半分の重力
佐野誠一は太っていた。本人もそれを知っていたし、健康診断の結果用紙も、毎年きちんと赤い数字でそれを教えてくれた。体重、腹囲、中性脂肪、血糖値。どの項目も、まるで申し合わせたように、彼の生活態度に小さな説教をしていた。
誠一は住宅設備メーカーの営業事務をしていた。外回りの営業ではなく、見積書を作ったり、倉庫からカタログを運んだり、たまに展示会の什器を片づけたりする仕事だ。基本は座り仕事なのに、なぜか一日に何度も立たされる。プリンターまで歩く。会議室まで歩く。給湯室まで歩く。倉庫で段ボールを動かす。昼休みにコンビニまで行く。どれもたいした距離ではないのだが、誠一にとっては、その「たいしたことのなさ」が腹立たしかった。
たいしたことがないなら、なおさら面倒なのだ。
その日、誠一は健康診断の帰りだった。駅の階段の下で、彼は立ち止まっていた。エスカレーターは点検中で、エレベーターにはベビーカーと高齢者が並んでいる。仕方なく階段を使うしかない。上を見上げると、階段はやけに長く、まるで天国へ続く修行の坂道のようだった。
誠一は一段目に足をかけ、すぐに後悔した。膝に体重が乗る。腹が揺れる。背中のシャツが汗で張りつく。三段上がったところで、彼は手すりに体を預けた。
「重い……」
その独り言は、ほとんど祈りだった。
「ならば、軽くしてやろうかの」
声は、頭上から聞こえた。
誠一が顔を上げると、踊り場に老人が立っていた。白い髭、白い着物、妙に偉そうな杖。駅の階段にいるにはあまりにも場違いなのに、誰もその老人を見ていない。通勤客はスマホを見ながら、老人の体をすり抜けるように階段を下りていった。
「誰ですか」
「この宇宙を創造した神様じゃ」
「駅の階段に?」
「宇宙は駅の階段も含む」
そう言われると、反論する元気もなかった。
神様は手すりに寄りかかり、誠一の腹をちらりと見た。悪意のある目ではなかったが、遠慮もなかった。
「お主の願いをなんでも叶えてやろう」

誠一は息を切らしながら笑った。健康診断の結果、点検中のエスカレーター、三段で限界の自分。そのすべてが、彼の口から言葉を押し出した。
「重力を半分にしてほしいです」
神様はうなずいた。
「お主の願いを叶えよう」
世界が、ふっと軽くなった。
最初に変わったのは、膝だった。誠一の膝から、長年住みついていた鈍い圧力が消えた。腹は相変わらず腹だったが、体が自分のものではないみたいに軽い。彼は恐る恐る階段を上がった。一段、二段、三段、十段。息が切れない。汗も出ない。足が勝手に上がる。踊り場まで着いたとき、誠一は感動していた。
「すごい……」
神様は満足そうに髭を撫でた。
「よかったの」
「これ、全世界ですか?」
「全世界どころか、重力という仕組みそのものを半分にした。宇宙規模のサービスじゃ」
「そんな簡単に?」
「簡単ではない。じゃが、神様なので」
誠一はそのとき、宇宙規模という言葉の重みについて考えなかった。なにしろ、その重みも半分になっていた。
翌朝、彼はベッドから起き上がるとき、勢い余って天井に頭をぶつけた。痛かったが、笑ってしまった。体が軽い。靴下を履くのも楽だ。玄関で革靴に足を入れると、かかとが床に沈み込む感じがない。駅までの道を歩くと、いつもは避けていた歩道橋を、気まぐれで渡る気になった。階段を上る自分の体が、まるで小学生の頃に戻ったようだった。
会社でも、重力半分の恩恵は大きかった。倉庫の段ボールが楽に持てる。コピー用紙の箱も片手でいける。会議室の折りたたみ机を出すとき、同僚の女性社員が「佐野さん、今日すごく動きますね」と驚いた。誠一は笑って「まあ、ちょっとね」と答えた。自分が世界を変えたとは言わなかった。

昼休み、社員食堂で大盛りカレーを受け取ったとき、皿が妙に頼りなかった。トレーを少し傾けるだけで、カレーがゆっくり波打つ。向かいの席では、後輩の田辺が味噌汁を持ち上げた拍子に、汁椀が手から浮いた。
「うわっ」
味噌汁は空中で一瞬ためらい、それからふわりと弧を描いて田辺のネクタイに着地した。
社員食堂は笑いに包まれた。誰もまだ深刻には受け止めていなかった。ニュースでは「世界各地で重力異常」「人類史上初の物理現象変化」と大騒ぎしていたが、誠一の周囲では、まず椅子が軽くなり、ドアが勢いよく開き、弁当の梅干しが箸から逃げる程度の話だった。
数日は楽しかった。
