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水曜日はカレーを食べたい

水曜日の昼になると、宮沢悟は無意識に社員食堂の入口で足をゆるめた。三十八歳、事務機器メーカーの資材部。毎日、部品単価と納期と上司の機嫌を見比べている男にとって、週の真ん中にあるカレーは、ほとんど灯台のようなものだった。

以前、この会社の食堂では、毎週水曜日がカレーの日だった。銀色の大鍋に、とろりとしたカレーが湯気を立て、福神漬けの赤が、やけに鮮やかに見えた。味は普通だった。社食らしく甘く、社食らしく薄く、社食らしくじゃがいもが大きすぎた。それでも水曜日に食べるカレーは、水曜日に食べるという理由だけで、少しだけうまかった。

ところが、物価高騰というやつは、誰にも断りなく人の楽しみを削っていく。米の値段が上がり、油も上がり、玉ねぎも上がり、肉は最初から高かった。食堂のメニュー表から、唐揚げ定食が消え、焼き魚が月一になり、やがて水曜カレーも「隔週提供」に変わった。

その週は、ちょうどカレーのない水曜日だった。メニュー表には、白身魚の野菜あんかけと、豆腐ハンバーグと、小鉢つきうどんが並んでいた。悟は悪くないメニューだと思った。悪くはない。だが、水曜日に豆腐ハンバーグを食べるために、自分は火曜日の午後を乗り切ったのではない。

「水曜日なのに、カレーがないのか」

食券機の前で、悟は小さくつぶやいた。そのときだった。食券機の釣り銭口から、きらりと光るものがこぼれ落ちた。百円玉かと思って拾おうとしたら、それは小さな星だった。米粒ほどの銀河が、床の上でくるくる回っている。悟が目をこすった瞬間、社員食堂のざわめきがぴたりと止まった。

白身魚のトレーを持った総務の吉田さんも、箸を持ち上げたまま固まっている。湯気だけが動いていた。悟の前に、白い作業服のようなものを着た老人が立っていた。髭は長いが、社員食堂に妙になじんでいる。頭には安全第一と書かれた黄色いヘルメットをかぶっていた。

『お主の願いをなんでも叶えてやろう』

悟は数秒、黙った。疲れているのだと思った。月末処理と見積改定が重なったせいだ。だが、目の前の老人は、社員証の代わりに土星の輪のようなものを首から下げていた。

「なんでも、ですか」

『なんでもじゃ。ただし、宇宙の帳尻は宇宙が取る』

「じゃあ……」

悟は食券機のメニュー表を見た。白身魚、豆腐、うどん。どれも悪くない。悪くないものばかりが並んだ水曜日ほど、心を削るものはない。

「水曜日はカレーを食べたいです。」

老人は、にやりと笑った。

『お主の願いを叶えよう』

次の瞬間、社員食堂のざわめきが戻った。吉田さんの箸が動き、奥の厨房で誰かが「カレー粉、どこ?」と叫んだ。メニュー表の白身魚の文字が、しゅるしゅると書き換わっていく。水曜カレー。大盛り無料。福神漬けあり。

悟は、口を開けたまま立っていた。食券機のボタンが、あたかも最初からそこにあったような顔で「カレーライス」と光っている。半信半疑で食券を買うと、厨房のおばちゃんが笑顔で言った。

「宮沢さん、今日はカレーですよ」

「そうですね」

悟はトレーを受け取り、窓際の席に座った。カレーは、いつものカレーだった。甘く、薄く、じゃがいもが大きい。だが一口食べた瞬間、悟は目を閉じた。世界は案外、これくらいのことで持ち直す。水曜日にカレーがある。それだけで、午前中に三回も差し戻された見積書のことが、少しだけ遠くなった。

翌週も水曜日はカレーだった。その次の週もカレーだった。食堂の掲示板には「水曜カレー復活!」と手書きのポスターが貼られた。悟は誰にも言わなかった。言っても信じてもらえないし、なにより、自分が宇宙に頼んで復活させた社食カレーというのは、少し恥ずかしかった。

