はとっくに出ていた。
その時、部屋の扉が軽くノックされた。母親の声だった。
「グレゴール、起きてるのかい? もう6時半だよ。汽車に遅れるよ」
「ええ、ええ、お母さん。今起きるところです」
グレゴールは返事をしようとしたが、その声を聞いて戦慄した。自分の声の底から、抑えようのない、キーキーという獣のような濁った金属音が混じっていたのだ。
やがて、ザムザ家の玄関の呼び鈴が鳴った。最悪の事態だった。グレゴールが会社を休んだことを不審に思い、会社の支配人が直接、家まで押し寄せてきたのだ。
「ザムザ君、一体どうしたというのかね」
扉越しに支配人の冷徹な声が響く。
「最近の君の業績は、決して満足のいくものではなかった。その上、無断欠勤とは、会社としても見過ごせないな」
グレゴールは必死に弁明しようと、ベッドから這い出し、重い体を床に落とした。しかし、扉の向こうの家族には、彼の言葉はただの不気味な鳴き声にしか聞こえていない。
彼は口の先(顎)を使って、ようやく扉の鍵を回し、部屋の仕切りを開けた。
「さあ、入ってください」
その瞬間、部屋の外にいた一同は凍りついた。
支配人は開いた口が塞がらず、ゆっくりと後ずさりしながら、まるでこの世の悪魔でも見たかのように悲鳴を上げた。母親は腰を抜かして床にへたり込み、スカートを四方に広げながら顔を両手で覆った。
ただ一人、父親だけが敵意に満ちた目でグレゴールを睨みつけ、拳を握りしめた。
「出ていけ!」
父親は杖と新聞紙を振り回し、シューシューと音を立てながら、グレゴールを自分の部屋へ追い戻そうとした。虫になったグレゴールは後ろ向きに歩くことができない。不器用に向きを変えようとする彼を、父親は冷酷にステッキで突き回した。
グレゴールは狭い扉の枠に引っかかり、脇腹から血を流しながら、這うようにして自室へ押し戻された。背後で扉が激しく閉められ、鍵がかけられた。
こうして、グレゴールの「虫としての生活」が始まった。
最初の数日は、妹のグレーテが彼の面倒を見た。彼女はグレゴールが以前好きだった新鮮な牛乳を部屋に入れたが、今のグレゴールはそれを口にできなかった。代わりに彼が好んだのは、腐りかけた野菜や、カビの生えたチーズ、昨夜の残りの古い骨だった。
妹は兄の好みの変化を察し、こまめに食事を運んだが、彼女もまた、兄の醜い姿を見るのには耐えられなかった。グレゴールは、妹が部屋に入ってくるときは、いつもソファの下に隠れ、シーツをかぶって自分の姿を隠すようになった。
数ヶ月が経ち、ザムザ家の経済状況は悪化の一途を辿った。稼ぎ頭を失った家族は、それぞれ働きに出なければならなくなった。
父親は銀行の用務員として働き始め、母親は内職で針仕事をし、妹もまた販売員として働き始めた。彼らは疲れ果てていた。
家計を助けるため、部屋を三人の下宿人に貸し出すことになった。それにより、グレゴールの存在はますます「邪魔者」として扱われるようになる。彼の部屋は、不要な家具やゴミを押し込む物置へと変わっていった。
ある夜、妹のグレーテが居間でバイオリンを弾いていた。下宿人たちにせがまれての演奏だった。
その美しい音色に誘われるようにして、グレゴールは、自分が埃まみれの虫であることを忘れ、引き寄せられるように居間へと這い出てしまった。
彼はただ、妹の演奏を近くで聴きたかったのだ。かつて自分が彼女を音楽学校に入れてやろうと夢見ていた、あの愛情の記憶が、彼を突き動かした。
しかし、下宿人の一人がグレゴールの姿に気づいた。
「おい、あれは何だ!」
居間は大混乱に陥った。下宿人たちは激怒し、契約を即座に破棄すると宣言して部屋に閉じこもった。
家族の我慢は限界に達した。妹のグレーテが、涙を流しながら父親に訴えた。