通勤電車の混雑は少しましになった。人が押し合っても、圧力が以前ほど苦しくない。駅の階段では、普段ならエスカレーターに並ぶ人たちが、面白半分で階段を跳ねるように上がっていた。子どもたちは公園で信じられない高さまでジャンプし、動画サイトには「重力半分でバク宙してみた」という映像があふれた。ダイエット商品の広告は一夜にして「あなたの体重、実質半額!」と書き換えられた。
誠一は自分の願いが、世界中に少しだけ元気を与えたような気がしていた。自分だけが楽をするつもりだったのに、老人も妊婦も腰痛持ちも、みんな少し楽になっている。そう思うと、健康診断の赤い数字まで許せる気がした。
だが、重力は人間を苦しめるためだけに存在していたわけではなかった。
まず問題になったのは車だった。重さが半分になると、タイヤが地面を押す力も半分になる。つまり、止まりにくい。曲がりにくい。雨の日の交差点で、車がスケート靴のように滑った。トラックは荷物が軽くなったぶん楽に走れたが、ブレーキを踏んでも前へ進みたがった。ニュースでは毎日、横転ではなく「浮転」とでも呼びたくなる事故映像が流れた。
会社の倉庫でも笑いごとではなくなった。重い段ボールは軽く持てる。しかし、押したときの動きやすさは別問題だった。中身の質量はそのままだ。誠一が給湯器の部品箱を片手で動かそうとすると、箱は軽々と床から浮き、しかし止めようとした瞬間、腕ごと引っ張られた。重さは半分でも、勢いは半分にならない。箱は棚にぶつかり、棚はゆっくり倒れ、倒れた棚から軽くなった部品が次々と空中へ舞った。倉庫は、金属部品の水族館になった。
「佐野さん! なんで押したんですか!」
田辺に怒られた。誠一は「軽かったから」としか言えなかった。
家庭でも不便は増えた。風呂に入ると、体が湯に浮きやすくなり、浴槽の中で落ち着かなかった。寝返りを打つと布団がずれる。体重計は半分の数字を示し、誠一は一瞬喜んだが、それはただの機械的な慰めだった。腹囲は変わらない。シャツのボタンも変わらない。健康診断の再検査通知も、きちんと届いた。
スーパーでは卵のパックが積みにくくなった。風の強い日は看板がよく飛んだ。マンションの上階から落ちた洗濯物は、ゆっくり落ちるぶん遠くまで流され、隣町で発見された。学校では体育の跳び箱記録が無意味になり、野球場では外野フライがいつまでも落ちてこず、観客が弁当を食べ終えてから捕球された。
それでも人間は適応しようとした。靴底に重りを入れる会社が伸びた。家具を床に固定する工事が流行った。駅のホームには「跳ねないでください」というポスターが貼られた。新しい交通ルールでは車間距離が倍になった。誠一の会社でも、倉庫作業にはヘルメットと腰ベルトと「浮遊物注意」の腕章が義務づけられた。
だが、自然は人間ほど器用ではなかった。
雨は落ち方が変わった。粒が長く空に残り、風に流される。梅雨の日、街全体が霧吹きの中に入ったようになった。川は流れ方を変え、海では大きなうねりが増えた。専門家がテレビで「重力が半分になれば、大気や海洋の循環も従来の前提では語れません」と説明していた。誠一には難しかったが、要するに、世界は彼の膝のためだけに作られていたわけではない、ということらしかった。
決定的だったのは、展示会の日だった。
誠一の会社は新型キッチン設備の展示ブースを出していた。会場では、軽くなった什器を安全に固定するため、床に何本もワイヤーを張っていた。誠一は前日から準備で忙しく、しかし以前のような疲労はなかった。体は軽い。脚も痛くない。そこだけ見れば、願いはやはり正しかった。
午後、会場に強い風が入った。搬入口が開いた瞬間、軽くなったパネルが一枚あおられた。パネルは倒れるのではなく、帆のように浮いた。ワイヤーが一本切れ、展示台の上の蛇口模型が浮き、パンフレットが雪のように舞った。誠一はとっさにパネルを押さえようとした。軽い。だから止められると思った。
しかし、軽いものほど簡単に動く。動いたものは、止めるのが難しい。
パネルは誠一を巻き込んで横に滑り、彼の体は床から浮いた。ほんの一秒だったかもしれない。だが誠一には、世界が自分を手放したように感じられた。足の裏が床を失い、会場の照明が横に流れ、悲鳴が遠くなった。彼は展示台に背中をぶつけて止まった。大けがではなかった。だが、その夜、病院のベッドで天井を見ながら、誠一は初めて心の底から思った。

取り消してほしい。
