【短編】『地球の樹(アース)』 2000年12月
※これは、今から25年以上前に書いた短編です。
それでも今も、私の中で生き続けている物語です。
空の青さ。雨の音。夕焼け。銀の月。
僕は決して忘れないだろう。
なにより。
あの━━地球の樹を。
時を忘れ、僕は立ちつくしていた。ずっと夢に見ていた光景が━━いや、それ以上のものが、僕の目の前に広がっていた。
━━地球(アース)。
僕らの祖先によって、滅びた星。
その肥沃な大地も、数々の美しい自然━━樹々も空も海も━━たくさんの生物たちも、みんな、僕らの先祖が滅ぼした。
彼らは自ら滅ばした故郷の星を捨て、今僕らが住む星へと移住した。
僕らの星は、この美しい星とは違い、不毛な土地ばかり。
空は灰色。濃い酸性雨と紫外線が地に降り注ぐ。どこまでも続く砂漠。魚すら棲めないような海。
人々は、ドームの外にすらろくに出られないような、そんな星。
僕はずっと憧れていた。この━━美しい地球に。
長い時間をかけ、その自然溢れる山中を僕は歩いた。夢を見ているようだった。僕らが失って久しい自然が━━かつて僕らの祖先のすぐ手の届くところにあり、今は決して僕らの手の届かない自然が━━溢れていた。
気づくと僕は、一際大きなその樹の前に立っていた。
首が痛くなるくらいにずっとその樹を見上げていた。
大きな太い幹。天をその手で支える巨人のように伸びた、幾本もの枝。美しい緑の葉の間からこぼれる陽射し。
空が茜色になっても、星々が瞬き出しても、僕はその樹を見上げていた。
僕は見飽きた寝間着に包まれた右手を、その樹の幹へ伸ばした。
止まった秒針が微か動いたような、どこか危うげな仕種で。
手は、幹に吸い込まれたかのように見えた。僕は慌てて手を引っ込めた。
━━僕は、触れられないのだ。この樹にも、他の何物にも。
地に立っているみたいだけど、僕は土に足跡をつけることすらできない。本当の意味で、僕はここには存在していない。
音も匂いも感じるし、この自然を目にしているのに。それでも、僕は満足して、口元を緩めた。
その樹の根本に膝を抱えて座り込み、僕は、その樹や、夜空の月や星々を見つめ続けた。
翌日も、その翌日もずっと、僕はその樹のそばにいた。それから、僕はまた歩きだした。鳥の鳴き声を追いかけた。流れる雲を見つめた。小川や、見たこともない不思議な草花を見て回った。珍しい虫や動物を見つけた。
でも、僕は必ずあの樹のもとへと帰ってきた。まるでそこが僕の家であるかのように、辺りを歩き回った後、僕はこの樹のもとへ戻ってくる。
そして飽きることなく、その樹を見上げる。空を見上げる。その樹の周りを見回す。
僕はこの場所がとても気に入った。風にその大きな樹の枝葉が揺れる。まるで自らの意志で動く生物のように。まるで、何かを語りかけるように。
僕はそれがとても大好きだった。
僕は、時々、山を下りて行った。木陰から、道行く人を見つめた。
けれど、僕が口を開くことも、誰かが僕を見つけることもなかった。僕は誰かと言葉を交わすことも、誰かの目に映ることも決してない。
僕は、しょせんは、幻なのだから━━。
この樹の下に腰を下ろし、僕は瞳を閉じる。風の音。鳥たちの鳴き声。大きく深呼吸をすれば、清々しい空気が肺を満たしてゆくような気がする。
瞳を開ければ、葉や草の緑。樹の幹や枝、土の茶。空の青。きっと一生忘れられない鮮やかな色の群れ。自然の色。どんな画家だって、この本物の色は出せない。
僕はまた瞼(まぶた)を閉じる。瞼の裏に、その色が焼きついているのを確かめる。
それから、僕は立ち上がって、僕の指が透ける手前まで、その樹に手を伸ばす。樹の表面は平らではない。不思議な凹凸(おうとつ)。模様。色だって、みんな同じじゃない。微妙な色の濃さ薄さ。日が当たればそこは明るくなるし、陰もできる。
僕は、幹を撫でるように指を動かす。耳を幹に当てるようにする。音が聞こえるような気がした。
水の音。命の音。
「僕は……この星の人間じゃないんだ」
葉の揺れる音がする。頭上から。まるで、返事をするかのように。
「時代も違う。もっとずっと未来の、違う星から、僕はやってきたんだ。ひどい話だろう?