最初の数か月、願いは完璧だった。水曜日の朝、出社するときの足取りが軽くなった。午前十時半になると、腹が自然とカレーの準備を始める。昼休みには資材部の同僚たちも、なんとなくカレーを選ぶようになった。

「やっぱ水曜はカレーだよな」

隣の席の田辺が言った。田辺は本来、そば派だった。冷たいそばに七味を山ほどかける男だった。それなのに水曜日だけは、スプーンを握って満足そうにしている。

「そうだな」

悟は答えた。自分の願いが、少しだけ他人も幸せにしているようで、悪い気はしなかった。

変化に気づいたのは、半年後だった。

水曜日の朝、コンビニに寄ると、弁当棚がすべてカレーだった。カツカレー、チキンカレー、キーマカレー、グリーンカレー、カレーうどん、カレーまん。棚の端に申し訳程度に置かれたサラダにも、カレードレッシングが添えられていた。

「今日はカレーばっかりですね」

悟が言うと、店員は当然のように答えた。

「水曜日ですから」

その言い方に、悟は少し引っかかった。会社に着くと、受付横の自販機に「カレースープ」が追加されていた。会議室では、営業部が新商品の販促案を話し合っていた。

「水曜日限定で、トナー購入者にレトルトカレーをつけるキャンペーンはどうでしょう」

「いいね。水曜はカレーだし」

資材部にも影響が出始めた。取引先からの納期回答メールに、妙な一文が混じるようになった。

「水曜日は社内カレー対応のため、出荷業務が一部遅延します」

最初は冗談かと思った。しかし、同じ文面が別の会社からも届いた。物流会社からも、包装資材メーカーからも、海外の部品商社からも届いた。水曜日になると、世界中のどこかで人々がカレーを食べたがり、そのために昼の時間帯の作業効率が少しだけ落ちるらしかった。

テレビでは「水曜カレー経済圏」という言葉が生まれた。専門家が、スパイス輸入量の推移を示しながら語っていた。

「水曜日にカレー関連商品の需要が集中する傾向は、ここ数年で顕著になっています。特にクミン、ターメリック、コリアンダーの価格上昇が目立ちます」

悟はリビングでそのニュースを見ながら、スプーンを落としそうになった。妻の美香が、台所から顔を出した。

「悟、明日カレーでいい?」

「明日は木曜日だよ」

「あ、そっか。じゃあ今日は?」

「今日は水曜日だよ」

「じゃあカレーね」

会話に間違いはなかった。だが、その間違いのなさが怖かった。

翌年、水曜日はさらに濃くなった。世界は水曜日を中心に献立を組むようになった。学校給食はほぼ全国的に水曜カレーとなり、病院食も「低刺激カレー風味」を開発した。航空会社は水曜便の機内食をカレーに統一し、国際会議では「水曜日の昼食にカレーを出すか否か」が外交儀礼の問題になった。

水曜日が地球を西へ進むたび、カレーの匂いも時差とともに移動する。ニュース番組はそれを「カレー前線」と呼んだ。気象予報士が、天気図の隅で真顔のまま言う。

「明日の正午ごろ、関東地方に強いカレー前線が接近します。換気には十分ご注意ください」

笑える話のはずだった。だが、笑っているうちに、笑いごとではなくなっていった。

スパイスの需要が膨らみ、産地では作付けが偏った。小麦や豆の畑が、ターメリックや唐辛子に変わった。カレーに合う米の品種が優先され、そうでない米は「水曜適性が低い」と値を下げた。玉ねぎの先物価格は水曜日の前日に跳ね上がり、資材部の田辺は、部品の話より玉ねぎの相場に詳しくなった。