「お父さん、もうこれ以上は無理よ。私たちはこれを、グレゴールだと思い込もうとしてきたわ。でも、それが私たちの本当の不幸なのよ。もしこれがあの人だったら、人間がこんな獣と一緒に暮らせるはずがないってことくらい、とうに分かって、自分から出て行ってくれたはずよ。これはモンスターよ。追い出さなきゃいけないわ!」
グレゴールは静かに自分の部屋へと戻った。彼の体は、以前父親から投げつけられ、背中に突き刺さったまま腐敗したリンゴのせいで、激しく痛んでいた。呼吸をするのも苦しかった。
彼は暗闇の中で、家族のことを思った。妹の言葉は冷酷だったが、グレゴール自身、自分が消えてなくなるべきだという確信は、家族の誰よりも強かった。
彼は家族への深い愛情と、悲しみのうちに、静かに息を引き取った。
翌朝、乾燥したゴミのようになったグレゴールの死体を見つけたのは、横柄なお手伝いさんだった。
「ねえ、奥さん、これを見てください。すっかり干からびて死んでますよ!」
家族はグレゴールの死を確認すると、一様に深い安堵の息を漏らした。彼らは神に感謝し、その日は全員仕事を休み、久しぶりに郊外行きの路面電車に乗ってピクニックに出かけることにした。
車内は明るい陽光に満ちていた。父親と母親は、いつの間にか美しく健康的な娘へと成長したグレーテを見つめ、そろそろ彼女に良い結婚相手を見つけてやる時期だと、これからの未来に温かい希望を抱くのだった。
川上の独り言
どうだっただろうか。この、あまりにも救いのない結末。
グレゴールが死んだ途端、家族が晴れ晴れとした顔でピクニックに出かけ、娘の結婚という「新たな生産性の高い未来」に向けて歩み出すシーンは、背筋が寒くなるほどの残酷さだと思わないか。
世間の解説ではよく「不条理への実存的抵抗」だとか「家族の愛の限界」なんて高尚な言葉が使われるけれど、私はもっと身も蓋もない現実を感じてしまう。
これは、「役に立たなくなった瞬間に、人間は人間でなくなる」という、資本主義社会、いや、人間社会そのものの不都合な真実を描いているんだ。
グレゴールは家族のために自分の人生を犠牲にして働いていた。彼が家族に愛されていたのは、彼自身がグレゴールだからではなく、彼が「給料袋を運んでくる精巧なマシーン」だったからだ。そのマシーンが故障し、さらに維持費(食費や精神的介護のコスト)がかかる不快な「虫」になった瞬間、彼は家族というシステムにとっての「バグ」になった。
私たちだって同じだと思わないか?
仕事で成果を出している時、家族に金を運んでいる時、社会のルールに従って「役に立つ存在」である時、私たちは「人間」として扱われる。
だが、もし明日、君や私が精神を病んで部屋に引きこもったり、寝たきりになって他人の手を借りなければ生きられなくなったりした時。
最初は「同情」してくれるかもしれない。だが、それが1年、5年、10年と続いた時、周囲の目はどう変わっていくだろう。
「早く消えてくれないか」
そんな言葉が、愛する人の心の奥底に浮かばないと、誰が断言できるだろうか。
カフカが描いた『変身』の本当の恐ろしさは、主人公が虫になったことじゃない。
彼が虫になったことで、周りの「人間」たちの仮面が剥がれ落ち、彼ら自身が冷酷な「捕食者(システムを維持するための怪物)」へと変身していく過程なんだ。
最後、ザムザ夫妻が娘グレーテの体つきが良くなったことを見て、「そろそろ婿でも見つけて、新しい労働力(あるいは繁殖力)を確保しよう」と考えるところで物語は終わる。家族という名の生産ラインは、古い部品を廃棄して、何食わぬ顔で回り続ける。
この哀しい冷たさについて、君はどう思う?
今夜は少し、一人で静かに、強めの酒を飲みたくなってきたよ。