僕らはね、僕らの先祖はね、君たちを━━自然を、この星を破壊して、誰も住めない死の星にして、それで、自分たちはこの星を捨てて、別の星へ引っ越したんだ。
僕の住んでる星はね、この星みたいに緑溢れる星じゃない。それでもまだ人は変わらないんだよ。
不毛の地をさらに不毛にしていく。蹂躙して行くんだ。自分たちがよければ、それでいいんだ。ひどい奴らだろう?」
僕は溜め息をついた。
「でも、僕だって、結局はさ、その一人なんだよ。
僕だって他を圧して生き残ってきた人間という生物だから。
君は、僕を嫌悪するかな。僕が君のそばにいるのが嫌かな……?
それでもね、僕は、人間が嫌いじゃないんだ。こんなこといったら、ますます嫌われちゃうかな……。でも、不毛の星で、それでも懸命に生きる人たちを見てるとさ、みんながみんな悪いわけじゃないと思えるんだ。
君らを破壊したのは僕らなのに、購手だよな……」
僕は見上げる。この樹を。風は止んでしまった。樹は返事をしてくれない。
「僕はずっと憧れていた。この星に。子供のころから。ずっと……。
夢だったんだ。この星へ行くこと。僕の星を緑溢れる星にすること。
──でも、もう、僕には無理なんだ……」
樹がざわめいた。
ふいに吹いた風に葉が揺れて、木漏れ日が激しく舞った。
「僕は、僕の星の、ある研究所に勤めている。樹々を、僕らの星の樹々を、増やしていく計画があって、僕はそのチームに所属していた。
それで、いろいろと研究のためにさ、僕は何度も街の外へ出ていってた。
僕らの住む街はさ、ドームの中。閉じ込められた鳥みたいに、そこからほとんど出られないんだ。
外はね、生物に有害な物で溢れている。樹さえ生えない。でも、僕はその大地に、樹々をね、生やしてみたかったんだ━━。
君たちを殺した人間の子孫だっていうのに、同じ人間なのに、思い上がってたのかな━━罰が当たったのかな……あはは、僕さ、病気になっちゃったんだ。不治の病なんだって……僕まだ、二十年くらいしか生きてないのに……もう、助からないんだってさ。
━━いい気味だよな? だから━━僕は、死ぬ前にさ、どうしても、見てみたかったんだ━━地球を。
僕の星ではさ、時と場所を移動する研究が進められててさ━━ひどいだろ、今の星じゃ満足できなくて、別天地を探してるめわけだ。またどこかの星に寄生するつもりでさ━━。
それでさ、最近、精神だけ時を移動することが可能になってさ、でもそれはひどく不安定で危険なものだし、その時に関与することはできない━━人と話すことや誰かに見てもらうことすらできないものなんだ。
でもね、僕はそれでもいいと思った。帰ることさえできないかもしれないし、うまくいくかわからないし、お金もすごくかかったけど、でも、僕は死ぬ前に、どうしてもここに来たかったんだ。
来て、よかった。君に逢えて、よかった」
僕はただ、その樹を見上げていた。僕にはわかっていた。僕はもうすぐ本当に死ぬだろう。
僕の体は、僕の星の研究室の病棟の一室に今も寝かされているはずだ。
きっと、僕はこのままこの星で、幻みたいに誰にも見てもらえないまま死ぬのだろう。
