【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part31【「第11章 声種」p111_1行〜p113_12行】
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第11章 声種(p111_1行〜)に入っていきます。
第11章 声種(p111_1〜p113_12)
今回の三行まとめはこちらです。
・訓練の初めに見出されるパートが本当に適正である場合は稀だ。
・「ふつうの人間」の声は未開放で、その喉がもつ可能性を全て示すことはほとんどない。
・個々の声種(パート)にはあらゆる中間形が存在する。
・訓練の初めに見出される声域が、その声の属する声種を示すことはまれだ。(p111_1〜11)
まず、声種とはなにか。
小学校で合唱をやったことがある方でしたら、「パート」と言う言葉は聞き馴染みがあるかと思います。
中学校や高校などで合唱をする際はソプラノ、アルト、テノール(テナー)、バスなどにパート分けして歌いますよね。
基本的ににソプラノは高い音が多いパートであることが多く、アルトは低い音が多いパートであることが多いです。
そしてそのパートを決める際に、訓練し始めに判断された声域が、声が属する声種(パート)を示すことは珍しいと述べられています。
その例として、
・高い音程(ソプラノ)が出る人が、低い音程はアルトよりもっと広い音域を出せる。
・アルトでいながら、ファルセット声区が非常に発達していて、ソプラノの人にとっても難しい高い音域まで出せる。
ということがあり、これは女声だけでなく男声においても当てはまると説明されます。
これについては納得感がある方、全くピンとこない方、両者いらっしゃるかと思います。
例えば人間の喉がパッキリ構造わけされていて、アルトの人とソプラノの人が全く違う筋肉を持っているのであれば、判断は容易だったかもしれません。
しかし実際のところは人間の喉が持つ筋肉自体は基本的に同じです。
(Aさんの喉には他の人にはないスペシャル筋が備わっているからソプラノです、Bさんの喉にはそれが無いからアルトです、といったことはあり得ません。)
声紋という個人判別方法があるように、声が千差万別である以上、それを後から作ったパートという概念で分けることは非常に難しいことであることは想像に難くありません。
それはフースラーが続けて説明する以下の内容でも述べられています。
”喉頭鏡で見た喉頭の状態の解剖学的な像は、全く当てにならない。この点に関しての専門医達の判断なるものは、そうやって行われた多くのものが、全く驚くべき程に互いに矛盾した結果を示すことがしばしばであるということで、前記のことを実証している。”
人間の喉頭を観察した結果から声種、パートを判断しようとしても、矛盾した結果を示してしまうということです。
・声種を決める手がかりについて(p111_11〜p112_9)
それに対して最もよいやり方として述べられるのは「声の音色から判断する」方法です。
(音色という言葉は原著英語版では”sound”で「音、響き、音響」というニュアンスであることは留意しつつ読んでいきます。)
これは非常にシンプルです。
ただしフースラーは続けて「そういう診断に熟練している人にとってはの話」と述べます。
なぜそれが簡単ではないのか、それは喉頭器官の使い方によって作られる声の響きと声帯の「持ち前の特質(原著英語版では容積)」によって生じる声の響きは区別が難しいことが多いからであると述べられます。
そもそも、声の訓練を行なっていくと声の響きは元のものとは異なったものになっていきます。(訓練を受ける方は声の響きを自分の思うがままに、自分の悩みが解消されるように変えていきたいという思いがある場合がほとんどです。)
それは喉頭器官の使い方、発声器官の使い方による違いであって、声帯の生まれ持った容積による違いと混同されやすいということです。
他にも声種を決める手がかりとして、(前提として解放された声であるとして)高音域を維持することが容易いか困難かで判断することができると述べられます。
これは前提として「解放された声」であることが設定されているため、そもそもこれで判断するにはまだ発声器官の解放され具合が足りない場合もあるということと捉えています。
その証拠に、続けて「困難な場合は、どんな早まった決定もひとまず捨てて、声を徹底的に解放してやるのである」と述べられています。
