【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part29【「第10章 声楽演奏のための種々な要素」p104_5行〜p106_21行】
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第10章 声楽演奏のための種々な要素、ピアノ(p104_5〜)に入っていきます。
第10章 声楽演奏のための種々な要素(p101_1〜p110_20)
今回の三行まとめはこちらです。
・良いピアノの歌声とは、良いフォルテと同様によく透り、よく膨らませ得るものである。
・ピアノで歌う時も喉頭懸垂筋群を働かせるのは重要である。
・コロラチュラで歌うことは、発声器官が目覚めてさえいればよいのだから特別な技巧ではない。
この章では、ここまでの内容で学んできた「声」に関する知識をベースとして、様々な声楽歌唱テクニックについての解説が行われます。
今回はp104_5、ピアノについての解説から入っていきます。
・ピアノ(p104_5〜p105_9)
ピアノの歌声は簡単な技術ではないと解説版でも触れられ、フースラーも翻訳版で『ただ単に弱く歌っただけでは、声楽的な弱声ではない』と述べています。
この見出しで最初にフースラーが述べていることのメインとなる内容は、「よいピアノとは何か」です。
『良いピアノの歌声とは、良いフォルテと同様によく透り、よく膨らませ得るものである』
おそらく多くの方が小学校などの合唱で、ピアノで歌うという指示が楽譜にあり、実行した経験があるかと思いますが、「具体的に」、「理想的なピアノの歌声」がどういったものかを教わった経験がある方は少ないかと思います。
フースラーはその「理想的なピアノの歌声」をここで説明している訳です。
「理想的なピアノの歌声」の条件は2つ、
1.良いフォルテと同様によく透るもの
2.よく膨らませ得るもの
この2点です。
1つ目の「透る」を、私は「透明感」と「通りのよい(遠くまで届く、響く)」といった2つの意味が重なっている認識で読んでいます。
2つ目の「膨らませ」ることは、フォルテの説明でもありました。
これはフォルテの時と同様、膨らませられるかどうかは喉頭懸垂筋群の働きにかかっているという点も同様であると述べられています。
またこの「よく透る」ピアノの歌声を作り出すためには、声帯の伸展、呼気の密度も関係すると続けられているように、これまたフォルテと同様、呼吸器官を含めた「発声器官全体」が一体となって作り出されるのが理想的なピアノであるということがこれらの記述から推察できます。
『気息的な声は声門間隙が広い状態、または呼気圧迫状態に耐えられなくなった声帯から息が漏れる状態があるものの、どちらにしてもそういった状態は「よく透る」歌声では無い』と述べられる通り、これらの状態は発声器官が一体となった理想的な状態では無いため、これまた理想的なピアノとはならないというのがフースラーの述べる「理想的なピアノの歌声」の記述です。
『ピアノは弱頭声とメザヴォーチェ、2種類の出し方がある。』
弱頭声は主に北欧で用いられ、メザヴォーチェはイタリア流派のやり方であると述べられるところから始まります。
まずはメザヴォーチェの説明からです。
どちらも伸展筋、すなわち輪状甲状筋の強い働きがあることは確かですが、メザヴォーチェではそれに加えて披裂声帯筋、甲状声帯筋、いわゆる声帯の縁に関わる筋肉の働きが加わると述べられます。
これらの筋肉によって声帯の縁の張りが得られ、声門間隙がよく閉じられて、先ほど述べられた「よく透る歌声では無い、気息的な声」にならないということがこれらの記述から推察できます。
メザヴォーチェはイタリア語で「半分の声」という意味で、ここまでの記述の内、アンザッツ3bの説明で登場しています。
いわゆる「フルヴォイス」との違いはボリュームの違いであると説明されますが、これは声帯内筋の働き具合の差であると考えることができます。
声帯を伸展させる輪状甲状筋、縁の張りにかかわる披裂声帯筋等、これらに加えて声帯内筋の参加がより多いのがフルヴォイス、より少ないのがメザヴォーチェと言いたいのだと推察しています。
続けて弱頭声の説明。
逆説的に、メザヴォーチェの際に働いていた声帯の縁に関わる筋肉の働きが欠けるor低下した状態の声であることが述べられています。
『この声は南欧の聴衆の好みではないものの、先ほど述べられた「フルヴォイス」とともに用いられることで美しく漂うような特性を示し、数多の音楽スタイル(例:ドイツ・リート)にとってなくてはならないもの』と続けられる通り、
