アジア太平洋戦争・第二次世界大戦を振り返る視点と「安全保障」の考え方について

明治期の国民国家形成、そこにおける「伝統」の創造、日清・日露戦争、第一次世界大戦という歴史の中でアジア太平洋戦争を考えないとならないと改めて思う。単純な被害者性、加害者性の構図にしてしまうと誤るし、殊に「現在」が孕む危険性を捉えきれない。

国民意識・国民性が構築され、その下に地域、家族(イエ)が包摂、再編され、また、産業、軍事が国家を目的として統合されていったのが明治期であり、その核、基盤となったのが創造的に再編された歴史・伝統と天皇制。「総力戦」「動員」はこれらの条件があってこそ可能になった。

だから、兵士の死、一般市民の死を単純に「尊い犠牲」「戦後日本の礎」のように扱ってしまうことはその歴史の磁場に吸い寄せられてしまう危険性を孕むもの。戦場の悲惨さ、市井の悲惨さに思いを致すことは重要なのだが、それが「国家・国民の物語」に絡めとられることには、その時代を直に体験しておらず対象化できてしまうからこそ、自覚的、警戒的でなければならない。

その時代の犠牲を称揚し積極的に「国家・国民の物語」を紡ごうという動きが強まっている中で、またオリンピックのような「ソフトなナショナリズム」「素朴な国民意識」への刺激、誘惑に溢れている中では。

今当たり前のように「感受」され「内面化」されている「日本」「日本人」というものが、明治期に形成されたもの、伝統・文化の再編・創造を伴って遡及的に構築されたものであるということ。例えば「非国民」や「反日」という問題設定もその条件があってこそ可能なものであり、かつその条件を反復、強化するものであるということ。

歴史と向き合うに当たっては、複眼性とポリフォニー(多声性)が不可欠で、マクロでもミクロでも単一の「物語」に回収してしまってはならない。特に、現在の我々の情緒を投影して「物語」を編んでしまうことは禁物。


以下は2022年12月に書いたことだが、ますます妥当していると思う。

防衛/安全保障政策の流れで大問題なのは米国・米軍との一体化が不可逆的に深まること。それは東アジア/アジアにおける緊張とリスクを高める。東アジアさらにはアジア大で信頼醸成を図り、(その形には議論があるが)集団安全保障体制の構築を展望することからますます遠ざかる。

これは経済レベルでも同時並行で、TPP、IPEFの方向とRCEP、FTAAPの方向とどちらが軸となるかとも連動する。これらの枠組み自体は全くの二分法ではないものの、米中対立・分断を基調に、重点が米国に傾くのか、アジアに重心を置くのかで大きく意味が変わる。

「地政学」的な発想でインド、インドネシアやフィリピン、韓国などをどう米陣営の側に「取り込む」か又は「引き止める」かという論調や動きが強いが、これらの国をむしろ米中間のバランサーとしつつ東アジア・アジアの安全保障と経済連携を考える視点こそ不可欠だし今の「現実主義」に欠けているもの。

日本が舵を切ることがアジアの国々もたらす意味は、安全保障においても経済においても日本との協力をどうするかがますます「踏み絵」となり、ますます緊張とリスクを孕んだ決断となってしまうということ。そしてその結果がアジアにおけるさらなる不安定要因になってしまう。

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