冷める珈琲と薬指の星
昔、憧れていたお兄さんがいる。
別に、結婚を誓ったわけでも、おつきあいしたかったわけでも、ない。
ただ、ちょっといいな、って、
ほのかに憧れていた。
けど、日常の中で、すっかり忘れてしまっていた。
お葬式の後の、会食の席へ移動中。
「陽人《ひなと》くん」
誰かが呼んだ、その名にドキッとした。
頭の中に、優しい陽人お兄ちゃんの姿が浮かんだ。
サラサラの髪に、ちょっと垂れ目
の、二重の優しい目。薄い唇。
見ると、スーツを着た、成長したかっこいい陽人お兄ちゃんと、どこかのおじさんが、何か話している。
でもすぐ、二人とも部屋に入って行ってしまった。
テーブルのいくつか並んだ部屋。みんなが座っている。
お寿司。天ぷら。煮物にお刺身。ちょっとだけの甘味。
人が亡くなった後の、食事というものは、どうしてこんなに贅沢なんだろう?
「おいしそうね!」
「おいしいな」
思い思いに話す人々の声が響く。
そして、なぜかわたしは、大きな黒い目と、目が合ってしまった。
赤い艶めく殻。白い体に、長いヒゲ。尻尾の曲線。
そう。エビだ。
あ、あれ?
どうしたんだろう、食べられない!
昔は普通に食べてたのに。
ふと、周りを見る。
みんな、おいしそうにエビを食べている。
このエビは、いつまで生きていて、どうして死んだのだろう。
親戚の人たちの座るなか、陽人お兄ちゃんが、瓶のビールを持って、みんなのグラスに注いで回っている。
「おーい、陽人、こっちこっち!
「はーい!」
「こっちもー!」
「はーい!」
わたしは、他の人たちと陽人お兄ちゃんが、故人のことを話すのに、聞き耳を立てる。
故人は、生前幸せだったのだろうか?
死ぬのは、苦しくなかったのだろうか?
やがて、陽人お兄ちゃんの声が近づいてくる。
「碧凪《あおな》、ほら」
陽人お兄ちゃんが、わたしの空いたグラスに、ビールを注いでくれた。
小気味いい音がして、黄金色の液体がグラスを満たしていく。泡が溢れそうになるけど、なんとか大丈夫だった。
グラスを取ると、手のひらに伝わる感覚が、キンと冷たい。
わたしは、すがりつくように、陽人お兄ちゃんを見上げた。
「陽人お兄ちゃん、エビが……」
エビの目がわたしをじっと見ている。
何かを訴えているようで、怖くなった。
「どうした。碧凪?」
「あの……エビが……なんでも、ない」
「そっか。大きくなったな、碧凪」
「そう? お兄ちゃんこそ、大きくなったよ」
最初、不思議そうな顔をしていたが、陽人お兄ちゃんは他のテーブルへ行ってしまった。
席についた陽人お兄ちゃんを、こっそり観察した。
今見ても、全然昔と変わらない。
昔、遊んでくれた、優しい陽人お兄ちゃんのまんまの笑顔だ。
懐かしいような、切ないような気持ちが溢れてくる。
……あれ?
気づいてしまった。
みんなと笑う、陽人お兄ちゃんの、左手の薬指。
キラリと光る、指輪。
そっか……。お兄ちゃん……
そう。だったんだね。
「碧凪ちゃん」
昔の記憶が蘇る。
あれは、ひどく暑い、夏休みの日だった。
太陽の下、二人で歩いていた。
「危ないよ、もっと内側を歩いて」
「だいじょぶ、あおな、もう、おねえさんなんだから」
白線のそばを、二、三歩進んだ。
でも。すぐ車道に足を踏み外した。
自動車の音がした。
「碧凪ちゃん!」
素早く、陽人お兄ちゃんが手を伸ばし、歩道に戻してくれる。
「あ。ありがとう! おにいちゃん!」
「よかった! なんともない?」
「う、うん……」
いつだったか、お兄ちゃんとケンカをした。
「おにいちゃんなんかキライ! もうあそばない!」
そういったのに、
「おにいちゃん、だいすき!」
すぐに仲直りした。
……だんだん、断片的にしか、思い出せなくなる。
食後のコーヒーをいただくことになった。
ミルクと砂糖を入れて、スプーンでぐるぐる掻き回す。
甘くて、でも少し苦い。
陽人お兄ちゃんは、コーヒーを飲みながら、周りの人たちと談笑している。
なんだか、絵になるな。
いつのまにか、みんな、自分たちの話をしていた。
誰がどうとか、何があったとか。
「碧凪は、教師になったんだってな、偉いな」
どこかの親戚に言われる。
陽人お兄ちゃんを見ると、驚いた顔をしていた。
「すごいな! 碧凪」
「そ、そんなことないよ! お兄ちゃんは?」
「俺? 俺は普通の会社員」
陽人お兄ちゃんが、はにかむように笑った。
まだ、この甘くて少し苦いコーヒーを、飲んでいたい。
でも。
だんだん、コーヒーは冷めてきてしまった。
もうすぐ、終わっちゃうな……
紙袋をもらって、引き上げることになる。
外に出ると、白いため息が出た。
部屋の中とは違う、冷たい空気。
濃い青の空。もう直ぐ、夜に変わる。
横目で、陽人お兄ちゃんを見る。
他の人たちと、遠ざかっていく後ろ姿。
わたしは、羽織った黒いコートの裾を揺らして、振り切るように、会場から駆け出した。
どれくらい走ったか、やがて、誰からも見えない電柱の陰で立ち止まる。
「……お兄ちゃん、大好き……だったよ……」
自分にだけ聞こえる声で、呟いた……。
夜空を見上げると、星座たちが、慰めるように煌めいていた。
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