つまりは1つの音楽的表現として、弱頭声が用いられる場面があるということです。
『ピアノで歌う時も喉頭懸垂筋群を働かせるのは重要である。』
ピアノについての最後の記述です。
何度も口酸っぱく登場する、「喉頭懸垂筋群」を働かせる重要性がここでも登場します。
『これが働かないままだと「虚脱した」声となり、こういった声を多用しすぎると、発声器官にとって危険であり、永久的な喉頭懸垂金軍の萎縮が起こることで、よく透る声を出すことが不可能となる。』
といったことがここで述べられています。
・マルテラート(強打アクセント)(p105_10〜24)
『スタッカートと似ているが、マルテラート(=コルポ・ディ・ペット)はそれよりはるかに強い声である。』
これは解説版によると、声楽用語としてなじみが薄い用語とのこと。(弦楽器奏者の間ではよく用いられるそうですが)
また同様に解説版の記述によるところですが、マルテラートとは、『スタッカートと似ているが遥かに強い声であり、軽快さは欠ける』と説明されています。
それを踏まえた上でフースラーの記述を見ていきましょう。
マルテラートはイタリア流派で、「コルポ・ディ・ペット」=「胸部打撃」と呼ばれるもので、「声門打撃」とは別物であるということが頭から述べられます。
この技術は声門、すなわち声帯で生み出される衝撃、打撃では無いということになります。
それはこの後に続く記述からもわかります。
『非常に敏速に横隔膜ー腹壁ー背中の筋肉群の協力作業によって行われ、これが喉頭の働きと密接に協調する。』
『この際呼気の関与は最小限である。どんなことがあっても呼気が駆動力になってはならないし、呼気は全く声門の下に集積してはならない。』
声門、声帯で衝撃音や打撃音が鳴るとしたら、それは呼気、あるいは吸気…つまりそこを通る空気によって声帯が振動しなければなりませんし、空気が駆動力となってはならないというのであれば、「声門打撃ではないのだ」というその手前の記述とも整合性が取れます。
イタリア流派では「優れた訓練法」とされているようですが、フースラーは「この打撃を試みることには断固として警告したい」と述べているように、危険度の高い訓練であることが読み取れます。
・コロラチュラ(p105_25〜p106_14)
コロラチュラ=コロラトゥーラです。
コロラチュラ・ソプラノという言葉が、以前の「懸垂機構」(p41)に登場していますが、その時は『懸垂機能の故障によって喉頭を上げすぎてしまう症状が現れる、これの程度が軽いものは特にテノール、コロラチュラソプラノの人々に見られる。』といった表現で用いられていました。
この見出しを読む際、声楽用語に明るく無い方の場合はまず「コロラチュラとはなにか」が説明されないために混乱してしまうかと思います。
ではコロラチュラ(コロラトゥーラ)とは何か、
これはイタリア語の声楽用語で、「旋律に細かく速い音符の連なりを用いて装飾を施し、まるで声を転がすように歌う技法」です。
補足として、音価の長い音符(中が塗られていない音符)に変化をつけて、音価の短い音符(黒く塗りつぶされた)に変えていくことから、イタリア語のcolorire、「色を塗る、着色する」という意味を持つ言葉を当てて、コロラトゥーラと呼ばれるようになった背景があるそうです。(「コロコロ転がって美しい!だからコロラチュラ!沖縄では美をちゅらって言うし!」という意味ではないようです。)
コロラチュラ(コロラトゥーラ)が使われる曲の例としてよく挙げられるのがモーツァルトの魔笛、夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」です。
ここまでコロラチュラとは何かを説明してきましたが、補足情報を削ぎ落とせば細かく速い音符の連なりで装飾を行う技法のこととされています。
ではこの前提知識をもってフースラーの記述を見ていきます。
『コロラチュラで歌うことは、技巧的なこと、極めて芸術的なこと、「技術的なこと」と一般に捉えられているが、実際のところは「まったく反対」なのである。』
続く『未熟な声で最も輝かしいコロラチュラが歌われることさえまれではない』に書かれている「未熟な声」は、この手前の記述から推察するに「技術的に未熟な声」だと考えられます。
さて、ここまで一緒に読んでくださった方であれば最早(以下略)で通じてしまう可能性もありますが、全ては「発声器官」の解放が重要という説明に繋がっていきます。
『発声器官が目覚めており、神経支配が行き届いており、律動的な活動が自由にできるようになっていれば、歌う時に必要などんなことでも流暢に片付けることは簡単なのである。このことは低い声にも高い声にも当てはまる』