でも、誰に見てもらえなくたって、僕は今この星を見ている。この樹を見ている。最期まで━━ずっと…....。
僕が俯けていた顔を上げると、また強い風が吹いた。僕は思わず、目を伏せた。
次に顔を上げると、いきなり、足音も気配も何もなかったのに、僕の傍らに女性がいた。
僕と同じくらいの年か、それより少し下くらいに見える。
揺れる木の葉と共に、長い髪を風に舞わせている。
人を心の底から美しいと思ったことはなかったけど、その女性には、空や樹々に感じるように、自然にそう思えた。

澄んだ瞳がまっすぐに僕を見上げていた。
「あなた……名前は?」
「え? ランディ……」
「そう。私はリーフ……」
思わず口を開いてしまってから、僕は驚いた。
会話をしている? 僕を見ている? まさか━━。
女性は、樹を見上げ、それからまた僕を見た。
「私は、この樹の精霊━━」
リーフは語った。混乱する僕に、よく響く綺麗な声音で。
彼女は、この大きな樹に宿る精霊なのだと。
今まで、この樹を見つめる僕のことを、彼女は見ていたのだと。
それから、僕は、リーフと過ごした。
僕は、彼女に何もしてやれないのに━━僕は、この星を滅ぼした人間と同種の生物なのに━━、彼女は僕のそばにいてくれた。僕は彼女の存在に感謝した。彼女の存在に助けられた。
僕は……きっと本当のことは信じてかったけれど━━彼女騙なねさるのはとても不思議なことだけど。
子供のころのおとぎ話のように、流れる川のように、自然に僕はそれを受け止めていた。
魂のような存在の僕と、樹の精霊。どちらがより非科学的だろうか?
僕らは、もしかしたら、どこか、似ていたのかもしれない━━。
それとも、これはすべて幻だったのかもしれない。僕の死ぬ間際の夢。それならそれでいい。僕にとっては、目の前の彼女こそが現実だから━━。
僕らには昼夜も関係なかった。ただ彼女の樹のそばに、僕らはいて。一緒に空を見て、樹を見て、草を見て、鳥を見て、月を見て、星を見て……そうやって過ごした。
ある時。彼女が尋ねた。
「ランディは、どうしてこの星を━━私たちを、好きになってくれたの?」
僕は真剣に考えた。
「よくわからない……。ただ、ずっと、子供のころから憧れていた……」
彼女も真剣な顔をして聞いてくれていた。
「……寂しかったからかもしれない」
僕はそういっていた。
リーフは膝を抱えて座ったまま、首を傾げた。少女めいた動作だった。
僕はなんだか見とれてしまって、慌てて目を逸らした。
立ち上がって、空を見上げる。
丸い銀の月が夜空に輝いていて、それがとても綺麗で、今度は月に見とれた。
「……僕は、なんていうかさ、人づき合いが苦手でさ。昔から。で、街に僅かに残った緑とかさ、灰色の空とか━━そんなんでも僕は好きでさ。よく見てた。暗いかな、僕……」
リーフは何も言わず、僕を見ていた。
「なんかさ、よくわからないけど、好きなんだ。
見てるとさ、元気が湧いてくるっていうかさ。
……で、いつのまにか、地球に憧れていた。青い空なんて、一面の樹々なんて、想像できなかった。できないなりに、一生懸命想像した。
何度も夢にみた。