深夜、病室の窓際に、あの神様が立っていた。カーテンがふわふわ揺れ、点滴の袋も少し頼りなく揺れている。
「そろそろ呼ばれる頃かと思っての」
誠一は体を起こそうとして、肋骨のあたりの痛みに顔をしかめた。
「お願いします。戻してください」
「なにをじゃ」
「重力です。半分じゃなくて、元に戻してください」
神様は困ったような、少し楽しんでいるような顔をした。
「便利だったじゃろう。階段も楽になった。段ボールも軽くなった。体重計も優しくなった」
「でも、世界が壊れてます。事故も増えてるし、天気も変だし、仕事も危ない。僕が軽くなりたかっただけなのに」
「願いとは、そういうものじゃ。本人の都合だけを切り取って叶えることはできん。重力はお主の膝だけにかかっていたわけではないからの」
「じゃあ、せめて僕だけ重くしてください」
「それは新しい願いか?」
神様の目が少し光った。
誠一は黙った。二度目の願いなど、怖くて口にできなかった。
神様は杖を床についた。床についたはずなのに、音はしなかった。
「ダメじゃ。願いを取り消さないのがワシのポリシーじゃ」
「ポリシーで済む話じゃないでしょう」
「宇宙はポリシーでできておる部分が多い」
「そんな会社の就業規則みたいに言わないでください」
神様は笑った。
「お主は悪人ではない。少し楽をしたかっただけじゃ。人間の願いなど、だいたいそんなものじゃ。じゃが、楽になるとは、支えを減らすことでもある。支えが減れば、転びやすくもなる」
「説教ですか」
「宇宙規模のアフターサービスじゃ」
誠一は笑えなかった。神様は窓の外を見た。夜の街では、街灯に照らされた雨粒が、普通より長く空中に残っていた。落ちるのを迷っているようだった。
「どうすればいいんですか」
「生きるしかないの」
それだけ言って、神様は消えた。
退院後、誠一は少し変わった。
痩せたわけではない。急に立派な人物になったわけでもない。相変わらず大盛りの誘惑には弱いし、休日はソファに沈むのが好きだった。ただ、動く前に考えるようになった。物を押すときは、どこで止めるかを先に見る。階段を上るときは、跳ねない。軽くなった体を信用しすぎない。会社では倉庫の安全係に志願し、棚の固定、荷物の配置、台車の速度制限を細かく見直した。
田辺は最初、「佐野さんが安全係って、前は一番動かなかった人なのに」と笑った。誠一も笑った。
「動きたくないから、安全に動きたいんだよ」
その理屈は妙に説得力があった。
世界も少しずつ変わっていった。子どもたちは重力半分用の体育を覚えた。建物には浮き上がり防止の基準ができた。車は低速で走り、タイヤは重くなり、靴には地面をつかむ新素材が使われた。天気予報には「浮遊雨量」という新しい指標が加わった。プロ野球は球場の天井ネットを高くし、ホームランの定義を変えた。人々は文句を言いながら、少しずつ新しい重さに慣れていった。
ある朝、誠一は駅の階段の下に立った。あの日と同じ駅だった。エスカレーターは動いている。エレベーターも空いている。だが、誠一は階段を選んだ。

一段目に足をかける。体は軽い。けれど、その軽さを喜ぶだけではもう済まない。自分の足が床を押し、床が自分を押し返す。その当たり前だったやり取りが、今は少し心細い。誠一は手すりに軽く触れながら、ゆっくり上った。
踊り場の窓から、街が見えた。ビルの屋上には固定ワイヤーが張られ、空には低く長い雲が漂っている。歩道では、小学生が跳ねすぎないように先生に注意されていた。配送員は重りつきの台車を押し、老人は以前より楽そうに坂道を上がっている。良くなったものもある。悪くなったものもある。そのどちらも、もう元には戻らない。
誠一は息を吐いた。以前なら、この程度の階段で汗をかき、自分の体を恨んでいた。今は違う。世界のほうが変わってしまった。そして、その原因の中心に、自分の何気ない願いがある。
階段を上りきると、ホームに電車が入ってきた。ブレーキ音は昔より長く、慎重だった。人々は黄色い線の内側で、少し腰を落として待っている。誠一も同じように立った。軽くなった体を、きちんと地面につなぎとめるように。
電車の窓に映った自分は、相変わらず太っていた。だが、少しだけ背筋が伸びていた。
発車ベルが鳴る。誠一は鞄の持ち手を握り直した。重さは半分になった。責任は、たぶん半分にはならない。
それでも彼は電車に乗った。この変わってしまった世界で、今日も会社へ行くために。