コロラチュラの前提の説明では「技術」と言われていると説明しましたが、フースラーはそうではなく、「発声器官が解放されていれば、そのように歌うことすら特殊な技術ではなく、簡単なこと」と述べているわけです。
ゆえに優れた流派で行われるコロラチュラの訓練は、「コロラチュラという技術を身につける」ために行われるのではなく、「発声器官を目覚めさせる」ために行われると続けられます。
そしてここでサラッと書かれている以下の文は重要であると私は捉えています。
『聞く能力の悪さが原因となって流暢に歌えないこともありうる』
・『流暢さのなさ加減が聴覚を原因にすることもありうる。8音の簡単な繋がりをあらかじめ聞いて覚えておくことができない歌い手もいる。』
・『そういった歌い手にとっては、解放された発声器官を持っていたとしても、役に立たないのは当然だろう。』
・『その歌い手が歌う時、歌う前に「1音ずつ探らなければならない」なら、発声器官に停滞と硬化を招く可能性があるのはもちろんである。』
聴覚の重要さがここで述べられています。
それゆえに私は重要と捉えています。
私はボイストレーニングを行うにあたって、聴覚が大事、自分で出す前にお手本をしっかりきくことが大事、とお伝えすることが度々ありますが、こういったところから……つまりは「発声器官が解放されていてもよく聞けていなければ、歌う時に音を探ってしまうから発声器官が停滞、硬化、硬直してしまう」ということが起こりうることを危惧している為です。
また、発声器官を解放していくトレーニングを行う過程においても、「聞くこと」ができていなければそもそもトレーニングが意図したものにならない可能性も高くなります。
「声を出す」ということを意識するあまり、その手前に存在する「よく聞く」が疎かとなっている場面はよく目にしますので、しっかり注意を払っていきたい点であると考えます。
・トリル(p106_15〜21)
『トリルとは喉頭の「ゆさぶり運動」である。』
この「ゆさぶり運動」は『アンザッツ2の練習によって最も早く、最も無技巧的に開発することができる』と述べられます。
『無技巧的に』という記述は、先ほどのコロラチュラ同様に、技術的なことではないのだという主張と取れます。
アンザッツ2は喉頭を下方に繋留する、これは第8章で説明された内容です。
これは胸骨甲状筋の働きがある状態を指しています。
それによって
『すべての妨害的な固定から逃れる。』
『すると、担当の筋肉が、トリルに必要な程度の自動性を獲得する。」
と述べられています。
「妨害的な固定」とは、第8章のフースラーの記述から、『喉頭が上方へ強直的に固く固定されるという危険』のことを指していると考えられます。
これは「妨害的な固定をされているとどうなってしまうか」から考えていくと理解しやすいと考えます。
トリルという喉頭が細かく動くゆさぶり運動を行うには、喉頭が妨害的に固定されてしまうとこういった運動がやりにくそうであることは想像できます。
逆に考えると柔軟性があればスムーズなゆさぶり運動が行えそうです。
しかし、ゆさぶり運動というのはあちこちに好き勝手動く状態かというと、そこまで自由ではないと私は考えます。
門外漢ですが、船で例えて考えると、海の上に船を停めておきたい時、当然波で揺さぶられているわけですが、そのまま放っておくと波に流されていってしまうかと思います。
そのためにアンカーする、つまり錨を下ろすわけです。
船はアンカーされても完全に固定されるわけではなく波にゆらゆらと揺らされながら(海の動きに柔軟に対応しつつ)も特定の場所から大きくは流されなくなります。
このアンカーにあたるのが胸骨甲状筋の働きで、それを簡単に開発できるのがアンザッツ2である、とフースラーは言いたいのだと考察しています。
(少し比喩表現が過ぎるため、本質からは外れた表現かもしれませんが、理解しやすさを優先しています。)
トリルについては記述が少ないですが、それは
・その手前の「コロラチュラ」の説明と同じ概念で説明できている
・トリルの過程については十分に研究された論文が引用されている
・アンザッツ2の練習で開発できることを説明している
というこれらの情報によって特別に繰り返し説明する必要がある部分がないためであると考えられます。
今回でピアノ、マルテラート、コロラチュラ、トリルの説明が終わり、残りは「メッサ・ディ・ヴォーチェ」「ベル・カント」となります。
ここまでに解説してきた内容は概ね繋がりのある内容でしたが、残り2つの見出しはこれまでとは少し違った内容となりますので、次回の更新でまとめて解説させていただきます。
よろしくお願いいたします。