━━で、研究所に就職した。かなり大変だった。
……僕さ、時々、無性に人恋しくなることがあってさ。なんか無性に誰かに逢いたくなって、何かをしたくなってさ……、でも、何もできなくてさ。そういうときいつも、地球を思う」
「━━ありがとう」
「え……?」
「私たちを好きになってくれてありがとう。ランディ」
リーフはあまり口を開かなかった。
リーフが何か質問をして、僕が答えるという形が多かったけど、僕にはそれで充分だった。
それでも彼女が何かを話してくれることもあって、そういうとき僕は、彼女の言葉を聞き逃さないように、耳をすましていた。
そして。
彼女は淡々と語った。青い空を見上げて
。
「ランディ。私ね、私もあなたと同じ。私も、もうすぐ死ぬから━━」
彼女の樹は、近々切り倒されるのだという。強欲で自分勝手な人間たちの手により。
彼女の樹の命がつきるとき、彼女もまた死ぬ━━。
人間たちはこの山を住宅地にするつもりらしい。彼女の樹だけではない。他の樹々もたくさん切られるのだ。この辺りに住む動物たちも、もうここには住めなくなる。そうして、彼女たちを殺し追い出して、当然のような顔をして、人間たちはここに住むのだ━━。
僕は震えていた。怒りで、震えていた。
「……な……なんだよ、それ。なのに、リーフはなんで、そんな平気そうな顔してるんだよ⁈」
「.....…平気じゃないわ。私、精霊だから、ランディより長く生きているけど、でも、私の心はまだまだ子供だと思うわ。私はもっと長く生きて、本当はずっと━━この世界を見ていたいわ」
「だったら……っ‼︎」
「でも、泣いたって喚いたって、何も変わらないもの。私だって本当はもっと生きたいわ」
もっと生きたい。いろんな物を見てみたい。いろんなことをやりたい。そう思うのは当然だ。僕だって━━そうなんだ。
「ランディ? どこへ行くの?」
リーフの声が聞こえたけど、僕は立ち止まらなかった。
僕は、山を下りて、町へ向かった。もう見えないとか話せないとか関係なかった。
買い物帰りらしいおばさんを見つけて、その前に回り込んだ。
「どうしてだよ……っ‼︎」
おばさんは僕をすり抜けて去っていく。それでも僕は追いかける。
「どうして、リーフたちが死ななきゃならないんだよ…….っ⁈」
制服姿の女子高生たちを見つけて、近づく。
「なぁ、失くなってから気づいても遅いんだよ……っ‼︎」
僕は手当たり次第に、目に入った人たちに向かって声をかけて回った。
「こんなに綺麗な青空を、あんなに綺麗な花々たちを、あんたらは━━ 僕らは、失くしても構わないのか⁈」
誰一人立ち止まらない。振り返らない。僕を見ない。でも、僕は続ける。「たった一人でもいいんだ。見えなくてもいいから、誰か聞いてくれ━━!
人はたくさんいるんだから、なぁ、一人くらいいるだろう? この自然を大事に思っている奴が━━‼︎」
「頼むから、助けてくれよ‼︎ リーフたちを切らないでくれよ‼︎ そんな権利が僕らにあるのかよ⁈ なぁ、あんたらだって嫌だろう⁈ 住みかを追われたら━━殺されたくなんかないだろう⁈ なぁ、誰か、聞いてくれよ!