「宮沢さん、やばいですよ。水曜前の物流、完全に読めません」

田辺は見積書を持ってきて、眉間にしわを寄せた。

「また遅延?」

「違います。相手先の工場、毎週水曜の午前中にカレーの下ごしらえでラインが止まるらしいです」

「工場で?」

「全員が食べたいから、食堂だけじゃ追いつかないんですって。部署ごとにじゃがいも剥いてるらしいです」

悟は笑いかけて、笑えなかった。水曜日のカレーは、もはや昼食ではなかった。社会の予定表に組み込まれた現象だった。

そして、人間の心にも変化が出た。水曜日にカレーを食べられなかった人は、午後から妙に落ち込むようになった。医学的には問題ないとされたが、本人たちは口をそろえて言う。「水曜日なのに、自分だけ世界から外れた気がする」と。

ある水曜日、悟は出張で地方の協力工場へ向かった。昼休みをまたぐ移動だった。駅の売店で弁当を買おうとしたが、カレー弁当はすべて売り切れていた。新幹線の車内販売も水曜カレー需要に敗北していた。悟は仕方なく、鮭のおにぎりを買った。

おにぎりを一口食べた瞬間、舌が違和感を覚えた。鮭の塩気の奥に、かすかにカレー粉の香りがした。原材料表示には、そんなことは書かれていない。だが、米も、海苔も、鮭も、どこかで水曜日を意識していた。

協力工場に着くと、応接室に出されたお茶まで、ほんのりスパイスの匂いがした。

「最近、こういうの多いですね」

工場長が苦笑した。

「水曜になると、何を飲んでもカレーっぽい。機械油までカレーの匂いがするんです。作業員が腹を空かせて困りましてね」

その日の帰り、悟は駅のホームで、自分の胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じた。自分はただ、会社の食堂で水曜日にカレーを食べたかっただけだ。世界の畑を変えたかったわけではない。物流を乱したかったわけでもない。おにぎりにカレーの影を落としたかったわけでもない。

その夜、悟は家でカレーを食べなかった。美香が作ったのは、鯖の味噌煮だった。水曜日に鯖の味噌煮を出すという行為は、今では少し反社会的ですらあった。

「たまには違うものがいいと思って」

美香はそう言って、味噌汁を置いた。悟はありがたく箸を取った。だが、鯖の味噌煮を口に入れた瞬間、甘い味噌の向こうから、またかすかなクミンが顔を出した。悟は箸を置いた。

「どうしたの」

「ごめん。俺のせいかもしれない」

「何が?」

「世界が、水曜日にカレーを食べたがってる」

美香はしばらく悟を見ていた。そして、静かに言った。

「疲れてるなら、明日休んだら」

もっともな反応だった。悟はうなずいた。だがその夜、眠れなかった。スマホでニュースを見ると、「水曜カレー疲れ」という言葉がトレンドに入っていた。海外では「Wednesday Curry Syndrome」と呼ばれ、研究者たちが真面目に論文を書き始めていた。宗教団体は、これは新しい暦の啓示だと主張し、食品メーカーは水曜専用レトルトの増産を発表した。

翌週の水曜日、悟は会社の屋上へ上がった。昼休みの食堂から、いつものカレーの匂いが上ってくる。その匂いは好きだった。好きだったはずなのに、今は少し怖かった。屋上のフェンス越しに見る街は、どこも同じ匂いをしているように思えた。ビルの谷間から、黄色い湯気が立ちのぼっている。

「取り消してほしい」

悟はつぶやいた。

「お願いします。あの願いを、取り消してください」

フェンスの影から、あの老人が出てきた。今度は白衣ではなく、食堂のおばちゃんと同じ三角巾をかぶっていた。手には銀色の大鍋を持っている。

『ずいぶん早かったのう』

「早くないです。もう一年以上経ってます」

『宇宙から見れば、じゃがいもを煮る時間にも満たん』

「こんなことになるなんて思わなかったんです。俺は、自分が水曜日にカレーを食べたかっただけで」

『お主はそう言わなかった』

老人は大鍋を足元に置いた。鍋の中には、星雲のように渦巻くカレーがあった。ターメリック色の銀河。赤い星雲の唐辛子。暗黒物質のような焦げ。

『お主は「水曜日はカレーを食べたいです」と言った。主語を指定せず、場所も限定せず、量も頻度も定義せず、ただ水曜日とカレーと食欲を結びつけた。宇宙は、曖昧な願いを嫌う。嫌うが、叶える』