まずは声を解放すること、あくまでそれが前提であるわけです。
覆面のテノール、覆面のソプラノという表現が用いられる段落では、ここまでの裏付けとして、「解放をおろそかにした場合」に起こる「声種の決めつけ」が説明されています。
本来はテノール、ソプラノの人とされるのが適切な判断である場面でも、バリトンやアルトと決めつけられてしまうということが起こることが述べられています。
・ふつうの人間の声は、その未解放性のために、ほとんどその全部の可能性を示すことはない。(p112_10〜31)
高音が足りていようがいまいが、低音が足りていようがいまいが、それがそのままイコール声種(パート)という証明にはならないとフースラーは述べます。
さらに、こういった声種(パート)についての議論の際には、フースラーは音声専門医とは対立した構図であることが、ここで述べられているのです。
・いつも行われる誤った結論が、音声専門医によって助長される。
・その誤った結論の一例として有名な音声学者の著書から引用する。
”自然は各々の人間に、声の高低に関してある限界を定めた。例えば自分でその限界を乗り越えようと試みてもいいし、多くの診察時間の症例で、破滅してしまった歌手の声を思い浮かべても良い。そのような歌手の声は、自然はせいぜいバリトンかメゾソプラノに決めていたのに、教師がテノールかソプラノにするべく訓練してしまったからである”
ここまでのフースラーの引用と述べている内容から、
音声学者や専門医は「歌手の声が破滅してしまうのは発声教師がその歌手が自然に定められた音域を越えようとくんれんしてしまったからだ」
と述べており、それを「誤った結論」と切り捨てるフースラーが対立関係であることが読み取れます。
続けてフースラーは「自然が声の高低を定めるのはいうまでもない」としつつ、「しかしその限界は著しく小さく見られ過ぎている」と言います。
これが、前の段から続くように、歌手の喉が解放されていないが故に、その限界が小さく見積もられてしまっているのだということにつながるのです。
では音声専門医のいう「破滅した歌手」とは何か?
それはフースラーの記述から以下の2点の可能性が考えられます。
・高音の方へ甚だしく努力し過ぎた?
・高音の訓練をあまりにも少ししか努力しなかった?
極めてシンプルな回答です。
・個々の声種の間にはあらゆる中間形が存在する。(p112_32〜p113_2)
3行でサラッと述べられている内容ですがこの記述が結論であると私は考えています。
自然は作曲家のように合理的に声種を分けていないとフースラーの記述にもありますが、人間の喉は自然に作られた動物の持つものである一方、声楽や音楽の技術知識というのは常に人間の知能的な側面が露わとなっている内容です。
本能的なものか、知能的なものか、そこが根本から異なっているため、そもそもそれを断ずること自体が難しいことであると私は考えます。
・「リリック」な歌声が「ドラマティック」な歌声に変わっていってその発声器官をダメにしてしまった時、ファルセットが失われているのである。
「リリック」=抒情的
「ドラマティック」=劇的
抒情的に歌い上げていた歌手が劇的に歌い上げるようになっていった結果、発声器官をダメにしてしまう、一般的にいう喉を壊すという表現でしょうか。
そういった場合は確実にファルセットが失われていると述べられているわけです。
そもそも抒情的か劇的かの歌声の違いは、声帯の形(これは声帯の元々の形、ではなく発声器官の筋肉達を持って作り上げられた形を指しています)、緊張能力、呼吸器官の活力度合いによってきまるとフースラーは述べています。
この段は若干結論がわかりにくいですが、抒情的な歌い方をする歌手はファルセットの力を持ってその表現を可能としていて、後から身につけた劇的な歌い方を使いすぎるあまりファルセットの力が失われるようになって、発声器官をダメにしているのだと言いたいのだと私は捉えています。
逆に言えば初めから「よくない歌手」が劇的な歌い方を身につけたとして、それだけではファルセットの力の存在感が弱く、抒情的に歌うことは難しいということなので、ここの記述から読み取れることは「ファルセットが重要だとフースラーは捉えている」ということであると考えています。
さて、今回で第11章が終わりました。
次回は第12章、声の美しさ に入っていきますので、よろしくお願いします。