頼むよ━━殺さないでくれよ……!」
リーフの樹の下に座って、僕は泣いていた。誰も、僕の声を聞いてくれなかった。
「ランディ……」
リーフが僕の横に立っていた。
「ごめんな……リーフ。僕は、なんにもできないんだ...…」
僕は、なんのためにここに来たんだろう。なんにもできないのに……。
「リーフたちは、いつも僕に優しさをくれるのに。元気づけてくれるのに━━なのに、僕はなんにもできないんだ……」
リーフは、静かに僕の横にしゃがみ込んだ。
「ランディ。私は━━あなたに生きて欲しいわ」
僕はリーフを見上げた。
「でも……」
僕は━━僕らは、君たちを傷つける人間という生物なのに。
「君は、僕らが、人間たちが憎くないのか?」
「━━憎いわ。でも、あなたには私たちの分も、たくさん生きて欲しいわ。私たちが死んでも━━あなたが不治の病に犯されていても、ここではあなたが幻でも、あなたが、私たちを滅ぼす人間の子孫でも、それでも━━できるだけ長く、あなたには生きて欲しいわ」
僕は彼女の顔を見ていられなくて、横を向いて、でも、彼女に向かって微笑んで見せた。
「.…………ありが……とう……」
泣き笑いの、へたくそな笑顔だったかもしれないけど。
リーフは教えてくれた。昔はこの辺りにいたけれど、もういなくなってしまった虫の話。
昔とても、彼女のことを愛してくれた人間の少年たちの話。僕はなんだか羨ましくて、少しだけ嫉妬したりして。
台風の話。雪の話。虹の話。
リーフの口数は日に日に増えていった。リーフは誰かに話したかったのかもしれない。いろいろなことを。
流星群や日食や月食。
彼女の話は、宝箱みたいに、僕を魅了した。
一番暑かった日。寒かった日。春の便り。花の甘い匂い。大好きだった鳥。流れゆく雲と時。赤や黄の葉が舞い散る秋。枯れる草。新しい芽。若葉。深緑。変わっていく空の色と香り。風の声。鳥の声。虫の声。月の光。
朝の光。露のきらめき。土の温もり。雨の優しさ。包まれるような日溜まり。穏やかな夜。
僕は彼女の一つ一つの仕種も見逃さないよう、瞬きする時間も惜しんで、彼女を見つめた。彼女の声を聞き逃さないよう、息を凝らしたりもした。
彼女はとても綺麗だった。
僕の知るどんな人よりも、誰よりも美しかった。
朝日の中の彼女。風に髪を揺らす彼女。微笑む彼女。夕日に染まったどこか切なげな彼女。月の光に照らされた、神秘的な彼女。
こんな近くに、彼女のそばにいられることに、僕は幸福を覚えた。その幸福に感謝した。
彼女といると、僕は小さな少年になってしまうような気がした。彼女に見とれて胸を高鳴らせて、何も言えなくなってしまう。そんなことがよくあった。そのくせ、変に銃舌(じょうぜつ)になってしまったり。だけど、そう━━彼女といるととても落ち着く。安らぎを覚えた。樹々や空を見ているときに感じるものと同じだ。
僕は、彼女に負けないくらいたくさんの思い出や━━思いを話した。肉親のこと。旧友のこと。同僚のこと。地球に対する憧れや、人間に対する複雑な感情。この星に来られて感じたこと。
彼女は嫌な顔一つせず、僕の話を聞いてくれた。それどころか、たわいない僕の話で微笑んでくれたり、悲しんでくれたり、一緒に考えたりしてくれた。
僕は、自分の話を聞いてくれ、表情を変えてくれ、話をしてくれる彼女を、ずっとずっと見つめていた。彼女と一緒にいると嬉しくて嬉しくて時が経つのが早かった。
だけど、それはとても怖いことだった。彼女の樹や━━彼女、僕らの命の終わりが近づくことだから……。
僕は、両手を広げた。降り注ぐ雨を、その身に受け止めるようにして。雨は僕の体を通り抜けていくけど。冷たさ寒さより、僕は雨に温かさを感じた。それは、僕が雨に触れることができないからかもしれないけど。でも、僕は精一杯体中で、心で、雨を感じていた。雨の音。匂い。他。僕の星では、ずっと雨を見上げて、受け止めて━━そんなふうにはできない。だから、僕はずっとそうしていた。
振り返ると、樹の下ではリーフが、胸の前で手を組んで、雨を見上げている。彼女の樹は雨に濡れている。リーフも、髪や体を濡らしていた。なんだか僕には、そんな樹やリーフが、とても綺麗に見えた。
リーフは口元をほころばせて、雨を見ていた。僕と目が合うと、彼女は優しく微笑んでくれた。
僕らは雨を見上げ続けた。ずっとこうしていたいと思った━━。