「じゃあ、訂正します。会社の食堂で、俺だけが、週に一度、普通のカレーを食べられればよかったんです」

『後から仕様書を出すでない』

「お願いします」

悟は頭を下げた。屋上のコンクリートに、自分の靴先が見えた。中年の会社員が、宇宙の創造主に向かって、社食カレーの件で頭を下げている。あまりにも情けなくて、涙が出そうだった。

神様は、悪びれた様子もなく言った。

『ダメじゃ。願いを取り消さないのがワシのポリシーじゃ』

予想していた言葉だった。それでも、実際に聞くと胸が沈んだ。

「じゃあ、このままなんですか」

『このままではない。世界は慣れる。人間は、たいていの異常を制度にする』

神様は屋上の端まで歩き、街を見下ろした。

『お主らは、雨にも税にも月曜日にも慣れた。水曜日のカレーにも、そのうち慣れる』

「慣れていいんですか」

『それはワシが決めることではない。お主らが決めることじゃ』

そう言うと、神様は大鍋ごと消えた。残ったのは、スパイスの匂いだけだった。

その後、世界は完全には元に戻らなかった。水曜日は相変わらずカレーの日だった。だが、人々は少しずつ工夫を始めた。スパイスの需要を分散するために、火曜日の夜に下ごしらえをする企業が増えた。学校では、水曜カレーの隣に「非カレー選択権」が置かれるようになった。病院では、匂いの少ない透明なカレー風ゼリーが開発された。好評ではなかったが、努力は認められた。

悟の会社でも、「水曜カレー対策会議」が開かれた。最初は冗談みたいな会議名だったが、議題は真面目だった。昼休みの混雑緩和、午後一番の会議禁止、匂いに弱い社員のための別室確保、スパイス価格高騰に伴う食堂予算の見直し。なぜか資材部の悟が担当に選ばれた。

「宮沢さん、カレー好きだから」

総務部長はそう言った。悟は否定しなかった。否定する資格がない気がした。

悟は、水曜日の食堂に小さな掲示を出した。

「水曜日はカレーの日です。でも、カレーを食べない水曜日も、間違いではありません」

最初、その文章を読んだ社員たちは少し笑った。だが、何人かはうなずいた。田辺はカレーの隣で、冷たいそばを食べるようになった。ただし、つゆに少しだけカレー粉を入れていた。

「完全に逆らうのは怖いんで」

「無理するなよ」

「宮沢さんこそ」

悟は笑った。

水曜日のカレーは、今も続いている。街は水曜日になると、どこか黄色く見える。駅前のパン屋はカレーパンを焼き、コンビニはカレー弁当を積み、家庭の台所では玉ねぎが炒められる。世界中のどこかで、誰かが「またカレーか」と言い、別の誰かが「水曜日だからね」と答える。

悟は毎週水曜日、社員食堂でカレーを食べる。昔より値段は少し高くなった。じゃがいもは小さくなった。肉も減った。だが、福神漬けはまだ赤い。スプーンを持つと、あの日の自分の軽率さを思い出す。宇宙に向かって願いを言うなら、せめて主語と範囲を指定すべきだった。

それでも、カレーを一口食べると、やはり少しだけうまい。困ったことに、本当に少しだけうまいのだ。

窓の外では、水曜日の午後がゆっくり流れている。世界は変わってしまった。完全には戻らない。悟はそれを知っている。だから彼は、食べ終えた皿を返却口に置き、午後の会議資料を抱えて歩き出す。廊下には、まだかすかにカレーの匂いが残っていた。

その匂いの中で、悟は思う。

来週の水曜日も、たぶんカレーだ。

そして自分は、その世界で仕事をして、家に帰って、木曜日には別のものを食べるのだ。

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