彼女がどうしてあんなことを訊いたのか、わからないことが一つある。彼女は夕焼け空の下で、僕にこう訪ねたのだ。
「ランディは、好きな異性はいる?」
「え…...、い、いないけど……」
「じゃあ、好きになった異性はいる?」
「い、いや、僕は昔から地球のことばかり考えていたから、そういうのはちょっと……」
「不思議ね。人は、異性を愛し、愛し合い、子をなすのでしょう?」
「うっ……うん……」
「人だけじゃないわね……そういう生物は他にもたくさんいる。いろいろな生き物が、いるわ……」
「リ、リーフは、好きな男(ヤツ)とかいないの?」
おかしそうに彼女は笑った。
「私は樹の精霊よ?」
「でも、なんでかはしらないけど、リーフは女の人の姿をしているだろう。だから、好きな男の精霊とかいるんじ…...」
「いてほしいの?」
彼女は澄んだ瞳で僕を見つめた。
「い、いや……」
「そう」
彼女はいつもどおりの笑みを僕に向けてくれた。だけど、夕日のせいか、僕の気のせいか、彼女の頬は僅かに上気していた気がした。
━━まさかね……
電気ノコギリがリーフの樹に傷をつけていく。
ついに、リーフの樹が切り倒される時が来てしまった。僕は、リーフの樹を切っていく男の人に手を伸ばす。何度も何度も。でも━━、その手が、その人に触れることはない。
それを止めることは、僕にはできない!
「やめてくれ‼︎ 切らないでくれ‼︎ リーフを殺さないでくれ……っ‼︎」
リーフは身を折って呻いている。
「うゔ……ランディ……もう、いい……」
「リーフ!」
たまらず、僕はリーフに駆け寄る。
「リーフ、リーフ! 大丈夫か⁈」
「ラン……ディ。ありがとう。でも……もういいの……」
リーフは首を横に振る。
「でも、でもリーフ‼︎」
嫌だ。こんなのは嫌だ。彼女が死ぬなんて━━、絶対に嫌だ‼︎
「ねぇ、ランディ……。人はどうして、私たちを殺すの……?」
答えられず、僕はただ彼女を見る。
なぜ、人は、樹を切り倒す━━?
木材にするため。紙にするため。開拓するため。自分たちの暮らしをよくするため……。
なぜ、人は自然を破壊する━━?
それが、この星と、そして━━結局は自分たちにとっても破滅の道でも。一時の快楽のため。人は平気で空を汚す。海を汚す。大地を踏みにじる。
彼らが何をしたのたろう? その恩恵を、人はたくさん受けたはずだろう━━?
人は誠びるまでずっと、他を破壊して生きていくのか? 死の星を増やしていくのか? 宇宙さえ、汚染して生きていくのか━━?
「ランディ……ありがとう。私、あなたに逢えてよかった……」
リーフは苦しそうにその長い髪に手を伸ばす。その手に数枚の葉がついた小枝が現れた。それを、僕の手に押しつける。
僕の手は、確かにその枝を受け取った。
その枝を、なぜか僕は握ることができたのだ。
「……これは……?」
「ランディ……私たちのこと、忘れないで……」
リーフは笑った。でも、その笑顔が歪む。
「嫌ぁ……‼︎ 死にたくない‼︎ 死にたくない‼︎ 痛い痛い痛い痛いっ‼︎ 嫌ぁっっ‼︎」
彼女は欲しく身悶え、泣き叫ぶ。
「リーフ⁈ リーフ……っ⁈ 嫌だ。嫌だ‼︎ リーフ、リーフ‼︎ 嫌だ嫌だこんなの嫌だっっ‼︎ リーフ、リーフ、リーフ……っっ‼︎」
今にも、彼女の樹は切り倒されようとしている。深くその幹に食いついていくノコギリ。
「……っ……‼︎」
僕は、樹を切り倒している男に体当たりをする。僕の体はその男の体をすり抜ける。それでも、僕は続ける。何度も何度も何度も。
「……っ‼︎ やめてくれ、もうやめてくれ……っ‼︎ やめてくれよ……っっ‼︎」
樹が、リーフが、悲鳴を上げる。人間が、唸りを上げるノコギリが、
樹を━━、
彼女の樹を━━
「やめてくれよぉぉぉぉぉぉっっっ‼︎」
切り倒した。
僕は、リーフの樹の切り株に縋って泣いた。彼女はもう現れなかった。やがてこの切り株すら失くなって、住宅が立ち並ぶのだ。
僕はリーフにもらった小枝を持って、山を下りた。
もう一度。もう一度。誰かが聞いてくれるまで、僕は人間たちに言うつもりだ。
聞いてくれる奴なんていないのかもしれない。リーフを見殺しにした彼らを、僕は限んでいるけど━━僕も人間だけど━━でも━━、僕にできることはそれしかないから。それが、たとえ、意味のないことでも━━。
僕は人を見つける度に、口を開く。追いかけて追いかけて、いつまでだって言い続ける。
なぁ、君。君なら聞いてくれるだろう?
樹々の匂い。空気の味。自由に空を翔ける鳥。
あなたは知っているだろう?
川の色。風の音。虫の鳴き声。雨の冷たさ。
失くしたくないだろう?
緑の草木。色とりどりの花々。
数々の生物。たくさんの命。
肥沃の大地。母なる海。
青き星。
急に視界がぼやけた。世界が歪んで、立っていられない。なんだ? 僕は死ぬ…….のか……? 音が匂いが形が━━すべてが消えていく。
リーフ……
だめだ……僕はまだ死ねない……死にたく……な……
僕は見上げた。
━━空(あお)。
誰かに呼ばれた気がして、目を開いた。
白衣を着た医師(ドクター)や看護士が、僕を見ていた。
「僕は……?」
僕は寝間着を着たまま、ベッドに横になっていた。研究所の、僕の病室だ。
「奇跡が起きたんですよ!」医師が興奮して言う。「ずっと眠ったまま死を待って、精神だけ過去の地球へ行っていたはずのあなたの右手に、ある日なぜか、見たこともないような小枝が握られていたのです。それを研究した結果、その成分が、あなたの病を治すことがわかったのです!」
病を……? あの小枝が……?
「そして、それを投与し、あなたの病は治ったのです! 奇跡です!」
奇跡? なにが奇跡だ。ならばなぜ、リーフを、リーフたちを助けてくれなかった?
「しかも、今、その小枝を、培養しているんですよ! うまくいけば、その小枝をもとに、その樹が再生するかもしれない、もしかしたら、それを元にして、その樹を増やすことも………あ⁈ だめです、まだ起きては……⁉︎」
「小枝を培養しているのはどこだ⁈」
「だ、第五ラボで……あっ⁉︎ 君⁈」
僕は医師らを振り切って駆け出した。第五ラボラトリー。そこに踏み込む。
驚く研究員たちを無視し、僕は進む。
培養液を満たしたカプセルの中に、その小枝はあった。
心なしか、僕の記憶にあるそれよりも、小枝は生長している気がする。
茶色の技。緑の葉。他の何物でもない。彼女の樹の枝。
僕の脳裏に、あの大きな彼女の樹が浮かぶ。その大きな幹。天へ向かって伸びた枝。葉の一枚一校まで。鮮やかに。
青い空。鳥が翔けてゆく。朝日も、夕焼けも、月も星も夜空も━━夜明けも、二人で、見つめていた。
風がその葉を揺らす。鳥の声も虫の声も小川の流れも緑の匂いも、全部覚えている。
「リーフ!」
僕は彼女の名を呼んだ。
長い髪を、木の葉のように揺らして振り向く。澄んだ瞳には、樹々や僕や空や雲や━━世界が映っていた。
「リーフ」
小校の入ったカプセルの表面をなぞる。
……微笑む彼女の姿が見えた気がした。

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